燃え盛る王都。
魔物が跋扈する街中――それを、私はただ見ていることしかできなかった。
中央にそびえていたはずの壮麗な王城は、今や至るところが崩れ落ち、無惨な姿をさらしている。
――――国は滅んだ。
魔物たちの襲撃によって。
――いや。
私が、彼女を見捨てたせいなのかもしれない。
第一王子であった兄上も、すでに殺された。
母上の姿は見えなかった。どうか無事でいてほしい。
外交に出ていた父上も――生きていてほしいと願うしかない。
私の命の灯も、もはや風前の灯火だろう。
体中の血が、止めどなく流れ出していく感覚がある。
耐えがたいほどの寒さが、骨の髄まで染み込んでくるようだった。
床に投げ出されるように横たわり、私はほとんど身動き一つ取れずにいた。
身体の感覚はひどく鈍く、指先は自分の意思に従ってくれない。
流れ出た血が服を濡らし、冷え切った石床が容赦なく体温を奪っていく。
壊れた窓の向こうに、私はぼんやりと空を見つめた。
これまで王都が魔物に侵攻されたことなど、私が生きている間は一度もなかった。
――原因は、いったい何だったのか。
(――断言はできない。だが、あの侯爵令嬢を追放してからのことだったような気がしてならない……)
そう。
兄上の元婚約者にして、侯爵家の令嬢――リュミエール・ノクタリア。
冷静沈着な佇まいを崩さず、感情を表に出さない澄んだ瞳で世界を見つめていた、あの人。
思い返せば、彼女はいつも静かで、無駄のない美しさだった。
そのあまりにも美しい令嬢を、兄上は「つまらない」という一言で切り捨てた。
兄上は自分の好む令嬢と結ばれるため、彼女に罪をかぶせ、国境付近の魔物との緩衝地帯へと追放したのだ。
父上は外交で国を離れており、あの時の兄上を止められる者は誰もいなかった。
私は、黙って見ていた。
この王都から遠ざかっていく彼女の姿を。
私は、何もしなかった。
父上と侯爵家の取り決めによって選ばれた兄の元婚約者に、私ができることなど何もないのだと、そう思っていた。
これまでほとんど交流もなく、言葉を交わした回数すら数えるほどの相手だ。
だからこそ、関わる理由もないのだと、自分に言い聞かせていた。
兄上を恐れ、誰一人として見送りに来なかった彼女の馬車に、せめてもと城門まで付き添った。それだけで十分だと、言い聞かせながら。
これで最後になるのだと思い、私は彼女に言葉をかけた。
それまで、いつもと変わらぬ凛とした態度で、まっすぐ前を見つめていた彼女が――ゆっくりと、こちらへ視線を向ける。
その顔は、これから追放されるとは思えないほどに凛々しく、そして、息を呑むほど美しかった。
けれど彼女は、最後まで一言も言葉を発することなく、そのまま門の向こうへと消えていった。
あの時、なぜ彼女は何も言わなかったのか……。
今になっても、その答えは分からない。
それでも私は、最後に言葉をかけたことで、せめてもの責務は果たしたのだと――そう自分を納得させた。
――だが、それからほどなくして、魔物は攻めてきた。
これまでの緩衝地帯での小競り合いとは、まるで次元が違っていた。
昔は常に魔物の脅威にさらされていたと、私は歴史で学んだ。
しかし、二十年ほど前を境に状況は一変し、私たちの国は魔物を退けられる力を手にしたのだと伝えられている。
――その「強いはずの国」が、今まさに滅びようとしている。
あの令嬢が本当にこの惨劇に関与していたのかは、私には分からない。
それでも、兄上を止めるべきだった。
彼女を、あの馬車から降ろすべきだった。
そう思った瞬間、胸の奥がきしむように痛んだ。
取り返しのつかない過ちを、自分の手で確定させてしまったのだという実感が、じわじわと広がっていく。
悔恨も、焦りも、嘆きも――叫び出したいほどの感情が胸の奥に渦巻いているのに、体はそれに応えてくれなかった。
いつの間にか、寒さは感じなくなっていた。
身体はもう、ぴくりとも動かない。
私は――――。
あの美しい令嬢を――――。
霞む視界の奥に、無表情のまま静かに前を見つめていた気高い――あの瞳が浮かんだ。
少しずつ周囲の喧騒が遠ざかり、やがて何も聞こえなくなる。
その果てで、私の世界は静かな闇に包み込まれた。
◇
――そして、意識が戻った。
最初に感じたのは、耳障りなほど賑やかな人々の声だった。
次いで、場違いなほど優雅でゆったりとした音楽が耳に流れ込んでくる。
鼻先をくすぐる、美味しそうな香り――おそらく料理の匂いだ。
あの凍えるような寒さはもうない。
むしろ身体は、ほんのりと熱を帯びている。
――私は、死んで天国に来たのか?
閉じていた目を、そっと開ける。
視界に飛び込んできたのは、煌びやかな大広間。
豪奢な衣装に身を包んだ紳士淑女が集い、音楽に合わせて男女が優雅に舞っている。
――――ここは、見覚えがある。
意味を成していなかった周囲のざわめきが、次第に言葉として耳に届くようになっていく。
――――知っている。私は、この光景を知っている。
冷たい汗が一気に噴き出した。
思わず目を見開き、呼吸が喉の奥で詰まった。
私は、確かに死んだはずではなかったのか。
ここは――あの舞踏会の会場ではないか。
その会場の中心から、聞き慣れた兄上の声が響いた。
「リュミエールよ!」
兄上が、彼女の名を呼ぶ。
張り詰めていた私の意識が、その声に一瞬だけ大きく揺らいだ。
兄上の口から、次に放たれる言葉を――私は、知っている。
気づけば、私は人々をかき分けて走り出していた。
礼節も体裁も、すべて頭から吹き飛んでいた。
ぶつかった相手に謝罪する余裕すらなく、ただ前だけを見つめて走る。
兄上と彼女が立っているはずの場所へ向かい、私は思わず声を張り上げた。
「駄目だ、兄上! それ以上は――――」
ここが、すべての始まりだ。
この選択が、あの破滅へと繋がっているはずだ。
今度こそ、間違えたくない。
――あの結末だけは、繰り返させてはいけない。
そうして手を伸ばした、その先で。
兄上の断罪の言葉が放たれた。
「お前とは、今日この場をもって、婚約破棄とする!」
その一言が落ちた瞬間、静まり返っていた広間が一拍遅れてざわめきに揺れた。
その中心で――あの美しい人は、周囲のざわめきに呑まれることなく、静かな冷静さを宿した瞳で、ただ兄上を見つめていた。

