あれから、どれほど走り続けただろうか。
助けを求める住民の声は、四方八方から絶え間なく届く。
泣き叫ぶ声、怒号、祈るような呟き。それらが渦を巻くように耳へと流れ込んでくる。
息を切らしながら王都の街路を駆け、倒れた民に肩を貸し、血を流す者には応急処置を施す。
人々を襲う魔物を見つけては、剣で斬りつけて倒し、他にいないかと魔物の気配を探り続けていた。
だが、時が経つにつれて、魔物の気配が離れていることに気づいた。
長年の経験が、強い違和感を訴える。
これほどの混乱が起きれば、血と恐怖の匂いに惹かれて、さらに多くの魔物が集まってくるはずだ。
混乱は彼らにとって格好の餌場なのだから。
それにもかかわらず、感じ取れる気配は驚くほど遠い。
――何かがおかしい。
「魔物が……減っている?」
見渡す限り、前世のあの惨劇と比べても、明らかに魔物の数が少ない。
それどころか、王都に到着した直後に目にした数よりも、確実に減少している。
周囲の人々も異変に気づいたのだろう。
あちこちで足を止め、戸惑いを含んだ声が交わされ始める。
兄上が戦っている……わけはないか。
乾いた笑いが、喉の奥で小さく鳴った。
一瞬、そんな可能性が頭をよぎったが、兄上の死に際のあの姿が脳裏に蘇り、すぐに否定する。
では、なぜだ。
なぜ、これほど分かりやすく魔物が減っているのか。
私は遠くへと視線を向けた。
魔物の動きが感じ取れる、王都の外縁近くへ。
そこでは、魔物たちが王都の中心部から離れるように、外へ外へと走っていた。
方々で砂埃が幾筋も立ち上り、その規模が決して小さくないことを物語っている。
まるで王都そのものから、逃げ出そうとしているかのようだった。
魔物は本能のままに生きる存在だ。理性よりも衝動を優先する、野生の塊のような生き物だ。
その彼らが、餌である人間に目もくれず、一斉に退却するなど――異常と言っていい。
「魔物が……逃げていく」
「戦いをやめて、王都から出ていく……なぜ」
あちこちから戸惑いの声が上がる。
誰もが理由を知らぬまま、答えのない疑問を宙へ投げていた。
そのざわめきに包まれながら、私もまた状況を掴めぬまま、ただ立ち尽くす。
胸の奥で、不安と期待が奇妙にせめぎ合っていた。
そのとき。
「見つけましたわ」
状況を飲み込めぬまま思考を巡らせていた私の頭上から、聞き覚えのある澄んだ声が降ってくる。
周囲の人々も、はっと息を呑み、同時に空を仰いだ。
どんよりと垂れ込めていた雲が、天そのものに裂かれたかのように割れ、眩い光が地上へと降り注ぐ。
その光はただ照らすのではなく、祝福するかのように静かに世界を満たしていった。
やがて、光の中心から彼女が姿を現す。
羽衣にも似た輝きに包まれながら、重力すら従わせるかのように、ゆっくりと――しかし確かな威厳をもって、地上へと降り立つ。
神々しい存在を前にしたかのように、私の全身が震えた。
それは恐れではない。
――歓喜だ。
私は無意識のうちに、ほころぶような顔で彼女を迎えていた。
彼女もそれに応えるように、表情こそ変えないまま、どこか柔らかな気配を滲ませた。
「ここにいましたのね。もう少しで、魔物はすべて去りますわ」
降り注ぐ光を受け、彼女の銀髪は一筋ごとにきらめき、光の粒を束ねたかのように揺れている。
陶磁器のように白い肌は光を拒まず、静かな艶を帯びて輝いていた。
見えぬ羽がその身を支えているかのように、優雅に舞い降りるその姿は、人の世に語り継がれる神話が、いまこの場に顕現したかのようで――。
「……天使……だ」
誰かの呆然とした呟きが、張りつめた空気の中に溶ける。
それは感嘆であり、畏怖であり、目の前の存在を人ならざるものとして受け入れようとする、半ば無意識の逃避でもあった。
その言葉が耳に届いたのか、彼女はゆるやかに視線を向け、場の空気を正すように凛と告げる。
「天使ではございません。わたくしの名は、リュミエール・ノクタリアですわ」
その名に反応するように、場がざわめいた。誰もが声を潜め、互いの表情をうかがい合う。
「侯爵の令嬢さまが、空から……?」
「リュミエール様が現れたら、魔物が逃げていった……?」
「もしかして……聖女様では……?」
「そうだ……! 聖女様だ……!」
囁きはやがてうねりとなり、怒涛のように広がっていく。
気づけば、その場は一斉に「聖女様」と呼ぶ声に包まれていた。
興奮と崇拝が入り混じった叫びは、しばらく収まりそうにない。
その様子に、私は腹の底が一気に冷える。
――まずい。
人々は、今は聖女だと誤解している。
しかし、彼女が魔物だと露見すれば――大変なことになる。
無表情のまま戸惑っている彼女の腕を掴み、私はその場から離れるように走り出した。
聖女と誤解している民衆の脇を抜け、伸びてくる手に捕まらぬよう、必死に駆け抜ける。
やがて、民衆の矛先が変わった。
私たちとは別の方向へ、人の波が集まり始める。
どうやら、私の意図を察した彼女が、幻惑の魔法をかけたらしい。
反対方向へ逃げる“私たちの幻影”を作り出し、人々の視線をそちらへ誘導したのだ。
それでも油断はできない。捕まっては元も子もない。
安全地帯へと走り続けながら、息も整わぬまま、私は先ほどから思っていた疑問を彼女へ問いかけた。
「少し前から魔物が逃げていきました。いったい何をしたんですか」
その問いに、彼女は当然のことのように、淡々と答える。
「魔物を先導していた、王城付近の知能持ちを何体か叩いてきましたの。この場で、わたくしが最も強くなれば、敵わぬ下級の魔物は逃げ出しますでしょう?」
なるほど、と胸の内で呟く。
王都から魔物たちが潮を引くように退いた理由が、ようやく一本の線で繋がった。
「ついでに、ゾルドもいましたので、当分まともに動けないくらい殴っておきましたわ」
「あの魔物、かなり強いのでは……?」
彼女は私を見つめ、口の端をわずかに上げる。
その微笑はどこか嬉しげで、誇らしげでもあった。
「最近、わたくし、とても気分がよろしいのです。ですから、全力を出せましたわ」
ほんの少しだけ。
――本当に、ほんの少しだけ。
あの巨体の魔物に、心の中でそっと合掌する。
「ですが……なぜ、空から降りてきたんです。あれでは、かなり目立ちます。下手をすれば、あなたが魔物だと――」
言いかけたところで、彼女はわずかにもじもじと身体を揺らし、居心地が悪そうに視線を伏せた。
ほんの一瞬、ためらう。
そして、上目遣いで私をちらりと見たあと、絞り出すように言葉を紡いだ。
「だって……早く、あなたの元へ戻りたかったんですもの」
その一言で、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
周囲の音が遠のき、世界が、薄い膜の向こうへと引き下がる。
ただ、その言葉だけが何度も反芻されるように、脳裏に焼き付いて離れない。
――これは、いけない。
感情を表に出さず、冷たく見えがちな彼女が。
こんなにも甘やかな空気をまとってはいけない。
……ほら。
私の視線は、完全に彼女に釘付けだ。
もう、彼女から目が離せない。



