命を狙った皇帝のお飾り妃になりました―この謎、私が解決いたします―

雑踏と喧噪。
行き交う人々に商人たちの威勢の良い呼び込みの声が響く。
ここ乾泰国(かんたいこく)の帝都砺波(とは)の市はいつもながらに活気づいていた。

日用品や生鮮食品の店に混じって食べ物の屋台が軒を連ねており、そこから香ばしい匂いが流れている。

たっぷりのタレをかけた鶏肉を炭火で焼く香ばしい匂い
肉汁たっぷりの餡が詰まったシュウマイを蒸す匂い
餅の中に甘いあんこが入った団子を揚げる匂い

どれも由羅(ゆら)の鼻腔をくすぐり、食欲を刺激する匂いだった。
それにつられるように由羅のお腹もギュルルルと鳴るので、思わずお腹をさすりながら深いため息をついた。

「はぁ……お腹空いた……死ぬ……」

目の前には美味しそうな料理を売る店が並んでいるのに、先立つものがない由羅には買うことができない。
この街に来る間に路銀は底を突き、もう3日はまともに食事をしていない。

由羅が何度目かのため息をついた時だった。
前方から恐ろしいほどの美丈夫がふらふらと歩いてくるのが見えた。

この国では珍しい金の髪を後ろに結わえている。
歩くとその金糸のような長い髪が風に揺れ、日の光で輝く。
それにより男性が纏う空気さえも煌めいて見え、思わず目が引きつけられてじっと見てしまった。

男性の背は高く、すっきりとした鼻梁に切れ長の涼しげな目元、薄い唇には笑みが湛えられている。
軽装で少し気崩した格好ではあるが上質な生地の着物であることから、良家の跡取り息子と言う感じだ。

青年はたまに屋台を覗いては楽しそうに街歩きをしている。
その姿は、饅頭一つ買うお金が無くて泣いている由羅としては何とも羨ましい限りである。

思わずじっと見ていると不意に青年がこちらを見て、水色の透き通った瞳が由羅を捉えた気がした。
その時だった。その美丈夫に一人の男がぶつかった。

「ああ、申し訳ない」
「……ったく気を付けやがれ!」

そう言って男は足早に去ろうとする。
ぶつかった男は多少くたびれた着物にすり減った草履という出で立ちで、ごく普通の恰好だった。
それに混雑している市場では人とぶつかることもままあるので、このような光景は至って普通の光景である。

だが由羅は気づいてしまった。
男が青年の懐から財布を盗んだことに。
それが分かったと同時に由羅は反射的に叫びながら駆け出していた。

「待ちなさい!」

スリの男は由羅の鋭い声にびくりと肩を震わせたかと思うと、慌てて走り出した。
由羅は追おうとして、走りながら金髪の青年に声をかけた。

「貴方、お財布盗まれてる!」

その時初めて青年は自分の財布が盗まれていることに気づいたようで、目を大きく見開き、懐を探り始めた。
青年の様子を視界の隅に置きながら、由羅はスリの男を追いかけた。
足には自信がある。
女物の襦裙(きもの)は少々走りにくいがそれでも、あのスリよりは速い。十分追いつける距離だ。

「待ちなさいって言ってるでしょ!」

そうして由羅はあっという間にスリに追いつくと、そのままスリに飛び掛かって地面に倒した。

「お財布を出しなさい!」
「くそっ!」

スリは観念したように懐から金刺繍の入った立派な財布を取り出した。
由羅はそれを素早くスリの手から奪い取ると、ちょうどやって来た金髪の青年に由羅はその財布を差し出した。

「これ、お兄さんのですよね?」
「あ、あぁ助かったよ」

無事に財布を取り返して持ち主に渡せたことに由羅が安堵した隙をスリは見逃さなかった。
力いっぱい起き上がり由羅を振り払ったかと思うと、そのまま押しやった。突然のことで由羅はよろめいてしまう。

「あっ!」

後ろに倒れるかと思うと、そのまま後ろから青年に優しく抱き留められていた。
お陰で転倒は免れたが、気づいた時にはすでにスリは人ごみに紛れて消えてしまっていた。

(詰めが甘かったわ。これだから崔袁(さいえん)に半人前だと言われてしまうんだわ)

燃えるような赤髪を持つ養父の事を思い出して、由羅は深いため息をついた。

ふと気づくと背中に温もりを感じ、由羅はハッとして後ろを振り返る。
どうやらまだ青年に抱き留められたままだったようだ。

「あ! すみません!」

由羅は慌てて青年から体を離して謝罪した。

「あの……ごめんなさい。スリを逃がしてしまったわ」
「いや、礼を言うのはこっちだよ。財布を取り戻してくれてありがとう。それより君は怪我はない?」
「ええ、全然平気です」

どこも痛くはない。
ただ被害というなら襦裙が土埃まみれになってしまったことくらいだろう。

思わず襦裙に目を落とすと、そのことに気づいたようで青年は慌てて言った。

「あぁ、襦裙が汚れてしまったね。弁償するよ」
「いえ! 弁償なんて大袈裟な! お気になさらず」

実際ぽんぽんと軽く手で払ってしまえば、ほとんど気にならない。
それでも青年は不服そうで、食い下がるように言った。

「でも、君にお礼させてくれないかい」
「いえ、本当に目に入っただけなんで気にしないでください」

由羅としては別に大した事をしたつもりはない。
礼を固辞しようとしたところで由羅のお腹が盛大に鳴った。

ぐるるるるる

由羅とて一応年頃の女なのだ。
美丈夫の前で腹の虫を鳴らすなど、恥ずかしすぎて地面に埋まりたい。
思わず赤面してしまいながら、何か誤魔化そうと口を開くが言葉が思い浮かばない。

「えっと……」
「ははは、ちょうどそこにおすすめの料理屋があるんだ。そこに行こう」
「すみません。では……お言葉に甘えて」

青年は小さく微笑むと、由羅を促して店へと向かった。



美丈夫に連れられて街を歩いていく。
雑多な露店が広がる市場を抜けると、しっかりとした店構えの店が立ち並ぶ街並みへと景色が変わっていった。

「ところで、君の名前を聞いてもいいかな?」
「私は由羅と言います」
「由羅……? そう……なんだ」

由羅の名前を聞いた青年は一瞬驚いた顔をした。
そんなに珍しい名前ではないと思うのだが。

「あの?」
「あぁ、何でもない。俺は紫釉(しう)だよ」
「紫釉様ですね」

由羅がそう言うと、紫釉という名の美丈夫は小さく微笑んだ。
少しだけ眩しいものを見るような視線を受けて、由羅は微かな違和感を感じたが、紫釉が足を止めたためその思考はすぐに消えてしまった。

「ここだよ」
「えっ!?」

紫釉が足を止めた店は、臙脂色の漆塗りの門構えで、欄干の部分には細かな彫り物が施されており、さらにそれが金で彩られていた。
一見して高級料理店と分かる店構えである。

正直、一介の平民の娘がおいそれと入れる店ではない。ましてやこちらは衣が土埃まみれなのだ。
場違いにも程がある。

「さぁ、入ろう」
「いえいえ! こ、こんな凄いところには入れません!」
「大丈夫だよ。ほら、行くよ」
「でも!」

怖気づく由羅の肩を紫釉はがっちりと掴む一方で、優雅な足取りで店の中に入っていく。

店内は予想通り貴族御用達といった様子で、床はピカピカに磨かれた黒曜石、鮮やかな朱塗りの柱に、金の竜が描かれたレリーフが施されている。
入店すると、紫釉は常連なのか、慣れた足取りで個室へと向かっていった。

「ここなら気軽に過ごせるだろう?」
「お気遣いありがとうございます」

促されて黒塗りに螺鈿が施された椅子に座ると、すぐに由羅の前に桃饅頭と飲茶の類がいくつか並べられた。

「どうぞ、召し上がれ」
「ではいただきます」

店の高級さと並べられた食事の量に戸惑いつつ、由羅は恐る恐る小籠包を食べた。
その途端、口の中いっぱいに肉汁が広がる。
あまりの美味しさに、脳天に雷が落ちたような衝撃を受けた。

(美味しすぎる! もちもちの皮もジューシーな餡もたまらない!)

ついつい箸が進んで食べていると、不意に視線を感じて由羅は顔を上げた。
そこにはにっこりと楽しげに由羅を見つめる紫釉の顔があった。

「す、すみません! はしたなかったですよね」
「いや、美味しそうに食べると思ってね」
「実際、美味しいので! でもあんな程度のお礼にこんなにご馳走になってしまってすみません」

たかだかスリを追いかけただけなのに、このような食事をご馳走になるのは、礼としては過分すぎる気がする。
だが、紫釉は首を振ると、柔らかく笑った。

「ううん。財布が無くなるのは流石に困るからね。こっちこそありがとう。さぁ、どんどん食べて」

紫釉はそう言ってゴマ団子を由羅の前に置いて勧めてきたので、由羅は恐縮しつつもそれを食べてしまった。
まるで餌付けをするかのように紫釉は由羅の目の前に食事を運び、由羅はそれを美味しく食べていると、気づけば目の前には大量の空になった食器が並んでいた。

一生分の贅沢をしたような気がする。もう二度とこんな食事にはありつけないだろう。

「お腹いっぱいです。ご馳走様でした」

由羅はそう言って両手を合わせて深々と礼をした。そして最後にジャスミン茶が運ばれてきたので、それをゆっくりと口に含んだ。
紫釉もまた優雅にそれを口に運びながら、まるで天気の話でもするかのようにさらりと由羅に告げた。

「ねぇ、由羅。俺のお嫁さんにならない?」
「っ!? は!?」
「だってこうやって会えたのって運命だと思うんだ」

思わず茶器を落としそうになる由羅に対し、紫釉は頬杖をつきながらこちらを見て微笑んでいる。
正直意味が分からない。
出会って直ぐに結婚なんて、金持ちの考えることは理解できない。
妾にでもなれと言う事なのだろうか?

(いや、そもそも冗談よね)

このような冗談を言われ慣れていない由羅は、どう返答したものかと悩んだ。
ここは深く考えず、軽く受け流すように言おう。

「えっと、紫釉様って冗談がお好きなんですね」
「冗談じゃないよ」

間髪容れずに返されてしまう。
よく見ると口元だけ見れば微笑んでいるように見えるが、目は本気だ。
どうしてなのか理由は分からないが、とにかく断らなくてはと由羅は本能的に思った。

「いえ、それは……ちょっと無理です」
「どうして?」
「どうしてって……重要な仕事があるんです」
「そうか……残念だな」

紫釉はそう言うと、一つため息をついてからジャスミン茶を綺麗な所作で飲んだ。

(今のは何だったんだろう? 揶揄われただけかもしれないけど、何か意味があるような……?)

頭に「?」と浮かべていると、気づけば茶器が空になり、由羅たちは店を出ることにした。

「今日はありがとうございました」
「いや、こちらこそありがとう。仕事、頑張って」

紫釉はそう言うと金の髪を靡かせて去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、由羅はポツリと呟いた。

「仕事頑張って、か」

由羅が絶対に成し遂げなくてはならない重要な仕事。
それは――皇帝暗殺。

次の仕事であり、由羅がやらなくてはならない仕事なのだ。
正直、簡単な事ではない。だがやるしか由羅が生き残る道はない。

(あんな美味しいご飯を食べれたんだから死んでも悔いはないかも。いや、死にたくないけど)

そうして、由羅は紫釉とは反対方向へと歩き出した。
だが、この出会いが、国家を揺るがす事件の始まりになるとは、この時の由羅には知る由もなかった。