真実を知らされた夫人は意識を失い、そのまま崩れ落ち、使用人たちによって別室へと運ばれていった。
執務室には、私と侯爵だけが残された。
行き場を失った沈黙が、重く、深く、部屋の空気の底に沈殿していく。
リュミエールは、すでにロウヒル領へ向かっている。
まさか兄上が痺れを切らし、ここまで性急な手に出るとは思っていなかった。
この後、私はどう動けばいいのか。
前回と同じ選択を取らなければ、歴史の歯車は狂うのだろうか。
だが――すでに私は後手に回っている。
夫人に説得してもらうという算段は、あまりにもあっけなく潰えた。
焦りだけが胸の奥で膨らみ続けるのに、次の一手がまるで浮かばない。
私は思考ごと、この場に縫い留められたように動けずにいた。
――いや。
歯車は、もう狂ってしまったのだ。
ならば、魔物の襲撃そのものが起きなくなる可能性だってあるのではないか。
そもそも、リュミエールはこの騒動と無関係だったのかもしれない。
このまま下手に動かず、何も起きない可能性に賭ける――。
そんな選択肢すら、頭をよぎる。
「あの子は……リュミエールは、私たちの子ではない」
自分に都合の良い思考で無理やり心を落ち着かせようとしていた、まさにその最中だった。
侯爵が、張り詰めた沈黙を叩き割るように言葉を落とした。
……待ってくれ。
今、何と言った?
思考が一瞬、現実を拒んだ。
「……そう、思いたいのです」
……どういう意味だ?
『思いたい』ということは、リュミエールはやはり本当の娘なのか?
「今から十八年前――あの子が、生まれて間もない頃の話です」
前触れもなく語り出した侯爵は、言葉を選ぶように一拍置き、静かに視線を伏せた。
その短い沈黙が、これから語られる話の重さを、かえって雄弁に物語っている。
「親類にあの子の顔を見せた帰り道、天候が急変し、滝のような大雨に見舞われました。当時その一帯は魔物が出ると噂されており、視界の悪さに焦った私は、危険だと分かっていながら、御者に馬車を急がせてしまったのです」
悔恨を押し殺すように、侯爵は唇を噛みしめた。
「その愚かな判断のせいで、馬車は崖から転落しました」
あまりにも唐突な結末に、言葉の意味を理解するより先に、胸の奥がひやりと冷える。
私は無意識のうちに、喉を鳴らしていた。
「幸い私は軽傷で済み、妻も気を失ってはいましたが命に別状はありませんでした。ですが――」
私は息を詰め、続きを待った。
時間だけが、異様なほどゆっくりと流れていく。
自分の心臓の鼓動が、やけに大きく耳の奥に響いて聞こえる。
「生まれて間もない娘は、誰の目にも明らかなほど、重篤な状態でした」
侯爵はそこで言葉を途切れさせ、視線を伏せた。
組んだ指先が小さく震え、深く息を吸い込むまで、しばしの沈黙が落ちる。
その重さに、私は何も返すことができなかった。
「私たちのかけがえのない娘が、死の淵に立たされていたのです。祈りました。崖下に落ち、大雨に打たれ、救助も望めぬ状況で、泥にまみれた私にできることは、それしかありませんでした」
侯爵の独白に圧倒され、思考が追いつかない。
胸の奥に、重たい石を落とされたような感覚だけが残る。
それでも――今のリュミエールは、あれほど健やかに育っているではないか。
この話が、いったい何に繋がるというのだ。
「どれほどの時間が経ったでしょうか……。娘の体からは、すでにぬくもりが感じられませんでした。雨のせいなのか、それとも――もう、この子とは別れるしかないのか。祈りは無意味だったのか。そう思った、その時です」
『――その赤子は、死ぬのか?』
「突然の声に、私は周囲を見回しました。ですが、聞こえるのは激しい雨音だけで、人の気配はどこにもありません。そこは、魔物同士の争いが目撃されていた場所でもありました。恐怖に震えていると、再び声が響いたのです」
『その赤子は、死んでもいいのか?』
「反射的に叫びました。そんなはずはない。この子は私たちの大切な娘だ。侯爵家の跡取りだ。幸せに生きる未来があったはずだ。――なのに、なぜ神はこのような試練を与えるのか、と」
『…………残念ながら、その赤子の魂は、たった今、離れてしまった。肉体はまだ生きているが、それも数刻と持たないだろう』
――息が、止まった。
魂が、離れたとは?
それはつまり――目の前の赤子は、もう“生きていない”ということなのか。
「残酷な宣告に、私は動かぬ娘を抱きしめ、ただ泣き叫ぶことしかできませんでした。その間も、その声は続きました」
『だが、私なら、その身体を繋ぎ止めることができる』
「神はいるのだ――そう思いました。娘を生かせると言うのです。縋らぬ親がいるでしょうか」
そのときの侯爵は、もはや理性を失っていたのだろう。
目の前に差し出された救いが真実かどうかを疑う余裕など、どこにもなかったはずだ。
私は胸の奥を、冷たい手で掴まれたように強く締め付けられた。
無意識に喉を鳴らし、指先が机の縁に食い込んでいたが、気にする余裕はなかった。
そして、侯爵は悔恨を滲ませるように目を細めた。
「そうして、娘は目を開けました」
――生き返った……?
だが、その言葉は胸に落ちなかった。
安堵とは違う、説明のつかないざわめきだけが残る。
侯爵は感情を押し殺し、どこか達観したような口調で話を続ける。
「冷え切っていた身体に、確かな温もりが戻ったのです。娘が生き返った――その事実が、ただ嬉しくてたまりませんでした」
当時を思い出したのか、侯爵は一瞬だけ穏やかな笑みを浮かべる。
「その後、魔物に襲われることもなく、救助が到着するまで持ちこたえました。妻はこの出来事を知りません。娘が一度、死にかけたなど、口にできるはずもありませんでした」
侯爵は淡々とした口調で言葉を継いだ。
その声には抑揚がなく、感情を削ぎ落としたような静けさだけがあった。
「そして、私たちは元通りの日常に戻った――そう、信じていました」
侯爵はそこで言葉を切り、わずかな沈黙を落とす。
それは、言葉にできなかった思いを抱え込むための静けさのように、重く場に広がる。
「異変に気づいたのは、屋敷に戻ってからです。娘は泣かなくなりました。昼も夜もなく泣いていたのに、それが一切なくなったのです」
泣かない赤子――その言葉が、妙に生々しく胸に残った。
それは“静かで育てやすい子”という意味ではなく、もっと根源的な何かを失った存在のように思えた。
「泣き声だけではありません。あれほどよく笑っていた娘から、笑顔が消えました。……表情そのものが、失われたのです」
その瞬間、侯爵の顔に浮かんだ苦悩は、痛々しいほどだった。
なぜ、という問いと、答えを知っているはずだという自責が、同時に滲んでいる。
私は悟る。
彼は今も、自分に問い続けているのだ――私は、何をしてしまったのか、と。
「妻は、大事故に遭ったのだから、娘も驚いて変わってしまったのだろうと言いました。私も、そう思うことにしました」
侯爵の声は落ち着いていたが、その奥に滲む震えを隠しきれていない。
感情が溢れ出すのを、理性で必死に押さえ込んでいるように見えた。
「そうして――どこか“別のもの”に変わってしまったように感じた娘は、美しく聡明に育ちました。表情が乏しいことを除けば、どこに出しても恥ずかしくない、立派な淑女へと成長したのです」
そう言って、侯爵は遠くを見つめた。
その瞳に浮かぶ感情を、私はすぐには読み取ることができなかった。
「ただ――たまに夜中にいなくなるのです。扉に鍵をかけていても……」
「あるときは……体中に血を浴びて戻ってくることもありました」
思考が、一瞬止まる。
――それは、本当に人の話なのか?
その静かな告白に、私は思わず息を詰めた。
侯爵令嬢として、あまりにも常識から逸脱した話ではないか。
「それでも、私の娘です。そう思い込もうとしました。あの子は、私の娘なのですから」
強く握られた拳からは、疑念も恐怖もすべて飲み込もうとしてきた父の覚悟が伝わってくる。
だが次の瞬間、その張り詰めた力がふっと抜け落ちた。
「……けれど今は、こう思うのです。あの子は、本当に私の娘なのだろうか、と」
侯爵の言葉はあまりにも重く、あまりにも衝撃的で、私は言葉を失った。
何を問われているのか、どう答えるべきなのか、考える余地すらない。
踏み込んではならない場所に足を踏み入れてしまった気がして、息が詰まる。
これは、もはや私一人で背負える話ではない。
リュミエールという侯爵令嬢は、いったい何を失い、何を背負わされて、ここに立っているというのだろうか。



