滅びを知る王子は、追放された令嬢を救うため二度目の人生をやり直す


 舞踏会が終わってから、そう時間は経っていなかった。

 ――案の定だ。
 兄上はすぐに私を呼びつけ、リュミエール侯爵令嬢を冤罪に仕立て上げるための書類作成を命じてきた。

 それを――私は、数日かけて整える。

 前回は、ただ兄上の機嫌を損ねたくないという理由だけで、言われるがまま、可能な限り急いで偽りの書類を捏造した。
 
 だが、今回は違う。
 このまま進めば、侯爵が冤罪と知りつつ承諾してしまう可能性がある。
 それでは――また同じ歴史をなぞるだけだ。

 冤罪が成立しないように、私は、一枚一枚に細かな細工を施していく。
 
 仮にこのまま進んでも、書類不備を理由に刑は執行されないはずだ。
 兄上に気取られぬよう細心の注意を払った結果、前回よりも多くの時間を要してしまったが――。

 怒り狂った兄上の顔が脳裏をよぎり、私は無意識に額へ手を伸ばした。
 もう傷は塞がっただろうか。

 この傷は、書類が思うように仕上がらず、不機嫌になった兄上にグラスを投げつけられたときのものだ。
 兄上は昔から、思いどおりに進まなければ、些細なことでも怒りを周囲へぶつける性分だった。
 
 だが、完成した書類を差し出すと、兄上は中身を確かめることもなく、表面をざっと目で追っただけで満足したらしい。
 途端に機嫌を良くし、まるで問題がすべて解決したかのように能天気な笑みまで浮かべた。
 そしてそのまま浮かれた様子で、アデリーヌ伯爵令嬢を伴い、何事もなかったかのように部屋へと消えていった。

 ――そこまで思い出し、私は胸の奥に溜め込んでいた息を、静かに吐き出す。

 書類の偽装は――ばれていない。

 書類を懐に収め、私は踵を返した。
 あとは、これを持って侯爵家へ向かうだけだ。

 その一歩を踏み出した瞬間、リュミエールの顔がふいに脳裏をよぎった。

 ◇

「ようこそいらっしゃいました、フェリオン殿下」

「急な訪問ですまない」

 最低限の先触れは出していたため、玄関では侯爵自らが出迎えた。
 だが、その表情には娘の身に迫る事態への動揺はほとんど見られない。

「いえ、要件は承知しております。それでは書類の確認のため、執務室へ――」

 簡単な挨拶もそこそこに、侯爵は話を先へ進めようとする。
 その手際の良さが、かえって私の胸に小さな引っかかりを残した。
 私は一度息を整え、口を開く。

「夫人も、その場に呼んでくれないだろうか」

 侯爵は思わず動きを止めた。
 ゆっくりと振り返った顔には、怪訝さと、隠しきれぬ戸惑いが浮かんでいる。

「妻……ですか? ですが妻は、息子の様子を見ておりますので……」

「養子に迎えた遠縁の子だったな。もう十五だろう。付きっきりで世話を焼く年齢でもあるまい」

「……ですが」

「少しの間だ。メイドがいれば十分だろう」

 リュミエールが兄上の婚約者に内定した後、侯爵家には跡継ぎがいないという理由で、遠縁の子を養子に迎える約束が交わされた。
 いや、逆だったか。
 跡継ぎができたから、彼女を婚約者にしたのだったか。

 いずれにせよ約束は果たされ、侯爵家には跡継ぎができた。
 念願の男子が、家を継ぐことになったのだ。
 
 だから彼女の冤罪を了承したのかと疑いたくなるが……さすがに、考えすぎだろう。

 侯爵は視線を彷徨わせていたが、私の引かぬ意思を感じ取ったのか、やがて重い口を開いた。

「……ですが、内容が内容ですし……妻には……」

「二人の娘のことではないのか?」

 煮え切らぬ態度に、胸の奥で小さな苛立ちが燻る。
 
 この反応で確信した。
 侯爵は、今回の件を夫人に話していない。

 夫人に伝われば、リュミエールを追放せずに済むかもしれない。
 そう信じて、私は視線を逸らさなかった。

 やがて諦めたように息を吐き、侯爵は執事に夫人を呼ぶよう命じた。
 
 侯爵に案内され、私は静かな廊下を抜けて執務室へと通される。
 互いに言葉を交わすこともなく、重い沈黙のまま歩く。
 
 扉の向こうには、長い歴史を感じさせる重厚な家具が並んでいた。
 いかにも侯爵家の執務室らしい、落ち着いた空間だ。

 促されるままソファに腰を下ろす。
 柔らかく、それでいてしっかりとしたクッションに体を預けながら、私は静かに夫人の到着を待った。
 
 ほどなくして、呼び出された理由も分からぬまま、不安げな表情を浮かべた夫人が姿を現した。
 私は軽く視線で促し、侯爵の隣へ座るよう示す。
 
「お久しぶりです、フェリオン殿下。この度は……一体、何があったのでしょうか」

 その不安を正面から受け止め、私は一度だけ息を整えた。
 迷いを見せる余地はない。
 ここで動かせなければ、道は閉ざされる。

「あなた方の娘、リュミエール令嬢が、先日の兄上――フロリアン殿下主催の舞踏会で、何を告げられたかご存知ですか?」

「え……。いえ……あの子は何も言わなかったので……。ねぇ、あなた。何がありましたの?」
 
 不安を抑えきれぬ様子で、夫人は隣に座る侯爵へ視線を向けた。

「…………」

 侯爵は唇を固く引き結び、視線を伏せたまま沈黙を選ぶ。
 
 代わりに私が事情を説明する。

 はじめのうちは、夫人は状況を飲み込めず、困惑したまま言葉を追っていた。
 だが、あの日の経緯を順を追って伝え、舞踏会での断罪の言葉を告げた頃には、その顔色が目に見えて失われていく。

 罪状を一つずつ読み上げると――。

 夫人の身体から、すっと力が抜け落ちた。
 崩れ落ちそうになった身体を、侯爵が咄嗟に支える。
 
 縋るように侯爵の衣を掴み、夫人の身体は小刻みに震えていた。
 やがて、かすれるような声で、ゆっくりと唇が動く。

「そんな……。あなた、どうして……。どうして、黙っていたんです?」

 侯爵は夫人へ向けていた視線をふいに逸らした。
 苦しげに眉を歪め、しばし言葉を探すように沈黙する。
 やがて絞り出すように、低く言葉を落とした。

「……息子も、私たちに懐いてくれたところだ。余計な心労をかけたくなかったのだ」

 その言葉を聞いた瞬間、夫人ははっとしたように侯爵の方へ向き直った。
 胸元の布をぎゅっと握りしめる指先が、わずかに震えている。
 
 見る間にその顔色は血の気を失い、紙のように白くなっていった。

「でも……あの子が、婚約破棄されていたなんて……。私は、何も聞いていませんわ。なぜ、あの子が……」

 私の胸の奥で固くなっていたものが、わずかに緩むのを感じた。
 夫人は、本気でリュミエールを案じている。
 少なくとも、この人の中で娘は切り捨てられてはいない。

 これなら――。
 ここで、彼女を止められる。

 長く詰めていた息を、私はようやく吐き出した。
 数日にわたって張り詰めていた緊張が、一気に肩から抜け落ちていく。

 これで、この国は救われるはず――――。

 そう思い、背もたれに身を預けた私の耳に――驚愕の事実が突きつけられる。

「一人で馬車に乗って出かけるなんて、変だと思ったんです……。あの子を、どこにやったんですか!」

 鋭い声が、静まり返った執務室に突き刺さった。
 思考が、一瞬追いつかない。

 ――出かけた?
 どこへ?
 
 夫人の必死な様子に、侯爵は苦しげに眉を寄せた。
 しばし沈黙したあと、淀んだ声で口を開く。

「……フロリアン殿下の使いが来たのだ。今すぐリュミエールをロウヒル領へ向かわせなければ、養子の息子には家督を継がせないと」

 ――耳鳴りがした。

 ロウヒル領。
 それは前回も、彼女が追放された先――魔物との緩衝地帯を抱える土地だ。

 胸の奥では焦燥が膨れ上がっていた。
 だが、それを夫妻に悟らせるわけにはいかない。

 喉の奥が詰まったように呼吸が浅くなる。
 それでも表情を崩さぬまま、私は必死に考えを巡らせた。

 なぜ、私が来るより先に、彼女は追放されたのか。
 前回と異なる点は――書類作成に要した日数。

 なかなか整わぬ書類に、兄上は業を煮やしたのだろう。
 罪はすでに確定している――そう決めつけ、侯爵邸へ使いを送り、半ば脅すようにして彼女を追放へと追いやったと、そう推測できた。

 全身から力が抜ける。
 あれほど綿密に練った作戦が、兄上の短気ですべて壊されたのだ。
 
 私は、溜まっていた疲れとともに沈み込んだ感情を、一息で吐き出した。

 ――なにもかも、遅かった。

 今回も、前回と同じように。
 破滅へ向かう歯車は、すでに音を立てて回り始めていた。