『私は、誰も……恨んでおりません……』
そのか細い声は、澄んでいて、どこまでも温かかった。
この声を知っているのに、一度も聞いたことのない穏やかな声色。
……この声は――"姫"か?
炎の塊は放たれることなく、姫の声に意識を引かれるように崩れ落ち、霧散していく。
その時、背後から駆け寄る覚えのある足音が聞こえた。
別のルートへ向かったはずの騎士が、 我がなかなか現れぬことを不審に思い、様子を見に来たのだろう。
我の周囲に倒れ伏した信徒たちの姿を目にした騎士は、姫が勝利したのだと確信し、安堵と緊張を抱えたまま歩み寄ってきた。
「フィオレ姫、ご無事でしたか」
おお、騎士よ。
お主も無事で――
「……リオヴェール……長く……心配をかけました……」
その声は、我のものではない。
いや、この身体から発せられている。だが、我が紡いだ言葉ではなかった。
「姫……?」
騎士の目が、信じられぬものを見るように大きく見開かれる。
今までの、どこか記憶が曖昧で奇妙な口調の姫ではない。
騎士が昔から知っている、穏やかで優しく、胸に沁み入るような声だった。
「私は……生きています。まだ、魔王さんに支えていただいている状態ですが……」
「まお……う……?」
騎士は理解が追いつかないという顔をする。
だが騎士は、何かを飲み込むように一瞬だけ言葉を詰まらせたあと、状況の説明を続けた。
「わ……私は、潜入中で裏手にいたので、詳細は聞こえませんでしたが、何か叫んでいるのは聞こえていました。それが何か……姫が、ここにいる……戻って……ることに……関係があるので……しょうか」
騎士のその瞳には、確かに自分の知る姫の面影を見出した安堵が浮かび、込み上げる感情を必死にこらえている様子が見て取れた。
「あなたも知っての通り、私は瀕死でした。それを、私の中に現れた魔王さんが命をつないでくれていたのです」
ゆっくりと騎士に歩み寄り、優しく微笑む。
その笑顔は、ずっと前から騎士が知っているフィオレ姫の微笑みだった。
「……本当に……姫……なの……ですね……」
込み上げるものを抑えきれず、騎士は涙を流しながら姫の手を取り、愛おしそうに包み込む。
姫は、空いたもう一方の手で、その手にそっと触れた。
「追々、お話しします。長い……話になると思いますが……」
我の中――正確には、姫の身体の内に、我と姫、二つの魂が同居している。
我は無意識に喉へ手をやり、自分の存在を確かめるように触れた。
「そうか……」
――そういうことか。
理由は完全には分からぬが、先ほど教祖が口にした、部下が功を急いで中途半端に終わった儀式。
その一部は、確かに成功していたのだ。
復活ではない。
召喚の儀式として――。
教団が最初に行った復活の儀式は、本来失敗している。
そもそも、この世界に復活させる魔王など存在しなかったのだから。
だが、その儀式はなぜか召喚の術式へと転じた。
もっとも、儀式の途中で姫が騎士によって連れ出されたせいで、完全な成功には至らなかった。
その結果、呼びかけられた本物の魔王――我の魂だけが、この姫の身体へと半端に引き寄せられてしまったのだ。
だからこそ、異世界転生をしたにもかかわらず、死の記憶がなかった。
我は死んだのではない。
魂だけが召喚されたに過ぎなかったのだ。
教団……実は相当な実力者だったのかもしれぬ。
だが、聖典は失われ、儀式は失敗した。
今後は急速に力を落としていくであろう。
ちなみに、その後、教団と通じていた汚職貴族と第二王子は捕縛され、相応の罰を受けることになるが、それはまた別の話である。
そして我は、この娘――姫の膨大な魔力と引き換えに、この身体へ顕現してしまった。
そのせいで魔力が枯渇し、毒と呪いに侵されていた姫は、魂すら沈み込むほど深い仮死状態に陥っていたのだろう。
だからこそ、意識は浮上することも叶わず、長く目覚めることができなかった。
それを我が癒やし、魔力を巡らせ、身体を立て直した。
つまり――。
今この瞬間、姫が目を覚ましたのだ。
種明かしをしてしまえば、なんということもない。
実に単純な話だった。
その刹那、我の存在が揺らぐ気配を感じた。
我は悟る。
ああ……もう時間なのだな。
「フィオレ姫よ。騎士と、末永く幸せに暮らすがよい」
騎士が困惑した顔で、我――いや、姫を見つめる。
一人二役の会話に、まだ現実感が追いついていない。
「魔王さん……還るの……ですか……」
「そうだとも、姫よ」
「なっ……魔王様! 我らを残してどこへ――」
我と姫の、いい感じの別れの挨拶の間に、無粋な教祖が割り込んでくる。
お前らのことなど知らぬわ。
今は静かにしておれ。
「私は――あなたに助けられました」
「いいや。我ではない。お主が倒れ、死地を彷徨っている間、お主を救うため奔走しておったのは騎士だ。我は、意識を失ったお前の代わりに動いていただけだ」
「ま、待ってください! 我らも――!」
だからお前らは黙れと言っておろう。
「それでも……ありがとう。魔王さん」
「…………」
魔王として悪行の限りを尽くしてきた身だ。
罵倒も呪詛も山ほど浴びてきたが、礼を言われるというのはどうにも照れくさい。
――ただ、最近はそれも、そう悪いものではないと思うようになってきた。
「我も、お主が生きていて良かったと思うぞ」
これで姫と騎士の逃避行の物語も、きちんと続いていくであろう。
――というか、そこのところはどうなのだ、騎士よ。
お主、ちゃんと姫を好いておるのだろうな?
態度では100%好いているのがダダ漏れなのだが、肝心の一言がないではないか。
言わねば伝わらぬぞ、そういうのは。
今だ、今ここで告白イベントを――。
無情にも、意識が薄れていく。
あああ、騎士に確認できぬままでは困る。
我は、姫が騎士へ心を寄せていることを理解しておる。
だが騎士よ。騎士よ――!
さらに意識が沈む。
もはや姫と騎士の声は我には聞こえぬ。
なぜか教祖の声だけが妙に通るのが、実に腹立たしい。
お前はもう少し静かにしておれ。……というか、真面目に働け。
――だが我は、本当にほんの一瞬、この世界へ立ち寄っただけの存在なのだ。
ラノベのような異世界転生だと浮かれていたが、現実はそう都合よくはないらしい。
ならば我は、現実へ帰るとしよう。
さよならだ、姫よ。騎士よ。
さよならだ、愛しき異世界よ。
願わくば、またいつか異世界転生できる日を夢見ながら。
――そうして、我は自分の世界へと戻っていった。
その手に、“聖典”こと同人誌を、しっかり抱きかかえたまま。
……異世界の物など持ち帰れぬと思っていたが、案外どうにかなるものらしい。
気持ちの問題か?
そして帰還したあと、やはり我は死んでいたわけではなかった。
我が転生したあと、しばらくは意識が戻らず入院しておったようだ。
だが、我の魂が戻り目覚めたあとは、ほどなく退院することができた。
居城に戻れば、口うるさい部下が、さらに口うるさく何か言っておる。
我とて好きで転生したかったのだが、気づいたら好きに召喚されてしまったのだ。この場合、TPOなど選べぬ。そこまで責めなくてもよかろう。
分かった。分かったから。
そんなに泣くでない。
だが、あの異世界での日々は、まるで夢のような体験であった。
この手に、癖の詰まったこの同人誌がなければ、本当に夢だと思ったことであろう。
姫と騎士のその後は気になるが、そこは我の中で勝手に補完するとしよう。
そして次は是非、我と方向性が似ている悪役令嬢などへと転生したいものだ。
こうして元気を取り戻した我は、今日も人間界の娯楽――ラノベを胸に抱きながら、懲りもせず次への異世界転生を夢見るのである――。
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ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本作はこれにて完結となります。
最後までお付き合いいただけて、とても嬉しかったです。
次の作品は8月頃に公開予定です。
公開できる段階になりましたら、お知らせいたします。
またどこかでお目にかかれましたら嬉しいです。
そのか細い声は、澄んでいて、どこまでも温かかった。
この声を知っているのに、一度も聞いたことのない穏やかな声色。
……この声は――"姫"か?
炎の塊は放たれることなく、姫の声に意識を引かれるように崩れ落ち、霧散していく。
その時、背後から駆け寄る覚えのある足音が聞こえた。
別のルートへ向かったはずの騎士が、 我がなかなか現れぬことを不審に思い、様子を見に来たのだろう。
我の周囲に倒れ伏した信徒たちの姿を目にした騎士は、姫が勝利したのだと確信し、安堵と緊張を抱えたまま歩み寄ってきた。
「フィオレ姫、ご無事でしたか」
おお、騎士よ。
お主も無事で――
「……リオヴェール……長く……心配をかけました……」
その声は、我のものではない。
いや、この身体から発せられている。だが、我が紡いだ言葉ではなかった。
「姫……?」
騎士の目が、信じられぬものを見るように大きく見開かれる。
今までの、どこか記憶が曖昧で奇妙な口調の姫ではない。
騎士が昔から知っている、穏やかで優しく、胸に沁み入るような声だった。
「私は……生きています。まだ、魔王さんに支えていただいている状態ですが……」
「まお……う……?」
騎士は理解が追いつかないという顔をする。
だが騎士は、何かを飲み込むように一瞬だけ言葉を詰まらせたあと、状況の説明を続けた。
「わ……私は、潜入中で裏手にいたので、詳細は聞こえませんでしたが、何か叫んでいるのは聞こえていました。それが何か……姫が、ここにいる……戻って……ることに……関係があるので……しょうか」
騎士のその瞳には、確かに自分の知る姫の面影を見出した安堵が浮かび、込み上げる感情を必死にこらえている様子が見て取れた。
「あなたも知っての通り、私は瀕死でした。それを、私の中に現れた魔王さんが命をつないでくれていたのです」
ゆっくりと騎士に歩み寄り、優しく微笑む。
その笑顔は、ずっと前から騎士が知っているフィオレ姫の微笑みだった。
「……本当に……姫……なの……ですね……」
込み上げるものを抑えきれず、騎士は涙を流しながら姫の手を取り、愛おしそうに包み込む。
姫は、空いたもう一方の手で、その手にそっと触れた。
「追々、お話しします。長い……話になると思いますが……」
我の中――正確には、姫の身体の内に、我と姫、二つの魂が同居している。
我は無意識に喉へ手をやり、自分の存在を確かめるように触れた。
「そうか……」
――そういうことか。
理由は完全には分からぬが、先ほど教祖が口にした、部下が功を急いで中途半端に終わった儀式。
その一部は、確かに成功していたのだ。
復活ではない。
召喚の儀式として――。
教団が最初に行った復活の儀式は、本来失敗している。
そもそも、この世界に復活させる魔王など存在しなかったのだから。
だが、その儀式はなぜか召喚の術式へと転じた。
もっとも、儀式の途中で姫が騎士によって連れ出されたせいで、完全な成功には至らなかった。
その結果、呼びかけられた本物の魔王――我の魂だけが、この姫の身体へと半端に引き寄せられてしまったのだ。
だからこそ、異世界転生をしたにもかかわらず、死の記憶がなかった。
我は死んだのではない。
魂だけが召喚されたに過ぎなかったのだ。
教団……実は相当な実力者だったのかもしれぬ。
だが、聖典は失われ、儀式は失敗した。
今後は急速に力を落としていくであろう。
ちなみに、その後、教団と通じていた汚職貴族と第二王子は捕縛され、相応の罰を受けることになるが、それはまた別の話である。
そして我は、この娘――姫の膨大な魔力と引き換えに、この身体へ顕現してしまった。
そのせいで魔力が枯渇し、毒と呪いに侵されていた姫は、魂すら沈み込むほど深い仮死状態に陥っていたのだろう。
だからこそ、意識は浮上することも叶わず、長く目覚めることができなかった。
それを我が癒やし、魔力を巡らせ、身体を立て直した。
つまり――。
今この瞬間、姫が目を覚ましたのだ。
種明かしをしてしまえば、なんということもない。
実に単純な話だった。
その刹那、我の存在が揺らぐ気配を感じた。
我は悟る。
ああ……もう時間なのだな。
「フィオレ姫よ。騎士と、末永く幸せに暮らすがよい」
騎士が困惑した顔で、我――いや、姫を見つめる。
一人二役の会話に、まだ現実感が追いついていない。
「魔王さん……還るの……ですか……」
「そうだとも、姫よ」
「なっ……魔王様! 我らを残してどこへ――」
我と姫の、いい感じの別れの挨拶の間に、無粋な教祖が割り込んでくる。
お前らのことなど知らぬわ。
今は静かにしておれ。
「私は――あなたに助けられました」
「いいや。我ではない。お主が倒れ、死地を彷徨っている間、お主を救うため奔走しておったのは騎士だ。我は、意識を失ったお前の代わりに動いていただけだ」
「ま、待ってください! 我らも――!」
だからお前らは黙れと言っておろう。
「それでも……ありがとう。魔王さん」
「…………」
魔王として悪行の限りを尽くしてきた身だ。
罵倒も呪詛も山ほど浴びてきたが、礼を言われるというのはどうにも照れくさい。
――ただ、最近はそれも、そう悪いものではないと思うようになってきた。
「我も、お主が生きていて良かったと思うぞ」
これで姫と騎士の逃避行の物語も、きちんと続いていくであろう。
――というか、そこのところはどうなのだ、騎士よ。
お主、ちゃんと姫を好いておるのだろうな?
態度では100%好いているのがダダ漏れなのだが、肝心の一言がないではないか。
言わねば伝わらぬぞ、そういうのは。
今だ、今ここで告白イベントを――。
無情にも、意識が薄れていく。
あああ、騎士に確認できぬままでは困る。
我は、姫が騎士へ心を寄せていることを理解しておる。
だが騎士よ。騎士よ――!
さらに意識が沈む。
もはや姫と騎士の声は我には聞こえぬ。
なぜか教祖の声だけが妙に通るのが、実に腹立たしい。
お前はもう少し静かにしておれ。……というか、真面目に働け。
――だが我は、本当にほんの一瞬、この世界へ立ち寄っただけの存在なのだ。
ラノベのような異世界転生だと浮かれていたが、現実はそう都合よくはないらしい。
ならば我は、現実へ帰るとしよう。
さよならだ、姫よ。騎士よ。
さよならだ、愛しき異世界よ。
願わくば、またいつか異世界転生できる日を夢見ながら。
――そうして、我は自分の世界へと戻っていった。
その手に、“聖典”こと同人誌を、しっかり抱きかかえたまま。
……異世界の物など持ち帰れぬと思っていたが、案外どうにかなるものらしい。
気持ちの問題か?
そして帰還したあと、やはり我は死んでいたわけではなかった。
我が転生したあと、しばらくは意識が戻らず入院しておったようだ。
だが、我の魂が戻り目覚めたあとは、ほどなく退院することができた。
居城に戻れば、口うるさい部下が、さらに口うるさく何か言っておる。
我とて好きで転生したかったのだが、気づいたら好きに召喚されてしまったのだ。この場合、TPOなど選べぬ。そこまで責めなくてもよかろう。
分かった。分かったから。
そんなに泣くでない。
だが、あの異世界での日々は、まるで夢のような体験であった。
この手に、癖の詰まったこの同人誌がなければ、本当に夢だと思ったことであろう。
姫と騎士のその後は気になるが、そこは我の中で勝手に補完するとしよう。
そして次は是非、我と方向性が似ている悪役令嬢などへと転生したいものだ。
こうして元気を取り戻した我は、今日も人間界の娯楽――ラノベを胸に抱きながら、懲りもせず次への異世界転生を夢見るのである――。
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ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本作はこれにて完結となります。
最後までお付き合いいただけて、とても嬉しかったです。
次の作品は8月頃に公開予定です。
公開できる段階になりましたら、お知らせいたします。
またどこかでお目にかかれましたら嬉しいです。



