――どういうことだ。
眼下に佇むのは、今まで見たこともない力強い眼差しを宿し、凛と立つ、まごうことなきあの姫。
毒と呪いに侵され、寝台で息も絶え絶えに伏していたはずの姫が。
魔力量こそ膨大でも、放てる魔法の威力は低かったはずの姫が。
その姫が今、大規模魔法を放っている。
――一体、どういうことなのか。
健康になったとは報告で聞いていた。
だが、あれほど生気を取り戻しているとは。
まさか本当に解毒も解呪も成し遂げたというのか。
教祖は目を細め、姫を凝視する。
そこにいたのは、もはや病人の面影など欠片もない、血色の良い娘だった。
「……今も教会の奥で唱え続けている呪いが、なぜ効いておらぬ……? 姫にまとわりつくはずのそれが、消えているだと」
我はその言葉で、あの鬱陶しい静電気の正体に思い至った。
「あの不快な静電気は、お前たちの仕業であったか。どうりで鬱陶しいわけだ。だが、それらはすべて結界で弾いた。我には、その程度の呪いなど通じぬぞ」
呪いなど、所詮はまやかしだ。
我は信じぬ。
信じると怖いから、絶対に信じぬ。
その我の言葉と態度に、教祖の瞳が一瞬だけ見開かれた。
術式は今も途切れていないはずだ。にもかかわらず、結界で弾いたと姫は言った。
――あり得ぬ。姫に、そのような術が使えるはずがない。
胸の奥でざわりと広がった感覚は、冷たい理性によって押し潰された。
――理由は分からぬ。だが、姫がここに来たということはむしろ都合がいい。
「今宵は期限の満月。飛んで火に入る夏の虫とは、このことだな、フィオレ姫よ」
教祖の言葉に、我の思考が一瞬だけ止まる。
――こやつ、今、フィオレ姫と言ったな。フィオレとは正式名なのか。
この世界で目覚めてから今日までの、騎士とのやり取りが脳裏を駆け巡る。
騎士よ……逃亡生活を送るのなら、せめて偽名を使え。
礼儀正しく、清く育てられたがゆえか、そういう機転はきかぬのか、騎士よ。
……まあ、そこも良いのだが。
そんなことを思われていると露ほども知らぬ騎士は、今頃どこかでくしゃみでもしているに違いない。
騎士には、万が一、我が捕らえられた場合に備え、別ルートから潜入してもらっている。
捕まるわけがないと何度も説得したのだが、それを条件にせねばこちらから攻撃を仕掛けることは認めぬと、最後まで首を縦に振らなかったのだ。
頑固だな、騎士よ。
まあ、それもまた可愛いのだが。
――あのイケメン、我のタイプではないのだが……なんというか、天然というか、落差というか。
噛めば噛むほど味が出るスルメタイプで、我もほだされそうで怖い。
これがイケメン力か。恐ろしいな、イケメン。
そんなことを考え、つい黙り込んでしまった我を、教祖は恐れをなしたのだと勝手に解釈したらしい。
「どうした、フィオレ姫よ。ここに来て恐怖に飲み込まれたか」
喉の奥から響くような高笑いが、石壁に反響して耳に障る。
「先ほどから定型文しか喋れぬ者に、ドヤ顔などされたくはないわ。それよりも、聖典とやらをよこせ」
腰に手を当て、もう片方の手を前へ突き出す。掌をひらひらと振り、寄こせと促す。
「何を馬鹿なことを。この聖典に魔王様復活の儀式が記されておるのだぞ。渡すわけがなかろう」
「だが、読めぬのであろう? 一緒に描かれている絵から推測しているだけではないか」
不敵な笑みを浮かべて、騎士から聞き出した話をもとに、あえて鎌をかける。
それを聞いた教祖の眉が、わずかに動いた。
「なぜそれを……!」
――そこで肯定するのか。
思わず心の中で盛大に突っ込む。
そして同時に、これまで耳にしてきた噂の数々が、どうやら誇張ではなかったことが分かり、頭が痛くなった。
出回っている噂が、ほぼすべて真実とは。
どれほど統制の緩い邪教なのだ。
こやつらには、情報管理という概念はないのか。
「お前は魔王を呼び出して世界を破滅させ、その後、新たな楽園を作ると聞いたが――そんなことが本当に可能だと思っているのか」
問いは静かに投げたが、その奥には呆れと警戒が混じっている。
「そこまで真相にたどり着いているとは……。さすが次代の聖女と呼ばれるだけはありますな、フィオレ姫」
再び、思考が一瞬止まる。
――次代の聖女だと?
この姫、そんなにすごい人物であったのか。
王家の血を引くとはいえ、我の認識では、病に伏せっていたか弱い少女である。
そこに「次代の聖女」という肩書きが重なるなど、聞いていない。
我などが中に入っていて、本当に問題はないのか。
急に不安になり、胸の奥がざわついた。
清貧とも高潔とも程遠い精神構造をしている我が、この器に収まっていて良いのだろうか。
今さらながら、身体の持ち主の格の高さに焦りを覚える。
そんな我の内心とは裏腹に、周囲の信徒たちがざわりと色めき立つ。
「真相を知っている」「やはり聖女だ」――そんな囁きが風に混じる。
真相も何も、全部お前たちの仲間が勝手に白状しただけなのだが。
ザルもいいところの邪教である。
「だいたい、我を捕らえてどうするのだ。魔力が必要とのことだが、それをどうやって使うというのだ」
問い直すと、教祖はわずかに目を細め、まるで迷える子羊に真理を授けるかのような口調で語り始めた。
「姫もついに魔王様の御業に心を寄せられたか。喜ばしいことだ。ならば説明してやろう」
……チョロいな、教祖。
「この山こそ封印の地。聖典に記された真理は揺るがぬ。ここに描かれている通りに、この霊山にて、高き魔力を持つ供物たる聖女の衣を裂き、その肌を露わにし――」
「キエェェェェエ、黙れ! その先を口にするでないわ!」
瞬時に奇声が飛び出した。
我の魂の叫び声の意味が理解できない教祖は怪訝な顔をしている。
掌にじわりと汗がにじむ。
嫌な予感しかしない汗だ。
やはり、我が恐れていた事態である。
――あの薄い本は、成人向け。
こちらの世界にあってはならない、我の世界の産物。
しかも、それを神聖な聖典として崇め、儀式に用いようとしている。
悪夢にもほどがある。
これはもう、強制的に回収するしかない。
そう決めた矢先、教祖は危うい内容の書かれた聖典を片手に、さらに言葉を重ねようとする。
「黙るのはお前たちだ! この儀式さえ成せば、魔王様は復活すると聖典に描かれているのだ。だが安心するがよい。その後、楽園では聖女も我らと同じく、一糸まとわ――」
「ぴぃぃぃぃぃぃ! だから黙れと言っておる!」
再び、規制音じみた我の奇声が石壁に反響する。
あの薄い本については気になる。
ものすごく気になる。
だが今は、それどころではない。
今はもっと根本的なことを問いたださねばならない。
「それよりも重大なことを問おう。お前たちは魔王を復活させると言っておるが、この世界の過去に魔王は存在していたのか?」
教団がここまで暴走した理由。
その根拠がどこにあるのかを知らねばならぬ。
特に、本当に封印された存在がいるのかどうかは重大だ。
「それは……。だが、この聖典に描かれているのと同じ形の山が、まさにここなのだ。聖典には、過去に魔王様が封印されたと記されている。ゆえに、我らの知らぬはるか昔、この地に魔王様は封じられたのだ」
根拠、それだけかい。
思わず渋い顔になる。
山など、探せばいくらでも似た形があるだろう。形状の一致など証拠にはならない。
さすがに頭が痛くなってきた。
我は額を押さえ、こめかみを指で揉む。
「つまり、この世界に魔王が存在していたという確たる痕跡はないのだな」
その問いに、教祖は慌てたように声を荒らげる。
「そ、そんなことを知ってどうする。儀式を行えばわかることだ! そもそも、なぜ魔王様の存在をそこまで気にするのだ。お前も我らとは別の目的で魔王様の復活を狙っているのか!」
痛む頭を押さえたまま、指の隙間から教祖を見据える。
我の懸念は、これで消えた。
ここは一度、ちゃんと教えてやらねばなるまい。
ならば、少しばかり“それらしく”語ってやろう。
我は小さく唱え、風魔法を発動させる。
周囲にそよ風が生まれ、我の髪がふわりと揺れ始める。
片手でこめかみを押さえたまま、もう片方の手を添えて腕を組む。
顔をわずかに伏せ、思わせぶりに瞼を閉じた。
一拍――間を置く。
そして、ゆっくりと――わざとゆっくり顔を上げる。
そっと瞼を開き、教祖を射抜くように見据えた。
そして、ためにためたまま、静かに語りかける。
「いやなに。同じ存在が同じ空間に出現すれば、本当に世界が壊れてしまうやもしれぬからな。物語にも、よくある展開であろう」
その声が響いた瞬間、教祖や信徒たちは言葉を失った。
目の前の少女から溢れ出したのは、先ほどまでのふざけた気配ではない。
魂の芯まで凍てつかせるような、圧倒的な「強者」の圧。
「何を言って――」
我は口の端をにっと吊り上げる。
そして、芝居がかった構えのまま、我は衝撃の事実を告げる。
「――この世界に、魔王は二人もいらぬということよ」
眼下に佇むのは、今まで見たこともない力強い眼差しを宿し、凛と立つ、まごうことなきあの姫。
毒と呪いに侵され、寝台で息も絶え絶えに伏していたはずの姫が。
魔力量こそ膨大でも、放てる魔法の威力は低かったはずの姫が。
その姫が今、大規模魔法を放っている。
――一体、どういうことなのか。
健康になったとは報告で聞いていた。
だが、あれほど生気を取り戻しているとは。
まさか本当に解毒も解呪も成し遂げたというのか。
教祖は目を細め、姫を凝視する。
そこにいたのは、もはや病人の面影など欠片もない、血色の良い娘だった。
「……今も教会の奥で唱え続けている呪いが、なぜ効いておらぬ……? 姫にまとわりつくはずのそれが、消えているだと」
我はその言葉で、あの鬱陶しい静電気の正体に思い至った。
「あの不快な静電気は、お前たちの仕業であったか。どうりで鬱陶しいわけだ。だが、それらはすべて結界で弾いた。我には、その程度の呪いなど通じぬぞ」
呪いなど、所詮はまやかしだ。
我は信じぬ。
信じると怖いから、絶対に信じぬ。
その我の言葉と態度に、教祖の瞳が一瞬だけ見開かれた。
術式は今も途切れていないはずだ。にもかかわらず、結界で弾いたと姫は言った。
――あり得ぬ。姫に、そのような術が使えるはずがない。
胸の奥でざわりと広がった感覚は、冷たい理性によって押し潰された。
――理由は分からぬ。だが、姫がここに来たということはむしろ都合がいい。
「今宵は期限の満月。飛んで火に入る夏の虫とは、このことだな、フィオレ姫よ」
教祖の言葉に、我の思考が一瞬だけ止まる。
――こやつ、今、フィオレ姫と言ったな。フィオレとは正式名なのか。
この世界で目覚めてから今日までの、騎士とのやり取りが脳裏を駆け巡る。
騎士よ……逃亡生活を送るのなら、せめて偽名を使え。
礼儀正しく、清く育てられたがゆえか、そういう機転はきかぬのか、騎士よ。
……まあ、そこも良いのだが。
そんなことを思われていると露ほども知らぬ騎士は、今頃どこかでくしゃみでもしているに違いない。
騎士には、万が一、我が捕らえられた場合に備え、別ルートから潜入してもらっている。
捕まるわけがないと何度も説得したのだが、それを条件にせねばこちらから攻撃を仕掛けることは認めぬと、最後まで首を縦に振らなかったのだ。
頑固だな、騎士よ。
まあ、それもまた可愛いのだが。
――あのイケメン、我のタイプではないのだが……なんというか、天然というか、落差というか。
噛めば噛むほど味が出るスルメタイプで、我もほだされそうで怖い。
これがイケメン力か。恐ろしいな、イケメン。
そんなことを考え、つい黙り込んでしまった我を、教祖は恐れをなしたのだと勝手に解釈したらしい。
「どうした、フィオレ姫よ。ここに来て恐怖に飲み込まれたか」
喉の奥から響くような高笑いが、石壁に反響して耳に障る。
「先ほどから定型文しか喋れぬ者に、ドヤ顔などされたくはないわ。それよりも、聖典とやらをよこせ」
腰に手を当て、もう片方の手を前へ突き出す。掌をひらひらと振り、寄こせと促す。
「何を馬鹿なことを。この聖典に魔王様復活の儀式が記されておるのだぞ。渡すわけがなかろう」
「だが、読めぬのであろう? 一緒に描かれている絵から推測しているだけではないか」
不敵な笑みを浮かべて、騎士から聞き出した話をもとに、あえて鎌をかける。
それを聞いた教祖の眉が、わずかに動いた。
「なぜそれを……!」
――そこで肯定するのか。
思わず心の中で盛大に突っ込む。
そして同時に、これまで耳にしてきた噂の数々が、どうやら誇張ではなかったことが分かり、頭が痛くなった。
出回っている噂が、ほぼすべて真実とは。
どれほど統制の緩い邪教なのだ。
こやつらには、情報管理という概念はないのか。
「お前は魔王を呼び出して世界を破滅させ、その後、新たな楽園を作ると聞いたが――そんなことが本当に可能だと思っているのか」
問いは静かに投げたが、その奥には呆れと警戒が混じっている。
「そこまで真相にたどり着いているとは……。さすが次代の聖女と呼ばれるだけはありますな、フィオレ姫」
再び、思考が一瞬止まる。
――次代の聖女だと?
この姫、そんなにすごい人物であったのか。
王家の血を引くとはいえ、我の認識では、病に伏せっていたか弱い少女である。
そこに「次代の聖女」という肩書きが重なるなど、聞いていない。
我などが中に入っていて、本当に問題はないのか。
急に不安になり、胸の奥がざわついた。
清貧とも高潔とも程遠い精神構造をしている我が、この器に収まっていて良いのだろうか。
今さらながら、身体の持ち主の格の高さに焦りを覚える。
そんな我の内心とは裏腹に、周囲の信徒たちがざわりと色めき立つ。
「真相を知っている」「やはり聖女だ」――そんな囁きが風に混じる。
真相も何も、全部お前たちの仲間が勝手に白状しただけなのだが。
ザルもいいところの邪教である。
「だいたい、我を捕らえてどうするのだ。魔力が必要とのことだが、それをどうやって使うというのだ」
問い直すと、教祖はわずかに目を細め、まるで迷える子羊に真理を授けるかのような口調で語り始めた。
「姫もついに魔王様の御業に心を寄せられたか。喜ばしいことだ。ならば説明してやろう」
……チョロいな、教祖。
「この山こそ封印の地。聖典に記された真理は揺るがぬ。ここに描かれている通りに、この霊山にて、高き魔力を持つ供物たる聖女の衣を裂き、その肌を露わにし――」
「キエェェェェエ、黙れ! その先を口にするでないわ!」
瞬時に奇声が飛び出した。
我の魂の叫び声の意味が理解できない教祖は怪訝な顔をしている。
掌にじわりと汗がにじむ。
嫌な予感しかしない汗だ。
やはり、我が恐れていた事態である。
――あの薄い本は、成人向け。
こちらの世界にあってはならない、我の世界の産物。
しかも、それを神聖な聖典として崇め、儀式に用いようとしている。
悪夢にもほどがある。
これはもう、強制的に回収するしかない。
そう決めた矢先、教祖は危うい内容の書かれた聖典を片手に、さらに言葉を重ねようとする。
「黙るのはお前たちだ! この儀式さえ成せば、魔王様は復活すると聖典に描かれているのだ。だが安心するがよい。その後、楽園では聖女も我らと同じく、一糸まとわ――」
「ぴぃぃぃぃぃぃ! だから黙れと言っておる!」
再び、規制音じみた我の奇声が石壁に反響する。
あの薄い本については気になる。
ものすごく気になる。
だが今は、それどころではない。
今はもっと根本的なことを問いたださねばならない。
「それよりも重大なことを問おう。お前たちは魔王を復活させると言っておるが、この世界の過去に魔王は存在していたのか?」
教団がここまで暴走した理由。
その根拠がどこにあるのかを知らねばならぬ。
特に、本当に封印された存在がいるのかどうかは重大だ。
「それは……。だが、この聖典に描かれているのと同じ形の山が、まさにここなのだ。聖典には、過去に魔王様が封印されたと記されている。ゆえに、我らの知らぬはるか昔、この地に魔王様は封じられたのだ」
根拠、それだけかい。
思わず渋い顔になる。
山など、探せばいくらでも似た形があるだろう。形状の一致など証拠にはならない。
さすがに頭が痛くなってきた。
我は額を押さえ、こめかみを指で揉む。
「つまり、この世界に魔王が存在していたという確たる痕跡はないのだな」
その問いに、教祖は慌てたように声を荒らげる。
「そ、そんなことを知ってどうする。儀式を行えばわかることだ! そもそも、なぜ魔王様の存在をそこまで気にするのだ。お前も我らとは別の目的で魔王様の復活を狙っているのか!」
痛む頭を押さえたまま、指の隙間から教祖を見据える。
我の懸念は、これで消えた。
ここは一度、ちゃんと教えてやらねばなるまい。
ならば、少しばかり“それらしく”語ってやろう。
我は小さく唱え、風魔法を発動させる。
周囲にそよ風が生まれ、我の髪がふわりと揺れ始める。
片手でこめかみを押さえたまま、もう片方の手を添えて腕を組む。
顔をわずかに伏せ、思わせぶりに瞼を閉じた。
一拍――間を置く。
そして、ゆっくりと――わざとゆっくり顔を上げる。
そっと瞼を開き、教祖を射抜くように見据えた。
そして、ためにためたまま、静かに語りかける。
「いやなに。同じ存在が同じ空間に出現すれば、本当に世界が壊れてしまうやもしれぬからな。物語にも、よくある展開であろう」
その声が響いた瞬間、教祖や信徒たちは言葉を失った。
目の前の少女から溢れ出したのは、先ほどまでのふざけた気配ではない。
魂の芯まで凍てつかせるような、圧倒的な「強者」の圧。
「何を言って――」
我は口の端をにっと吊り上げる。
そして、芝居がかった構えのまま、我は衝撃の事実を告げる。
「――この世界に、魔王は二人もいらぬということよ」



