滅びを知る王子は、追放された令嬢を救うため二度目の人生をやり直す


 彼女の姿は、もうどこにもなかった。
 すでに会場を後にしたのだろう。

 全身の力が抜けたように、奥まった場所のソファへと再び腰を下ろす。
 そして、ざわめきの余韻がまだ色濃く残る舞踏会場を、ぼんやりと見渡した。
 
 人々の声や笑いは確かに耳に届いている。
 それでも、意識だけがこの場から切り離されたように、どこか遠くへと漂っていた。

 堪えきれず、私は深く息を吐き出した。

 ――前回の人生では、このあと私はどう行動したのだったか。
 
 前の私は――彼女のことも気にせず、上機嫌な兄上を冷ややかに眺めながら自室へと引き上げた。

 国外へ出ている父上に、いったい何と報告すべきか。
 考えるだけで胃の奥が重くなる。
 そんな答えの出ない問いに頭を悩ませた。

 婚約破棄に至った理由を兄上に尋ねたが――返ってきたのは、こんな言葉だった。

「リュミエール侯爵令嬢が、アデリーヌ伯爵令嬢に意地悪をしたんだぞ」
「ドレスを破られたと言っていた」
「成績を理由に、見下されたともな」

 他にも取るに足らないほど些細で、しかも確たる証拠のない曖昧な話ばかりだった。
 だが、兄上にとっては、それで十分だった。
 だからこそ彼女に対し、魔物が跋扈する緩衝地帯への追放という、あまりにも苛烈な処分を、何の躊躇もなく言い放ったのだ。

 兄上の言葉の前には、私の声など、風に消える囁きにも等しい。
 
 それを理解していたからこそ、あの侯爵令嬢を気の毒に思いながらも、私は兄上の意向に従い、淡々と処理を進めていった。

 それに、これほど理不尽な内容であれば、彼女の実家である侯爵家が黙っているはずもないと思っていた。
 さすがに正式な抗議を受ければ、兄上とて、ここまで無体な仕打ちを押し通すことはできまい。

 そう踏んで、私は兄上の提案どおりに書類を整え、侯爵家へと足を運んだのだが――。
 結果は、あまりにも呆気なかった。

 簡単に、受理されてしまったのだ。

 信じられなかった。
 自分の娘が冤罪で罪人に仕立て上げられ、魔物との緩衝地帯という僻地へ追放されるというのに。

 だが、どれほど疑問を抱こうとも、書類はすでに揃ってしまっていた。
 反対の声は、どこからも上がらない。
 実の親でさえ、賛意を示しているのだ。

 もう、私にできることはなかった。

 侯爵家の門を出て、馬車に揺られながら、胸を満たすどうしようもない無力感に耐えつつ、書類に記された“罪人”の名を、ただ目でなぞる。

 そこに記されていた名前――リュミエール・ノクタリア侯爵令嬢。
 脳裏で何度もその名を繰り返し、王城で出会った数少ない彼女の姿を思い返す。

 端正な顔立ちで、必要以上の言葉を持たない、美しい女性。

 私と彼女が言葉を交わした回数は、決して多くない。
 というよりも、兄上が彼女の王宮への出入りを嫌っていたため、顔を合わせること自体が稀だった。
 親同士の取り決めによって婚約が結ばれただけの相手だ。
 情のようなものが芽生える余地は、もとよりなかったのだろう。
 
 そこへ現れたのが、アデリーヌ伯爵令嬢――彼女とは正反対の、愛らしさを前面に押し出した女性だった。
 常に兄上を褒め、甘え、称え、喜ばせる言葉を惜しみなく注ぐアデリーヌに、兄上があっさりと心を掴まれたであろうことは、想像に難くない。

 兄上の性格を思えば、会話が弾まず、称賛もなく、自分を讃えもしないリュミエール侯爵令嬢は、鬱屈した感情を溜め込むだけの存在だったに違いない。

 その理屈は理解できる。
 理解できてしまうからこそ、胸の奥に不快な澱が滲んだ。
 もし、感情の捌け口として彼女が選ばれたのだとしたら――それは、あまりにも身勝手だ。

 彼女が、何をしたというのだ。
 家柄ゆえに婚約者に選ばれ、妃教育を受け、兄上の側にいただけではないか。
 冤罪で、これほどの仕打ちを受ける理由など、どこにもないはずだ。

 膨れ上がったやり場のない怒りを、私は大きなため息とともに、どうにか胸の外へ押し出した。

 そう思いながらも、結局、私は彼女に手を差し伸べなかった。
 
 あの追放の日も――。
 
 ただ、このまま別れるのは後味が悪いという、それだけの理由で、王都を出る城門まで、彼女の馬車を見送ったにすぎない。

 ふと覗いた馬車の窓越しに見えた彼女は、悲観する様子も取り乱した気配もなく、ただまっすぐに前を向いていた。
 いつもと変わらぬ冷静な瞳で進む先だけを見据える、その規律の取れた姿に、胸の奥がわずかに痛んだ。

 その痛み――自分の中に芽生えた罪悪感めいた不快感を、どうにか紛らわせたくて、城門を出る直前、私は声をかけた。
 
 一瞬だけ彼女の瞳が揺れた気がした。
 だが、すぐにうやうやしく頭を下げる。
 
 結局、言葉による返事は最後まで返ってこなかった。

 そして、誰にも――家族にすら見送られることなく、彼女を乗せた馬車は静かに城門を後にしたのだ。
 

 ――――そうだ。彼女の家族だ。

 前回の人生を辿る中で、ふと頭の奥で何かが弾けるように閃いた。

 このあと私は、兄上から、彼女を冤罪に仕立て上げるための書類作成を任されるはずだ。
 前回は、侯爵とほとんど言葉を交わすこともなく、侯爵家の応接室で罪状を読み上げ、当主の承諾を得ただけだった。

 私は立ち上がり、はやる気持ちを抑え込みながら会場を後にし、自室へと足を向ける。

 あのとき、あの場に、夫人の姿はなかった。
 侯爵自身が、なぜあれほどあっさりと娘の冤罪を受け入れたのかは、今も分からない。

 だが――夫人は、どうだろうか。

 足早に自室へ戻り、兄上から命じられるであろう書類を整えるため、必要な資料をかき集める。
 だが、前回と同じにはしない。

 夫人に話したところで、無駄に終わるかもしれない。
 そんな考えが一瞬、頭をよぎる。
 それでも――やれることは、やりたかった。

 そう決めた瞬間――私は、兄上に気取られぬよう細工を施すために、ペンを強く握りしめた。

 今度こそ、彼女を引き留めるために。