命を狙った皇帝のお飾り妃になりました―この謎、私が解決いたします―

「由羅、入るよ」

突然、紫釉に名前を呼ばれ、由羅はハッとして本から顔を上げた。
気づけば外は真っ暗で、いつの間に点けられたのか燭台に明かりが灯っていた。
たぶん、蘭香がつけてくれたのだろう。
すっかり集中して蘭香が来たことにも気づかなかった。

「あ! どうぞ」

部屋に入った紫釉は、不意に食卓に目を向けると由羅に尋ねてきた。

「由羅、ご飯を食べてなかったの? 具合でも悪い?」

そう言われて由羅も食卓を見ると、そこにはすっかり冷たくなった夕食が置きっぱなしになっている。

「あぁ、資料を読んでいたら集中しちゃっていたみたいで、ご飯を食べるのを忘れていました」
「資料?」

状況を掴めていない様子の紫釉は不思議そうに由羅を見る。

「はい、今朝凌空様がいらして、刑部の捜査資料を持ってきてくださったんです。時間があるのであれば、読めるなら読んでくださいって」
「由羅は、これを読んだの?」
「はい、そうですけど……」

何故紫釉が驚くのか分からず、由羅は首を傾げたが、一つの考えに及んだ。

「もしかして私が文字を読めないと思いましたか?」
「ごめん。そう思ってた」

文字の読み書きができる平民は稀である。
良家の者しか教育を受けられないからだ。
だから、紫釉は由羅が読み書きができることを意外に思ったのだろう。

「読み書きと計算はできますよ。科挙の試験を受けるには読み書きなんて当然できなきゃいけませんし」
「えっ!?か、科挙!? 受けたの? どうやって? というか、女性は無理じゃないの!?」

紫釉はあまりの驚きで矢継ぎ早に質問してくるので、由羅は一つ一つ説明することにした。

「貴族の屋敷に潜入したり、役人として潜り込んだり……黒の狼の仕事には潜入任務もあるんですよ。その時に文字が読めないとか計算ができないとかだと困るのです。だから勉強するんですよ。その一環として科挙を受ける必要があったんです」

崔袁(さいえん)は由羅と宇航(ゆはん)には暗殺のための武術よりも、このような知識の習得をさせたがった。

科挙の試験は確かに難関で、試験前は勉強漬けの毎日だった。
正直血の滲むような努力が必要だったが、宇航と励まし合い、競い合いながら勉強した日々は、今では懐かしい思い出だ。

「それで、受かったの?」
「はい。まぁ、中の上くらいの成績ですけど」

宇航はたぶん深花(3位)は取れていたようだ。
ただあまり好成績だと官吏になるのを辞退した際に目立つので、あえて回答を間違えたので正確には分からないが。

「あと、確かに女性は受験できないので、私は男に変装して受けました」

紫釉は言葉を失って呆然と由羅を見ている。
無言のままじっと見つめられ、由羅は戸惑いながら声をかけた。

「あの……紫釉様?」
「くくくっ……はははは!」

突然笑い出した紫釉に、今度は由羅が驚く番だった。

「な、何ですか?」
「いやぁ、予想外すぎて! 由羅、面白いね。 どうしよう、離したくなくなっちゃったな」

そう言って紫釉は心の底から笑うと、由羅をまっすぐに見つめてニコリと笑った。

「ねぇ由羅。もし、俺のお願いを聞いてくれたら参加できるようにしてあげる」
「本当ですか!? 私が出来る事なら!」

思わず身を乗り出してそう言った由羅の耳に、次の瞬間とんでもない言葉が飛び込んできた。

「そっか。じゃあ、俺の事好きって言って?」
「えっ?」

由羅は驚いて目を見開き紫釉を見つめた。

その瞳の奥に妖しい光が見える気がするのは気のせいだろうか?
とりあえず「好き」と一言言えば捜査に参加できる。
これは好機(チャンス)だ。

だが、「好き」と言ったら何か大変なことが起こると本能が告げた。

言い淀んでいると、紫釉が一歩距離を詰める。
由羅は思わず一歩下がった。

「ね、言って。そして俺の傍にいて」

蝋燭の仄かな明かりに照らされた紫釉の端整な顔は壮絶な色香があった。
そっと紫釉の親指が由羅の唇を撫でる。
由羅は息を呑み、紫釉の瞳から目を逸らせずにいた。

由羅の心臓が高速に動いて、爆発しそうだ。
何か言わなければこの状況から解放されないことは分かる。
由羅は何とか口を開いた。

「き」
「き?」
「嫌いではありません!!!」

艶っぽい空気を吹き飛ばすような大声に、紫釉は虚を突かれたような表情となった。
そして子供の我儘を許すかのように柔らかく苦笑した。

「仕方ないな。ま、今日はこのくらいにしてあげるよ」

何とか解放されて、由羅は大きく息を吐いた。
どうやら緊張で息を止めていたようだ。

「だけど、覚悟してね」

(なんの覚悟!?)

「ふふふ、明日、凌空の驚く顔が楽しみだなぁ」

そう言って、紫釉は何かを企むように悪戯っぽい笑みを浮かべた。




外は雲一つない晴天で、朝日が窓から差し込んでいる。
そんな爽やかな朝のひと時にも関わらず、この部屋の空気は重い。
由羅の隣には紫釉が座り、その向かいには凌空と泰然が座っている。

泰然がふわぁと大きなあくびをした一方で、凌空はにっこりと微笑んでいるが、纏っている空気は決して穏やかなものではない。
というより、この部屋の空気を重くしているのは、この凌空が醸し出している黒く棘々しい空気が原因に他ならない。

由羅はこの状況が分からず、一人困惑していた。
朝早くに紫釉が来たかと思うと、それに続いて凌空と泰然がやってきて、こうして(テーブル)を囲んでいるのだから。

(な、何が起ころうとしているの?)

予想もつかない展開に由羅が内心ドキドキとしていると、凌空が微笑みを浮かべたまま口を開いた。

「主上、貴方はよくよく非常識な時間に私を呼び付けますね」
「そんなのいつもの事だろ? 俺はもう慣れたけど……ふわぁ~やっぱ眠いな」

泰然が再び大あくびをするのを横目で見ながら、凌空ははぁと大きなため息をついた。

「あまり慣れたくはありませんが、泰然の言う通りですね。主上に振り回されるのはいつもの事でしたね。……それで由羅さんの部屋に集められた理由は何でしょうか?」

紫釉は凌空の問いには答えず、突然由羅に話を振った。

「ねぇ、由羅。『戰勝與否,兵力並必然比例不定』この続きは?」
「えっ!? 突然何ですか?」

紫釉に突然話を振られて、由羅は思わず驚きの声を上げたが、紫釉はにこにこと笑いながら視線で先を言うように促してきた。
その意図は分からないものの、答えないわけにはいかない雰囲気だ。

(えっと科挙の試験の時に覚えたわね。確か鸞人(らんじん)の「三兵法(さんへいほう)」に出てくる一文だったはず)

由羅は受験勉強をしていた当時の記憶を掘り起こしながら答えた。

「『自知己、知彼敵、深知情報、乃為戰勝之要訣』だったはずですけど」
「うん、正解」

だからどうしたのかと由羅は首を傾げたが、前に座っている凌空と泰然が目を見開き、驚いた様子でこちらを見ていた。

何か、変なことを言っただろうか?
戸惑う由羅に気づかないかのように、紫釉は更に尋ねてきた。

「じゃあ、()龍傑(りゅうけつ)の『双武録(そうぶろく)』にある第3節の冒頭を言ってみて」
「ええ? 紫釉様、本当に何ですか?」
「いいから、言ってみて」

困惑しながらも由羅は再び記憶を掘り起こして答えた。

「確か『死有必至、終將來臨於眾生。然而、當下之所以如何活著、欲為何事、若能真切對待生之意,則死亦無所畏耳』ですね」
「大正解!」

何故紫釉は突然このような問いかけをしてきたのだろう?
意味が分からず由羅は紫釉に説明を求めた。

「紫釉様、さっきからなんですか?」

「ねぇ、由羅。君は捜査をしたいと主張するけど、ちゃんと捜査に関わるに足る人間であることを相手に納得させるための根拠を提示する必要があると思わない? ただ自分のやりたいことを主張するだけじゃ、誰も動かないよ」

(根拠を提示……?)

そう言われて気づいた。
昨日凌空が言っていた言葉の意味を。

『由羅さんは時間があるようですから、読めるのであれば是非じっくりと読んでください』

あれは”読む時間があればじっくり読んでくれ”という意味ではなく、”どうせ文字なんて読めるわけがないんだから、読めるもんなら読んでみろ!”という意味だったのだ。

凌空は親切心から刑部の捜査資料を貸したわけではなく、どうせ読めないだろうと思って渡したのだ。

「もしかして、凌空様は私が字を読めないと思ったのですか?」
「むしろ聞きますけど、由羅さんは読めるのですか?」

平民の由羅が文字を読めないという先入観があるのは分かるが、だからといってあのような嫌味な行動はいかがなものかと思わず眉をひそめた。
そして思わずぽつりと呟いてしまった。

「うわぁ……性格悪……」

小さく呟いたつもりだったが、由羅の言葉は思いのほか部屋に響いてしまった。
それを聞いた泰然は盛大に笑い、紫釉は笑い声を堪えていたが眦に涙を浮かべて笑っている。
由羅はそれを視界の隅に収めつつ凌空に向き直り、紫釉に説明した内容と同じことをもう一度説明した。

「えっと、紫釉様にも説明したのですが、黒の狼では官吏として潜入捜査をすることもあるので、科挙の勉強をして合格しなくちゃならないんですよ」
「は?」
「つまり由羅は科挙を受験して合格しているんだよ」

鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くしている凌空に、紫釉が由羅の言葉を補足した。
紫釉の言葉に凌空は困惑しながら尋ねた。

「でも、女性は受験できませんよね」
「はい。そこは男装して受けました」

「俺も由羅の話を聞いて驚いたよ。だから一応確認してみたんだけど、確かに、由羅が偽名で使った() 玄由(げんゆ)という人物が受験して合格していたよ」

紫釉の言葉を聞いた凌空は言葉を失い、次に深いため息をついて謝罪した。

「貴女を偏見で一方的に否定してしまい申し訳ありませんでした」
「いえ、まぁ、仕方ないことだとは思いますので」

そう謝った凌空はふと何かに気づいた様子を見せたかと思うと、由羅に尋ねてきた。

「……文字が読めるということは、私が渡した捜査資料も読めた、ということですか?」
「はい、勿論です」

由羅が読んだ資料に書かれていた事件概要を端的に述べた。
被害者は正妃としては紫釉派や中立派の家柄の女性4人。
才色兼備な彼女達の健康状態には問題なかった。
その話を聞いた凌空は、苦虫を噛みつぶしたような渋い表情となった。

「……主上、申し訳ありません。私が迂闊でした」

凌空は後悔の念を滲ませた顔で謝ると、紫釉は苦笑しながら答えた。

「いや、由羅が文字を読めるとは俺も思わなかったから仕方ないさ。まぁ、ここまで知られてしまったんだ。捜査に参加してもらった方がいいね」
「分かりました」

凌空は半分諦めを含んだ言葉で頷くと、由羅に向き直った。