命を狙った皇帝のお飾り妃になりました―この謎、私が解決いたします―

崔袁(さいえん)と出会う前の記憶はうろ覚えだったが、一番古い記憶は、手を引かれてどこかに連れていかれるというものであった。

由羅の小さな手を引く男――たぶん父親は、大柄の強面の男に由羅を引き渡したかと思うと、由羅に好物の干し柿を手渡しながら言った。

「さぁ、この人達について行くんだ。もう家に帰ってきちゃいけないよ」

そう言われた由羅は、幼心に帰る場所を失ったのだと思った。
今思えば、あの時由羅は父親によって人買いに売られたのだろう。

人買いの男達に連れられた先は暗い牢の中で、そこにいた何人かの子供達と数日過ごしたのだと思うが、もうその頃の事ははっきり覚えていない。

ただ、由羅よりも少し年上の男の子と寄り添うようにして過ごしたことだけは覚えている。

次に思い出すのは「人買いだ! 始末しろ!」という声と共に、突然現われた男達が人買い達を襲い、倒していく光景だ。
怒号が響き、倒れていく人買い達の様子を、由羅は声を出せないまま、呆然とした面持ちで見ていた。

するとそんな由羅の前に、ぬっと人が現われた。
由羅がゆっくりと顔を上げると、緋色の長い髪の男がいた。
頬に大きな十字傷があるその男は、由羅を見た後にすっと手を差し伸べた。

「ガキんちょ、俺んとこにくるか?」

何が起こっているのかは分からなかったが、酷く寒くて、このままでは死んでしまうと由羅は幼心に思った。
だから男の――崔袁の言葉に頷くと、崔袁はにかりと笑って由羅を抱き上げた。

担ぐように抱き上げられた由羅は、目の前が一気に開けたように感じた。
世界は明るくて、こんなに広いのだと、そう思った。
崔袁に連れていかれたのは山奥の、崖の切り立った谷間にある村だった。

「親父、こいつはなんすか?」

崔袁の帰還を迎えた村人の一人が、由羅を見て怪訝な表情を浮かべた。

「おう、拾ったんだ」
「拾ったって猫じゃないんですから」

大勢の村人が興味津々という面持ちで由羅を見たので、由羅は怖くなって思わず崔袁の後ろに隠れた。
その時の由羅の心は、不安で占められていた。
由羅には帰る場所がない。
帰って来るなとだけ言われたことを覚えていたからだ。

だからここから出されたら由羅は生きてはいけない。
その不安が顔に出ていたのだろう。
崔袁はそんな由羅を見下ろしてガハハと笑うと、ポンと由羅の頭に手を乗せて言った。

「心配しなくても大丈夫だ。まぁ、とりあえず飯でも食え」

そう言って用意されたご飯は温かかった。
今思えば白米に少しの漬物が乗った程度の物であったが、久しぶりに食べる温かい食事は由羅の心をも温かくしてくれた。

「で、どうするんです?」
「うーん」

村人の一人が崔袁に由羅の処遇を尋ねると、崔袁は何やら逡巡したあと、しゃがみ込んで由羅に視線を合わせた。

「お前、俺の娘にならないか?」

その言葉を聞いた村人たちが一斉に驚きの声を上げた。

「はぁ? 何言ってんですか!」
「だって帰る場所なんてないようだしな。で、ガキんちょ、どうする?」

由羅は崔袁の言葉に小さく頷くと、崔袁はニカリとまた笑って由羅の頭を乱暴に撫でた。
この日から、由羅は崔袁の養女として「黒の狼」となって村に住むことになった。




それから10年の月日が流れた。

黒の狼の一族は皆由羅を自分達の子供のように育て、様々な教育も施してくれた。
薬草の知識をはじめとして、毒の使い方、剣や暗器といった武器の使い方や潜入の仕方など、生きる知恵も戦う技も、様々な事を教えられた。

同い年の宇航とは特別仲が良く、共によき友よき好敵手(ライバル)であった。
その日も毎日の日課で宇航と手合わせをしていた。

「たぁ!!」
「うぁ! ま、参った!」

由羅が剣を打ち込むと宇航の剣がその手から離れ、くるくると回って地面へと突き刺さる。

それを見た由羅は、構えを解いて剣を鞘に納めた。

「ふふふ。これで私の14連勝ね!」
「はぁ……また負けたぁ。身長も伸びたし、由羅よりも体格が良くなったと思うんだけどなぁ」

首を傾げながらぼやく宇航の姿を、由羅は改めて見た。

黒髪に緑の瞳の由羅に対し、宇航は絹のような白髪に赤い目の少年だった。

出会った時には互いに6歳だったので、由羅とは身長も体格も男女差はなかった。
加えて髪を長く伸ばし、円らな瞳の彼は、穏やかに微笑むと深窓の令嬢とも思えるほど整った顔の造作をしていた。

だから宇航は街を歩けば女性に間違われ、男に声を掛けられることもしばしばだった。

だが10年経った今、宇航は由羅の頭一つ分身長が伸び、由羅とは異なりしっかりした体躯である。
美男子という点は変わらないが、もう女の子には間違えられることはない。

「まぁ、僕は由羅と違って頭脳派だから」
「酷い! 私を脳筋みたいに言わないでよ!」

確かに頭の良さは宇航の方は少し……ほんの少し上だが、それでも由羅も剣術ばかりの人間ではない。
毒や薬についての知識は宇航より上だ。
ただ、繊細な作業が苦手なだけで……

「と、とにかく約束通り、今日の料理当番は宇航が代わってね」
「仕方ないかぁ」

満面の笑みで言った由羅の言葉に、宇航は肩をわざとらしく大きなため息をついた。

「まぁ、由羅の作った料理なんて食べれたものじゃないし」
「うるさいわね! でも、宇航のご飯は美味しいから好きだから許してあげる」
「ならお前のために一生作ってやってもいいぞ」
「え?」

宇航がそう言って由羅の目を真っ直ぐに見つめた。

その眼差しは家族に向けられる愛情とも、長年共に過ごした友情とも違う感情を孕んでいるようにも見える。
その瞳を見て由羅は驚きと戸惑いに思わず息を呑んでしまった。

由羅が言葉を発せずにいると、遠くから由羅の名を呼ぶ声がする。
振り返ってみればそこには赤い髪に頬に十字傷のある崔袁の姿があった。

「由羅、今戻ったぞ」
「お帰りなさい! 無事に仕事は終わった?」

今回の仕事は、とある高官の護衛であった。
不当に税を取り立てている地方官吏を告発したことで命を狙われることになった高官を、刺客から守るというのが今回の仕事だ。
崔袁の事だからもちろん敵を返り討ちにし、逆に不正を働いた官吏に〝丁寧に〟釘を刺したところで帰って来たようだ。

「ねぇ義父(とう)さん、私もっと仕事を請けたいわ」

黒の狼が引き受ける裏稼業は崔袁を中心に行われ、崔袁を始め、一族の男たちは命の危険に晒されている。
だからこそ、由羅は早く養父の力となり、仕事を請けたいと思っているのだが、崔袁はそのことをあまり快く思っていないようだ。

今も由羅の申し出に、崔袁は渋い顔をしている。

「うーん。由羅は女の子だし、俺としては荒事よりも村を守ってほしいんだけどよ。そうだ、宇航と所帯でも持ったらどうだ?」
「さ、崔袁様!?」

ニヤリと笑いながら言った崔袁の言葉に、宇航はほんのりと顔を赤らめながら、声を上ずらせて叫んだ。

同時に、由羅はというと目を丸くして素っ頓狂な声を上げてしまった。

「は、はぁ? 所帯!? 宇航と!? 馬鹿な事言わないでよ」
「別に、僕は由羅がいいなら構わないけど……」
「私は構うわ!」

崔袁の冗談には付き合ってられない。
由羅は小さくため息をついた後、崔袁に再び向き直った。

「もちろん何かあれば村を守るわ。でも仕事もちゃんとして一人前になりたいの」
「なるほどな」

崔袁は神妙な表情を浮かべたかと思うと、一転してニカリと笑った。

「ちょうど良かった。そんなに言うならこれ、勉強しろ」

崔袁はそう言いながら本を数冊差し出してきた。
由羅は首を傾げながらその本を受け取り、表紙を確認すると『論語』『孟子』『書経』などと書かれている。

「これを勉強して科挙の試験を受けろ」

「科挙?」

「あぁ。平たく言うと官吏になるための試験だ。俺たちの仕事は貴族を相手にする。たまに官吏として潜り込んだり、従者に紛れたりする。それでそれ相応の知識が必要だ。つーことで、お前達にはこの勉強をして来年の科挙に合格するんだ」

「えええっ!?」

確かに村のためになりたいと言ったが、まさか勉強をしろと言われると思わなかった由羅は、また驚きの声を上げた。

「じゃあ宇航も由羅も、今日からはこの勉強をみっちりしろよ。科挙の試験に合格したら、仕事を任せてやるからな」

そう言った崔袁は豪快に笑った後に、由羅の頭をぐちゃぐちゃと撫でて、家の方に去って行ってしまった。
呆気に取られて崔袁の後姿を見送っていると、由羅の隣で宇航が深い溜息をついた。

「科挙ってさ、貴族でさえ合格するのは難しいって話だよ。それこそ60歳になっても合格できない人もいるって聞いた」

宇航の言葉に由羅は絶句した。
だが科挙に合格しなくては仕事を任せてもらえない。
由羅の選択は一つしかない。

「分かったわ! 絶対に科挙に合格してやるんだから!」

由羅はそう意気込んで鼻息荒く言うと、宇航がその隣で苦笑しながら由羅の言葉に頷いた。

「そうだね。頑張ろうか」

こうして、科挙を受けるべく受験勉強が始まったのだった。
そして、宇航と机を並べて書物と向き合う日々。

二人で勉強をさぼろうとしているところを崔袁に見つかって怒られたこともあったが、剣の訓練のように、宇航と問題を出し合ったりして競い合った。

「『戰勝與否,兵力並必然比例不定』の続きは?」
「ええと、『自知己、知彼敵、深……」

この間覚えた筈なのに、思い出せずに由羅が唸った。

「うううう……思い出せない」
「『自知己、知彼敵、深知情報、乃為戰勝之要訣』だよ。ってことで僕の14連勝!」
「く、悔しい!」

悠然とした笑みを浮かべる宇航を、由羅は歯がゆみして顔を顰めた。

「約束通り、水汲み当番は由羅が代わってね」
「……分かった。でも今度は負けないわ!」

そんなやり取りをしつつ、必死に勉強したものだ。

科挙の試験前には、それこそ一日10時間は勉強しただろう。
あの時は武術の訓練よりも試験勉強で家にこもりきりだった。

だから、由羅も宇航も科挙に合格した時には、抱き合って喜んだものである。

崔袁は約束通り、科挙の試験に合格してからは少しずつ簡単な仕事を任せてくれるようになり、由羅は宇航と共にその任務をこなしていった。

村に帰れば一族の皆が迎えてくれ、崔袁がいて、隣には宇航がいる生活。
あの時の由羅は、そんな日々がずっと……ずっと続くと思っていたのだ。

だが崔袁が命を落とし、ヴァルディアに村を襲撃され、村人達は散り散りになって村を脱出した。
そして宇航の行方もまた分からなくなった。

それでも、この空の下、皆生きているだろう。
そう信じて彼らの無事を祈るしか今の由羅にはできないが、皆と会うためにもこの事件を解決して後宮を出なくてはならない。

「よし! 続きの捜査資料も読んじゃおう!」

由羅はそう言うと、冷めてしまった茉莉花茶を飲むと、再び資料を読み始めた。