〜摂食障害という名の、透明な檻に閉じ込められて~

数日後の夕食時。

食卓には楓の好きなハンバーグが並んでいた。

しかし、楓は箸の先で小さく肉を崩すだけで、一向に口へ運ぼうとしない。

母親はそんな娘の様子を、心配そうに覗き込んだ。

「楓、なんで最近ごはん残すの? どこか具合悪いの?」

楓はビクッと肩を揺らし、母親と視線を合わせないようにうつむいた。

「……うん、あんまりお腹すいていないの」

(食べたら、またあのコメントみたいに『太い』って思われちゃう。食べちゃダメだ、我慢しなきゃ……)

「身体に悪いから、ちゃんと食べなきゃダメよ」

「せっかく楓の好きなチーズinハンバーグにしたのよ? ほら、一口だけでも食べなさい」

「……本当に、いらないの。ごちそうさま」

「ごちそうさまって、まだ全然食べてないじゃない。最近ずっとそんな調子よ? 学校で何かあったの? 友達とケンカでもした?」

「何もないってば! なんでそうやって根掘り葉掘り聞くの!?」

「お母さんは心配してるから言ってるのよ! そんなトゲトゲした態度取らなくたっていいじゃない!」

母親の正論が、今の楓には重苦しいプレッシャーとなってのしかかる。

「……わかってるよ……」

楓は小さく呟き、逃げるように箸を置いた。

「もう部屋に戻るね」

「待ちなさい楓! 片付けくらい手伝って……」

母親の声を背中で遮り、楓は足早に階段を駆け上がっていった。

自室に飛び込み、ドアを閉めて鍵をかけると、ようやく張り詰めていた息を吐き出すことができた。

(お母さんには、私の気持ちなんて絶対にわからない)

どっと押し寄せる疲労感に襲われながら、学習机の椅子に深く腰掛ける。

机の上には、手を付けていない塾のプリントと、鏡が置かれていた。

嫌でも自分の顔が視界に入る。

(なんでお母さんはあんなに太るものを食べさせようとするの? 私をデブにしたいの? 私が太って、みんなに笑われてもいいと思ってるの……?)

母親の純粋な愛情からの心配が、歪んだフィルターを通して、自分を陥れる悪意のように思えてしまう。

そんな歪んだ思考に支配されていく自分が、楓自身も怖くてたまらなかった。

お腹は鳴っている。

本当は、大好きなハンバーグを頭からかぶりつきたいくらいに、猛烈な空腹を感じていた。

鼻の奥に残るデミグラスソースの香りが、容赦なく胃袋を刺激する。

(食べたい……。お腹すいたよ……。でも、ダメ。一口でも食べたら、私の体はもっと丸くなって、あの恐ろしい言葉が現実になっちゃう)

空腹の苦しみと、太ることへの恐怖。

その二つの感情が、楓の脳内で激しく殴り合っていた。

(『なんか太くない?』……あの言葉が、ずっと頭の中でリピートしてる。耳を塞いでも、目を閉じても、あの七文字が頭にこびりついて離れてくれない。私、普通に美味しくご飯を食べることすらできなくなっちゃったの?)

お腹が空くという人間として当たり前の欲求に対して、猛烈な罪悪感を覚える。

食べたいと思う自分自身が、汚く、意志の弱い、醜い存在に思えてくる。

(助けて。誰か、私は太ってないって言ってよ。お母さんの言葉じゃダメなの、お母さんは私の本当の姿を知らないから。でも、誰に聞けばいいの? 陽葵に聞いたら『そんなことないよ』って気を遣わせちゃう。そしたらまた、裏で『あいつ気にしてる、ウケる』って言われるかもしれない……)

疑心暗鬼の闇はどこまでも深く、楓を底なし沼のように引きずり込んでいく。

かつてクラスの1軍トップとして輝いていた少女の面影は、そこにはなかった。

ただ空腹に耐え、孤独と恐怖に震えながら、自分の胃のあたりをきつく両手で抱え込んで耐えることしかできない、傷ついた小さな子供がそこにいるだけだった。