滅びを知る王子は、追放された令嬢を救うため二度目の人生をやり直す


 侯爵家の執務室にて、侯爵とリュミエール、そして私の三人が向かい合って座っている。

 父上も同行しようとした。
 だが、魔物に襲われ大きく破壊された王城の復旧作業、そして兄上の処遇に関する諸問題が山積したまま城を離れるわけにはいかないと悟り、最後には静かに首を横に振って引き下がった。

 ここは、彼女の正体とこれまでの経緯を知る者だけで十分な場である。
 余計な人の目がないことに、私は内心で安堵する。

 そうして、重く張り詰めた空気の中で、これまでのいきさつを語ることになった。
 
 リュミエールと名付けられた赤子の死。
 そしてその肉体に宿った存在が、どのようにして今日に至ったのか。
 
 彼女は侯爵をまっすぐに見つめ、自らの言葉で、誤魔化すことなく、すべてを話した。

 侯爵は時おり目を細め、握りしめた手に力を込めながらも、最後まで口を挟まずに聞き続ける。

 やがて、すべてを聞き終えた侯爵が、深い沈黙を破るように口を開いた。

「私の娘は――もういないのだな」

 その一言に込められた重みが、部屋の空気をさらに沈ませる。
 
「申し訳ありません。あのときのわたくしは、まだ人間というものをよく理解しておらず……。お父様に酷いことをしてしまいました」
 
 表情は変わらない。
 それでも、侯爵に向けられた彼女の声から、胸の奥に積もった悔恨と申し訳なさが、はっきりと伝わってくる。

「いや……お前は――あなたは、娘の魂が離れたことをきちんと伝えてくれていた。それでも肉体を生かしてほしいと頼んだのは私だ。私の方こそ、娘にもあなたにも、あまりにも残酷な選択をさせてしまった」

 侯爵の拳が白くなるほど握り込まれる。
 抑えきれぬ感情を押し込めるように、指先がわずかに震えている。

 あの場にいたなら、誰もが同じ選択をしただろう。
 愛する娘を前に、理屈だけで割り切れるはずがない。
 責めることなど、誰にもできはしない。

「いいえ、お父様。わたくしは、あなたの娘として育てていただけたことに、感謝しかございません。ここでの暮らしは、本当に楽しいものでした」

 穏やかで、優しい声色だった。
 十八年間、娘として受けた愛情への感謝を、彼女は一言一言、丁寧に紡いでいく。

 侯爵は俯き、こぼれ落ちそうになる涙を堪えるように手で顔を覆った。
 
「あなたは……リュミエールは、私の娘だ。たとえその身に宿るものが魔物であったとしても、今のあなたは、私のかけがえのない娘なのだ。だからこそ、娘として人生を全うしてほしい」

 その言葉が発せられた瞬間、リュミエールの周囲に春の日差しのような、柔らかな空気が満ちる。

「……これ以上ないお言葉ですわ」

 彼女の表情はやはり読み取りにくい。

 だが注意深く見ていれば、そこに宿る安堵と喜びは、確かに感じ取れる。
 短い付き合いの私ですら分かるのだ。
 長年父として見守ってきた侯爵には、なおさらだろう。

 言葉にしなかったことで生まれた誤解も、向き合い、理解し合えば、想いはきちんと届く。

 私は、この二人の間に立てたことを、心から良かったと思った。

「フェリオン殿下にも、大変お世話になりました。私が不甲斐ないばかりに……」

「大丈夫ですよ。すべて、無事に終わったのですから」

 国は滅びなかった。
 辛うじてではあるが、守り抜くことができた。
 二度目の命を与えられた意味は、きっとこのためにあったのだろう。

 話もまとまり、二人の間に横たわっていた家族としての誤解も解けていた。
 もう、私がここに留まる理由はない。

 そう思い、ゆっくりと立ち上がろうとした、そのときだった。

「ところで殿下。ひとつ、お聞きしたいことがあるのですが」

 にこやかな笑みを崩さぬまま、侯爵の視線が絡みつく。
 胸の奥で、嫌な予感が静かに警鐘を鳴らした。

「殿下は、娘の正体をご存じですな」

「……そうだが」

 平静を装って答える。だが、背に冷たいものがなぞる。

「第一王子と娘の婚約も、すでになかったことになりました。娘は優秀ではありますが、まだ人として至らぬ部分も多い」

 隣のリュミエールも、表情を変えぬまま静かに首を縦に振る。

「ですので、殿下にはぜひ、娘を側で見ていていただきたいのです」

 侯爵の圧が、はっきりと形を持って迫ってくる。 
 リュミエールの眼差しもまた、逃げ場を与えぬ強さを宿していた。

「私には、あまりにも身に余るお話で……。それに、先ほども申しましたが、兄上がいなくなると決まった今、王家は多忙な時期でして……」

「そうでしたな。第一王子フロリアン殿下は、ロウヒル領へ送られるとか」
 
 魔物との戦いでさえ覚えなかった、掌に滲む嫌な汗を意識しながら、私はゆっくりと後退しようとする。

「はい。ですから当分は、私が政務を――」

 だがその瞬間。

 向かいに座っていたはずのリュミエールが、私の動きを察したかのように立ち上がり、回り込んで隣に滑り込み、そのまま距離を詰めてくる。

 思わず身を引くほど近い。
 逃げ道が、塞がれた。

「そもそも、あのように大々的に婚約破棄をされたわたくしと、新たに婚姻を結ぼうとする殿方がいるとは思えませんわ」

「そんなことはありません。リュミエール嬢は、とても魅力的なお方ですから」

 これは本心だ。
 強く、誠実で、不器用で、それでも真っ直ぐな彼女は、どうしようもなく魅力的だ。

「あなたは、わたくしのすべてを知っておられますもの」

 小さく息をつきながら、彼女は言葉を重ねる。
 その笑みは控えめだが、どうしようもなく人を引きつける。

「わたくしは……あなたがよろしいのです」

 胸が強く跳ねた。
 まるで内側から叩かれるように、激しく脈打つ。

 兄上と違い、これほど率直な好意を向けられた経験はほとんどない。
 どう応じればよいのか分からず、私は思わず一歩引いてしまう。

「ですが……その、父上が何と仰るか。それに国民も……」

 私がどうにか言葉を絞り出すと、侯爵は静かにうなずき、その懸念を退けるように口を開いた。

「それについてはご心配なく。なにせ娘は、なぜか聖女として民衆に讃えられております。殿下のお相手として不足はありますまい」

 ――そうだった。

 父上に向けて、苦し紛れに口にした“聖女”という言葉。
 それが今や、王国中を騒がせている。

 彼女が空から降り立つ姿を、多くの民に目撃されてしまった。
 しかもその場で、自ら名乗りまで上げていたのだ。
 私が侯爵家を訪れる頃には、噂はすでに王都中を駆け巡っていた。

 おとぎ話の中にしかいなかった聖女が実在する。
 そしてその正体はリュミエールである――。

 噂はもはや、誰にも止められぬほど大きくなっていた。

 兄上が王都を去ることになり、王位継承権第一位は私となった。
 その伴侶が聖女であれば、国は沸き立ち、誰もが祝福するだろう。
 
 王家と聖なる存在の結びつき。
 これ以上に分かりやすい吉兆はない。

 けれど――私は、まだ決めきれずにいる。

 前の人生で、彼女を蔑ろにしたこと。
 嫉妬に駆られ、彼女を罪へと追いやったこと。

 その記憶は、今もなお胸の奥に棘のように刺さっている。
 触れまいとしても、ふとした拍子に疼き、私を責め立ててくる。

 それに――。

「その……」

 私は、輝く瞳で真っ直ぐに見つめてくるリュミエールへ、恐る恐る問いかけた。

「――あなたの、お気持ちはどうなのですか」

 貴族同士の婚姻において、当人の気持ちを問うなど愚問に等しい。
 家と家の結びつきが何より優先される世界だ。

 だが私は、彼女を見続けてきた。
 無表情の奥に、溢れんばかりの感情が潜んでいることを知ってしまった。

 だからこそ、気になってしまう。
 
 彼女は魔物で、私は弱い。
 魔物の流儀では、私から婚姻を求めることなど、本来許されないのだろう。

 何より――私は、自分に自信がない。

 その事実が彼女を傷つけるかもしれないと思うと、どうしようもなく、嫌だった。

 俯き、指先に力を込めていた私の手の上に、彼女の手がそっと重ねられる。

「……馬に乗って、あなたと旅をしたのは楽しかったですわ。それに、心配してくださって、嬉しかったのです」

 それは、彼女を連れ戻すための行動に過ぎない。

「正体を知ったあとも、弱いのに身を挺してくださって……胸が温かくなりました」

 あれは私の意志というより、ただ体が勝手に動いただけだ。

「フロリアン殿下と対面したとき、わたくしの一歩前に出て守ってくださって、心が満たされたのです」

 兄上ならば必ず何か仕掛けてくると分かっていたから、身構えただけで。

「わたくしがあなたのもとへ戻ると、大きな笑顔で出迎えてくださるのが、面映ゆかったのですわ」

 ……そんな顔は、していない。していない――はずだ。
 
「『前を向き続けられるあなたに、憧れていました』――そう言ってくださったこと。初めて私を認めてくださったことが、嬉しかったのですわ」

 それは――前の人生で、無意識のうちに零れ落ちた、彼女への羨望だった。

「あら……でも、これはあなたに言われたことでは、なかったかしら……」

 ――どうして。

 その言葉は、前の人生のものだ。
 この人生で、私は一度も口にしていない。
 
 前の人生の言葉を、なぜ彼女は覚えているのか。
 その疑問が、胸の奥で静かに波紋を広げた。

 次の瞬間、私は悟ってしまう。
 
 あの言葉が。
 前の人生で、私が何気なく零した、たった一言が。

 彼女にとって――
 決して忘れることのできない言葉だったのだと。

 それはきっと、支えだった。
 
 前の人生で、彼女が唯一縋るしかなかった、たった一つの光。

 その事実を理解した瞬間、胸の奥で張りつめていた何かが、静かに崩れ落ちた。

 私の、何気ない言葉。

 それを――彼女は、ずっと抱えていた。

 私のことなど、覚えていなかったはずなのに。
 それでもなお、心のどこかに残してくれていた。

 忘れることも、手放すこともできずに。

 それほどまでに――
 生きる世界が変わってもなお、
 彼女は、私の言葉を抱え続けていたのだ。
 
 すべてを理解してしまった私は、もう逃げることができなかった。

 自分の感情からも。
 自分の気持ちからも。

 ――目を逸らすことはできない。

 胸の奥に押しとどめていた感情が、限界を迎えていた。

 体の奥から、じわりと熱がこみ上げてくる。
 気づけば全身に汗が滲み、呼吸は浅く、速くなっていた。
 息をするたびに胸がきしむように痛み、抑え込んできた想いが、内側から静かに軋みを上げる。

 もう――蓋をしておくことはできない。

 次の瞬間。

 押し殺していた想いが、間欠泉のように一気に噴きあがった。

「あ……あなたが……羨ましかった。私では足元にも及ばないと知って、嫉妬した。だから目に入らないようにしていたのに――気づけばいつも、あなたの美しい顔を追っていた」
 
「あなたが魔物に襲われたとき、死んでしまうかもしれないと思うと……怖かった」

 肩に、知らぬ間に力が入っていた。
 膝の上に置いた手は、無意識のうちに強く握りしめられ、その指先がわずかに食い込んでいる。

 それでも――いや、だからこそ、言葉は止まらなかった。

「でも、あなたが信じられないほど強くて……本当に、よかった」
 
「表情の乏しいあなたが、喜びや悲しみを抱いていると分かるのが、嬉しかった」

 言葉が、とめどなく溢れ出す。
 だがどれも拙く、取り繕う余裕もなく、まるで子供のような告白ばかりだった。

「最初は国のためだった。私が死なないためだった」
 
「でも、それは言い訳だ。本当は、あなたが忘れられなかっただけなんだ」
 
「あなたみたいに考えたかった。あなたみたいに強くなりたかった。あなたに――」

 堰を切ったように吐き出した言葉を、ひと息で言い切る。
 大きく息を吸い込み、彼女と目を合わせた。

 その彫刻のように美しい顔が、とても柔らかく私を見つめている。
 口元は今まで見た中で一番微笑んでいる。

 ――彼女の瞳は、とても澄んでいて静かで。

 私が、一番伝えたい言葉を、彼女に――。
 
「あなたを――愛しています」
 
 私の告白を聞いた彼女は、歓喜に打ち震えているように見えた。
 
 静まり返った執務室が、ゆっくりと幸福な空気に満ちていく。
 手を取り合い、互いを見つめる。その視線の中に、もう迷いはなかった。

 侯爵は、いつの間にか目元を濡らしていた。何も言わぬまま静かに席を立ち、そっと部屋を後にする。

 窓から差し込む光が、これまでとは違って見えた。

 緊張で冷え切っていた指先が、確かな温もりに包まれる。その熱が、長く胸に刺さっていた棘を、ゆっくりと溶かしていく。

 彼女が微笑む。
 私にはわかる。満面の笑みだ。

 私も、きっと同じ顔をしているのだろう。
 
 お互い、言葉もなく、瞳を閉じる。

 唇が、そっと触れ合う。

 ――ああ。
 私は、一生をかけて彼女を守り、幸せにしよう。

 存在そのものが美しい彼女を見つめながら、私は心の奥で誓った。

 ――もう二度と、彼女を一人にはしない、と。
 ――二度目の人生で、ようやく私は彼女を救えたのだから。

 ◇

 そうして――国に、確かな平和が訪れた。

 魔物は依然として存在していた。
 それでも、この国は確かに平和だった。
 
 聖女は王太子妃となり、王国は長きにわたり安泰を保った。

 やがてフェリオンは国王に即位し、善政を敷いた。
 王太子妃は王妃となり、聖なる力で国を守る存在として、国民に深く愛された。

 国王は民を何よりも想う王として語り継がれ、その崩御後も、王国が魔物に蹂躙されることはなかった。

 国王なき今もなお、
 愛した人の国を守りたいと願う彼女は――
 
 王国に近づくすべての魔物を、
 誰にも知られることなく倒して回っている。