――薄い本。
その三文字が、やけに鮮明に耳の奥で反響した。
洞窟に響く焚き火の音が遠のき、騎士の声すら薄れていく。
代わりに、かつて自室の机に山と積まれていた“あれ”の記憶が、唐突に脳裏へとよみがえった。
背中を伝う汗が止まらない。
じわりとした嫌な冷たさが衣の内側を這い、心臓がどくりと大きく跳ねる。
胸の奥で、否定と確信がせめぎ合う。
この世界にあってはならぬものの輪郭が、あまりにも生々しく浮かび上がってしまった。
我は乾いた唾を飲み込み、喉の震えを押し殺しながら、恐る恐る口を開く。
「その本は……一体、どのような……?」
騎士は聞きかじった噂を思い返すように、残っていたスープを飲み干してから答えた。
「見た者の話によると、厚さは一センチもなく、表紙をはじめ、とても綺麗なインクで絵が描かれている、少し大きめの本だとか。私も実物は見たことがないので、あくまで噂ですが」
その描写を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
あまりにも心当たりがありすぎる。
厚さは一センチもない。
美しいインクの絵。
少し大きめの判型。
喉の奥がひくりと引きつる。
ばらばらだった要素が、嫌な音を立てながら、一つの形へと組み上がっていく。
思考が追いつくより先に、身体が理解してしまった。
脳裏に浮かんだのは、かつて何度も手に取った、あのサイズ、あの装丁、あの質感。
――それは、もしや、“あれ”ではないのか。
喉の渇きを覚えながら、恐る恐る騎士に問う。
「その本……この世界の者たちは、読めるのか?」
言葉を選ぶ余裕もなく、どうにかそれだけを絞り出す。
額を伝う汗が顎先からぽたりと落ちる。
拭うことも忘れ、ただ騎士の口元を凝視する。
次の一言で、この世界の命運すら決まってしまう――そんな気さえした。
そんな馬鹿げた確信が、胸を締めつけていた。
もし読めるのなら。
もし内容を理解しているのなら。
この世界は、すでに取り返しのつかぬ方向へ踏み出しているかもしれぬ。
我は息を詰め、返答を待った。
「たしか、神の言葉で書かれているらしく、現在は解読中だと耳に挟んだことがあります」
解読――されていない。
その一言に、全身から一気に力が抜けた。
危うくその場に崩れ落ちるところである。
だが、続く言葉が追い打ちをかけた。
「ですが、会話形式で書かれているらしく……文章は一つ一つ枠で区切られ、その中に必ず美しい絵が添えられているそうです。文字が理解できずとも、なんとなく内容は伝わるとか」
「薄い本ー!!」
乙女らしからぬ絶叫が、洞窟中へ響き渡った。
どう考えても、それは同人誌ではないか。
しかも内容が、生贄の少女で魔王復活だと?
額から汗がとめどなく流れる。
視線が落ち着かず、きょろきょろと彷徨う。
横で何か言っている騎士の声が耳に入るが、内容はまったく頭に入ってこない。
我の様子を心配しているのだろうが、こちらはそれどころではない。
今の我は、脳内でフルスピードにこの事態への答えを探しており、外からの情報処理にまで意識を割く余裕がない。
この文明水準で、同人誌などという概念が存在していてよいのか。
我のいた世界ならまだいい。文明も発達していたおかげで、同人誌以外の様々な娯楽があった。
だが、この世界はどうだ。
アイドルもいなければ、ツアーもフェスもない。 映画など、もはや未知との遭遇である。ゲームに至っては、せいぜいチェスや将棋の類であろう。
そんな世界に「同人誌」。
しかも内容は、生贄だの魔王復活だの――どう考えても作者の癖が強すぎる。
そんな代物が存在していてよいのか。
別の意味で、世界が壊れるのではあるまいな。
心臓が早鐘を打つ。
自分でも挙動不審だと分かる。
我はわざと連続で咳払いをし、荒れた心と呼吸をどうにか整えた。
落ち着け。
まだ確定したわけではない。あくまで噂だ。
偶然似ているだけの可能性もある。
だが。
もし本当に、あの類の代物が“聖典”として崇められているのだとしたら。
しかも、それをもとに魔王復活の儀式を行うつもりだというのなら。
それはもはや、笑い話では済まされぬ。
我は小さく息を吐いた。
――うむ。同人誌は回収すべきだろう。それは、この世界には早すぎるアーティファクトだ。
我はそう結論づけた。
……いや、そう結論づけるほかなかった。
目的はより明確になった。
「騎士よ、やはり魔王崇拝教団に乗り込む。明日にでもこちらから攻撃を仕掛けるぞ」
そして絶対に、必ず、何が何でも――その“聖典”とやらを回収し、処分するのだ。
◇
――というわけで。
我はその翌日、さっそく邪教の本山に乗り込んだ。
有言実行。即断即決。
自分でも、この行動力の速さは少々恐ろしい。
騎士は最後まで文句を言っておったが、我の頑なな態度を見て、渋々と承諾した。
引き下がってくれてよかった。
あのまま許可が出なければ、色仕掛けという最終奥義を使うしかなかったからな。
我は夢女子というより、姫と騎士の逃避行を、少し離れた場所から眺めていたい派なのだ。
我自身がイチャつきたい訳ではない。
ということで、騎士には裏手から潜入してもらっている。ならば遠慮はいらぬ。
ここには騎士の目もないのだから、初っ端から一発デカいのをぶちかますとしよう。
「闇より暗き深淵の底。
光すら届かぬ静寂の牢獄よ。
我が血肉を糧とし、偽りの理を焼き尽くせ。
万象一切、虚無に帰すがいい。
『終焉の黒閃』!!
――我の前に立ち塞がる巨岩よ、爆ぜろ魔法!」
邪教の本山へ、腹の底を震わせるような轟音が響き渡った。
山肌を削り取って築かれた石造りの建物が、内側から軋むように揺れる。
衝撃は床を伝い、壁を震わせ、天井からは細かな砂塵がぱらぱらと降り注いだ。
揺らめく燭台の炎が大きく揺らぎ、祈りを捧げていた信徒たちのざわめきは、一瞬で悲鳴へと変わる。
「何事だ!」
祭壇の前に立っていた教祖が、怒気を孕んだ声を張り上げた。
「教祖様……! ひ、姫が……姫が攻めてきました!」
血相を変えた信徒が、転ぶようにして広間へ駆け込んでくる。
「――何事だ?」
先ほどよりも一段低い、冷えきった声が落ちる。
姫が、攻めてきただと――。
慌てた信徒の声が、広間に響き渡る。
「姫の強力な魔法で門が……入り口が破壊されています! 騎士の姿はありません、単独です!」
言葉の意味が、すぐには結びつかない。
毒と呪いを受け、寝台から起き上がることすらままならぬはずの姫が、動けるはずがない。
ましてや単騎で本山に攻め入るなど、正気の沙汰とは思えなかった。
だが――。
もし、これまでの報告が事実で、姫が健康を取り戻しているのだとしたら――。
混乱の底に沈みかけた思考の奥で、教祖の唇がゆっくりと歪む。
ならば、もはやどのような状態であろうと構わぬ。
魔王様復活の日にこの山へ来たという事実こそが重要だ。
我らにとっては、むしろ好都合ではないか。
「こちらから打って出る。姫を捉えるのだ!」
命令が飛んだ瞬間、信徒たちは一斉に動き出した。
廊下を駆け抜ける足音、抜き放たれる剣の擦過音。
それらが混じり合い、建物全体がざわめきと緊張に包まれていく。
教祖は信徒たちを引き連れ、姫のもとへと向かった。
一方、その頃――。
本山の巨大な門前では、石畳が無残に砕け散っていた。
粉塵がまだ白く漂うその中心に、金色の髪をなびかせた一人の少女が立っている。
姫こと、我である。
足元には、吹き飛ばされた門扉の残骸。
周囲には気絶した信徒たちが折り重なるように転がり、まだ意識のある者たちも、腰を抜かしたまま後ずさっていた。
恐怖と混乱が入り混じった視線が、すべて我へと注がれていた。
胸の奥で、魔力が高鳴る。
――ここに、娘を殺した黒幕がいる。
鼓動と重なるように脈打つそれを感じながら、我は顎を上げた。
「出てこい、教祖! 我自ら来てやったぞ!」
空気を震わせるその声は山肌に反響し、幾重にも重なって本山を打つ。
続けざまに放った一撃が、入り口の柱を粉砕した。
その瓦礫の向こうから、信徒に守られた教祖がゆっくりと姿を現した。
「――自ら檻に飛び込んでくるとは、なんと愚かな」
高台にある教会の入り口から、教祖は姫を値踏みするように見下ろした。
幾人もの黒ずくめの男たちの中に、凝り固まった宗教観で濁った目をした、ひときわ目立つ男に気づく。
――こいつが黒幕。
我は腕を組み、口元へ笑みを刻みながら、教祖を真っ直ぐ見据えた。
――この娘を殺した報い、今ここで受けさせてやろう。
その三文字が、やけに鮮明に耳の奥で反響した。
洞窟に響く焚き火の音が遠のき、騎士の声すら薄れていく。
代わりに、かつて自室の机に山と積まれていた“あれ”の記憶が、唐突に脳裏へとよみがえった。
背中を伝う汗が止まらない。
じわりとした嫌な冷たさが衣の内側を這い、心臓がどくりと大きく跳ねる。
胸の奥で、否定と確信がせめぎ合う。
この世界にあってはならぬものの輪郭が、あまりにも生々しく浮かび上がってしまった。
我は乾いた唾を飲み込み、喉の震えを押し殺しながら、恐る恐る口を開く。
「その本は……一体、どのような……?」
騎士は聞きかじった噂を思い返すように、残っていたスープを飲み干してから答えた。
「見た者の話によると、厚さは一センチもなく、表紙をはじめ、とても綺麗なインクで絵が描かれている、少し大きめの本だとか。私も実物は見たことがないので、あくまで噂ですが」
その描写を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
あまりにも心当たりがありすぎる。
厚さは一センチもない。
美しいインクの絵。
少し大きめの判型。
喉の奥がひくりと引きつる。
ばらばらだった要素が、嫌な音を立てながら、一つの形へと組み上がっていく。
思考が追いつくより先に、身体が理解してしまった。
脳裏に浮かんだのは、かつて何度も手に取った、あのサイズ、あの装丁、あの質感。
――それは、もしや、“あれ”ではないのか。
喉の渇きを覚えながら、恐る恐る騎士に問う。
「その本……この世界の者たちは、読めるのか?」
言葉を選ぶ余裕もなく、どうにかそれだけを絞り出す。
額を伝う汗が顎先からぽたりと落ちる。
拭うことも忘れ、ただ騎士の口元を凝視する。
次の一言で、この世界の命運すら決まってしまう――そんな気さえした。
そんな馬鹿げた確信が、胸を締めつけていた。
もし読めるのなら。
もし内容を理解しているのなら。
この世界は、すでに取り返しのつかぬ方向へ踏み出しているかもしれぬ。
我は息を詰め、返答を待った。
「たしか、神の言葉で書かれているらしく、現在は解読中だと耳に挟んだことがあります」
解読――されていない。
その一言に、全身から一気に力が抜けた。
危うくその場に崩れ落ちるところである。
だが、続く言葉が追い打ちをかけた。
「ですが、会話形式で書かれているらしく……文章は一つ一つ枠で区切られ、その中に必ず美しい絵が添えられているそうです。文字が理解できずとも、なんとなく内容は伝わるとか」
「薄い本ー!!」
乙女らしからぬ絶叫が、洞窟中へ響き渡った。
どう考えても、それは同人誌ではないか。
しかも内容が、生贄の少女で魔王復活だと?
額から汗がとめどなく流れる。
視線が落ち着かず、きょろきょろと彷徨う。
横で何か言っている騎士の声が耳に入るが、内容はまったく頭に入ってこない。
我の様子を心配しているのだろうが、こちらはそれどころではない。
今の我は、脳内でフルスピードにこの事態への答えを探しており、外からの情報処理にまで意識を割く余裕がない。
この文明水準で、同人誌などという概念が存在していてよいのか。
我のいた世界ならまだいい。文明も発達していたおかげで、同人誌以外の様々な娯楽があった。
だが、この世界はどうだ。
アイドルもいなければ、ツアーもフェスもない。 映画など、もはや未知との遭遇である。ゲームに至っては、せいぜいチェスや将棋の類であろう。
そんな世界に「同人誌」。
しかも内容は、生贄だの魔王復活だの――どう考えても作者の癖が強すぎる。
そんな代物が存在していてよいのか。
別の意味で、世界が壊れるのではあるまいな。
心臓が早鐘を打つ。
自分でも挙動不審だと分かる。
我はわざと連続で咳払いをし、荒れた心と呼吸をどうにか整えた。
落ち着け。
まだ確定したわけではない。あくまで噂だ。
偶然似ているだけの可能性もある。
だが。
もし本当に、あの類の代物が“聖典”として崇められているのだとしたら。
しかも、それをもとに魔王復活の儀式を行うつもりだというのなら。
それはもはや、笑い話では済まされぬ。
我は小さく息を吐いた。
――うむ。同人誌は回収すべきだろう。それは、この世界には早すぎるアーティファクトだ。
我はそう結論づけた。
……いや、そう結論づけるほかなかった。
目的はより明確になった。
「騎士よ、やはり魔王崇拝教団に乗り込む。明日にでもこちらから攻撃を仕掛けるぞ」
そして絶対に、必ず、何が何でも――その“聖典”とやらを回収し、処分するのだ。
◇
――というわけで。
我はその翌日、さっそく邪教の本山に乗り込んだ。
有言実行。即断即決。
自分でも、この行動力の速さは少々恐ろしい。
騎士は最後まで文句を言っておったが、我の頑なな態度を見て、渋々と承諾した。
引き下がってくれてよかった。
あのまま許可が出なければ、色仕掛けという最終奥義を使うしかなかったからな。
我は夢女子というより、姫と騎士の逃避行を、少し離れた場所から眺めていたい派なのだ。
我自身がイチャつきたい訳ではない。
ということで、騎士には裏手から潜入してもらっている。ならば遠慮はいらぬ。
ここには騎士の目もないのだから、初っ端から一発デカいのをぶちかますとしよう。
「闇より暗き深淵の底。
光すら届かぬ静寂の牢獄よ。
我が血肉を糧とし、偽りの理を焼き尽くせ。
万象一切、虚無に帰すがいい。
『終焉の黒閃』!!
――我の前に立ち塞がる巨岩よ、爆ぜろ魔法!」
邪教の本山へ、腹の底を震わせるような轟音が響き渡った。
山肌を削り取って築かれた石造りの建物が、内側から軋むように揺れる。
衝撃は床を伝い、壁を震わせ、天井からは細かな砂塵がぱらぱらと降り注いだ。
揺らめく燭台の炎が大きく揺らぎ、祈りを捧げていた信徒たちのざわめきは、一瞬で悲鳴へと変わる。
「何事だ!」
祭壇の前に立っていた教祖が、怒気を孕んだ声を張り上げた。
「教祖様……! ひ、姫が……姫が攻めてきました!」
血相を変えた信徒が、転ぶようにして広間へ駆け込んでくる。
「――何事だ?」
先ほどよりも一段低い、冷えきった声が落ちる。
姫が、攻めてきただと――。
慌てた信徒の声が、広間に響き渡る。
「姫の強力な魔法で門が……入り口が破壊されています! 騎士の姿はありません、単独です!」
言葉の意味が、すぐには結びつかない。
毒と呪いを受け、寝台から起き上がることすらままならぬはずの姫が、動けるはずがない。
ましてや単騎で本山に攻め入るなど、正気の沙汰とは思えなかった。
だが――。
もし、これまでの報告が事実で、姫が健康を取り戻しているのだとしたら――。
混乱の底に沈みかけた思考の奥で、教祖の唇がゆっくりと歪む。
ならば、もはやどのような状態であろうと構わぬ。
魔王様復活の日にこの山へ来たという事実こそが重要だ。
我らにとっては、むしろ好都合ではないか。
「こちらから打って出る。姫を捉えるのだ!」
命令が飛んだ瞬間、信徒たちは一斉に動き出した。
廊下を駆け抜ける足音、抜き放たれる剣の擦過音。
それらが混じり合い、建物全体がざわめきと緊張に包まれていく。
教祖は信徒たちを引き連れ、姫のもとへと向かった。
一方、その頃――。
本山の巨大な門前では、石畳が無残に砕け散っていた。
粉塵がまだ白く漂うその中心に、金色の髪をなびかせた一人の少女が立っている。
姫こと、我である。
足元には、吹き飛ばされた門扉の残骸。
周囲には気絶した信徒たちが折り重なるように転がり、まだ意識のある者たちも、腰を抜かしたまま後ずさっていた。
恐怖と混乱が入り混じった視線が、すべて我へと注がれていた。
胸の奥で、魔力が高鳴る。
――ここに、娘を殺した黒幕がいる。
鼓動と重なるように脈打つそれを感じながら、我は顎を上げた。
「出てこい、教祖! 我自ら来てやったぞ!」
空気を震わせるその声は山肌に反響し、幾重にも重なって本山を打つ。
続けざまに放った一撃が、入り口の柱を粉砕した。
その瓦礫の向こうから、信徒に守られた教祖がゆっくりと姿を現した。
「――自ら檻に飛び込んでくるとは、なんと愚かな」
高台にある教会の入り口から、教祖は姫を値踏みするように見下ろした。
幾人もの黒ずくめの男たちの中に、凝り固まった宗教観で濁った目をした、ひときわ目立つ男に気づく。
――こいつが黒幕。
我は腕を組み、口元へ笑みを刻みながら、教祖を真っ直ぐ見据えた。
――この娘を殺した報い、今ここで受けさせてやろう。



