〜摂食障害という名の、透明な檻に閉じ込められて~

意識の底から這い上がってきたとき、楓の視界に飛び込んできたのは、見慣れたはずの白い天井だった。

しかし、何かが違っていた。

窓には頑丈な格子が嵌められ、部屋には危険な家具が一切ない。

そこは、これまでの一般病室ではなく、自傷や錯乱の恐れがある患者が隔離される「保護病室(隔離室)」だった。

「紬ちゃん……っ! 紬ちゃん!!」

目が覚めた瞬間から、あの屋上の光景が鮮明にフラッシュバックし、楓は狂ったように叫び声を上げた。

「私のせいだ……私が手を離したから! 離して、私も行く、紬ちゃんのところに行くの!!」

「楓ちゃん、落ち着いて! 看護師さん、早く鎮静剤を!」

「嫌だ! 触らないで! 離してよ!! 紬ちゃんが一人で待ってるの! 私が殺したんだから、私が行かなきゃダメなの!!」

「誰もそんなこと思ってないから! 楓ちゃん、お願いだから自分を傷つけないで!」

自分の髪をむしり、壁に頭を打ち付けようとする楓を、複数の看護師たちが必死で組み伏せる。

点滴の針を引き抜き、血が飛び散る中、楓はただ暴れ続けた。あまりの精神的ショックに、一時も目を離せない「手が付けられない状態」が何日も、何週間も続いた。

親友を目の前で失ったトラウマは、少女の心を完全に粉砕していた。

それから、半年という長い、長い時間が流れた。

季節は変わり、激しい発作の嵐が去った楓の心は、深い泥のような静けさを取り戻しつつあった。

ようやく自傷の危険が消えたと判断され、保護病室から元の一般病棟へ移ることになった。

ちょうどその頃、年度末の時期ということもあり、楓の主治医が交代することになった。新しい担当の先生は、これまでのカルテをじっくりと読み込んだあと、ベッドに横たわる楓の元へやってきて、穏やかに語りかけた。

「楓ちゃん。これまでの治療の経緯を全部見直したんだけどね、もう一度、最初から精密な検査をし直してみたいんだ」

楓は生気のない目で先生を見つめ、力なく首を振った。

「また同じか……。どうせ、私の心が弱いから食べられないんでしょ……。もういいよ……」

(また心因性だ、ストレスだって言われて、無理やり鼻から管を入れられるだけ。もう傷つきたくない……)

「今までたくさん辛い思いをしてきたよね。でもね、僕をもう一度だけ信じて、検査を受けてみてくれないかな」

「……何をやったって、私は食べられないもん。変わらないよ」

「それでも、原因をはっきりさせたいんだ。お願いできるかい?」

「……うん。どうせ、結果は一緒だけど……」

しかし、数日後。

すべての検査結果が出揃った日、新しい先生は楓の病室に父親と母親を呼び出した。

先生の表情は、いつになく真剣で、どこか強張っていた。

「お父さん、お母さん、そして楓ちゃん。今日、皆さんにとても大切なお話をしなければなりません」

新しい先生の声は、静かだったが、どこか張り詰めていた。

これまでの先生たちのように、カルテをパパッとめくるような雑さはない。

ただ、一枚の新しい検査画像を、祈るように両手でそっと机の上に置いた。

母親は恐怖で身をすくませ、隣に座る父親の袖をぎゅっと握りしめた。

(また、あの子の心が壊れているって言われるの? 紬ちゃんのことがあったから、もっとひどい精神病だって言われてしまうの……?)

父親もまた、奥歯を噛み締め、これから下されるであろう「残酷な宣告」に備えて肩を硬くした。

「先生、どんな結果でも受け止めます。娘の新しい治療方針を教えてください」

「ええ。楓のこれからのために、私たちができることなら何でもしますから……」

しかし、先生の口からこぼれ落ちたのは、予想もしない言葉だった。

「楓ちゃんの病気は、これまでずっと『心因性の摂食障害』だと思われていました。……でも、違ったんだ」

「え……?」

母親の喉から、ひっくり返ったような声が漏れた。

父親の目が見開かれる。

「先生、なんなんですか、それは……どういうことですか?」

「言っている意味が……。じゃあ、あの子が食べられないのは、何なんですか?」

先生は白衣のポケットからペンを取り出すと、画像の、食道と胃が交わるギリギリの境界線を優しくなぞった。

検査の結果、楓ちゃんの体の構造そのものに原因があることが分かりました。

食物が通る食道と胃の間にある筋肉の部分が、生まれつき、あるいは成長の過程で、正常に育っていなかったんです。

通り道が、ほんの数ミリしかない。極端に狭くて、固形物が物理的に通らない状態だったんですよ。

静まり返った診察室に、先生のペンの先が画像を叩く、小さなプラスチックの音だけが、トントン、と虚しく響いた。

その言葉が、ベッドの上の楓の耳に届いた瞬間。

彼女の脳裏に、これまでの地獄のような数年間が、走馬灯のように駆け巡った。

『なんか太くない?』というSNSの冷たい一言。

『なんで最近ごはん残すの?』と悲しそうな顔をしたお母さん。

『言うこと聞かないからよ!』と、無理やり鼻から太い管をねじ込んできた、あの厳しい看護師の冷たい目。

お父さんが買ってきてくれたゼリーを、どうしても飲み込めなくて吐き出したときの、あの絶望感。

そして、ナースステーションの前のベンチで『どうやったら死ねるかな』と紬と舐め合っていた、あの暗い日々。

全部、全部、自分の「心」のせいだと思っていた。

自分が我儘だから。

自分が、SNSの言葉を気にしすぎたから。

自分が、弱い女の子だから。

だからご飯が喉を通らないんだと、自分を責めて、責めて、責め抜いて、最後には死の淵まで歩いていってしまった。

「え……?」

楓の小さな唇が、ぶるぶると震え出した。

「じゃあ、わたしが今まで、食べたいのに食べられなかったのって……。太るのが怖かったからじゃなくて……?」

「そうだよ、楓ちゃん」

先生は、カルテから目を離し、楓の目をまっすぐに見つめた。

君は、太りたくないから拒んでいたんじゃない。

心が弱いからでもない。

体が、物理的に受け付けなかったんだ。

食べたいのに食べられないって、ずっと苦しかったよね。

心が原因なんかじゃ、どこにもなかったんだよ。

その瞬間、楓の目から、大粒の涙がポロポロと溢れ出した。

それは、これまで流してきたどの涙とも違っていた。

悔しさでも、恐怖でもない。ただ、自分の叫びが、何年もかかって、ようやく世界に届いたという、震えるような救いの涙だった。

(わたし、嘘つきじゃなかった……)

(我儘で残してたんじゃなかった……!)

(本当に、食べたくても、通らなかっただけなんだ。誰も信じてくれなかった私の身体の叫びを、やっと先生が見つけてくれた……!)

「先生……!」

母親がガタッと椅子を鳴らして立ち上がり、泣きながら先生の腕を掴んだ。

「それは、治療できるのですか!? 治るんですか!?」

「はい。手術でその成長していない狭い部分を切り取って、正常に育っている部分同士を縫い合わせれば、すぐに治りますよ。普通の食気が、摂れるようになります」

「ああ……っ、あああ……!」

母親はその場に崩れ落ちるようにして、楓の細い体を抱きしめた。

「ごめんね、楓、ごめんね……っ! ママ、あなたがサボってるんだと思って、ちゃんと食べなきゃダメよって、そんなことばかり言って……! 苦しかったよね、痛かったよね……!」

父親もまた、大きな手のひらで顔を覆い、肩を激しく震わせて男泣きに泣いていた。

「楓……すまなかった……気付いてあげられなくて、本当にすまなかった……! パパたちが、お前を一番傷つけていたんだな……!」

診察室は、家族の嗚咽と、何年分もの苦しみから解放された涙で満たされていった。

その様子をじっと見つめていた先生は、そっと眼鏡を外し、目元を拭うと、もう一度、楓に向かって深く、深く頭を下げた。

「楓ちゃん、今まで本当にごめんね。私たち医療に関わる人間が、もっと早くこれを見つけてあげられなきゃいけない。心因性だ、摂食障害だと思い込んで、君の本当の病気を見落として、君をずっと、ずっと一人で苦しめてしまって、本当に申し訳なかった」

ずっとそばで車椅子を支えていた、あの優しい看護師さんも、もう堪えきれずにエプロンの袖で何度も目を拭っていた。彼女は楓の元へ歩み寄ると、その骨張った小さな手を、壊れ物を扱うようにそっと、しかし力強く握りしめた。

「楓ちゃん……本当につらかったよね。よく頑張ったね……! 誰も信じてくれなくて、神様に見捨てられたみたいに寂しかったよね……っ。これからはもう、無理して食べなくて怒られることも、鼻から管を入れられることもないからね……! がんばったね、楓ちゃん……っ」

「本当にごめんね、私たちのせいで……。あんなに痛い思いまでさせて……」

「う、うあぁぁーーーーーーーーーーーん!」

楓は、お母さんとお父さんの胸に顔を埋め、幼子のように声を上げて泣き叫んだ。

言葉にならない感情が、涙となって、身体の奥底から溢れて、溢れて、止まらなかった。

もし、もっと早くこの病気が見つかっていれば。

あんなに苦しい入院生活を送ることも、厳しい看護師に泣かされることもなかったかもしれない。

そしてーーあの屋上で、紬の手を離してしまうことも、なかったかもしれない。

苦しむ人の心の描写(真実を知った後の、もう一つの絶望)

(私は救われた。私の身体は、手術をすれば元通りに治る。お腹いっぱいご飯を食べて、また笑えるようになる。でも……紬ちゃんは?
私の病気が、ただの身体の病気だって最初から分かっていれば、私は入院なんてしなかった。閉鎖病棟に行くことも、あのベンチに座ることもなかった。紬ちゃんと出会うことも、彼女にあのビルの屋上の話を教えることも、絶対に、絶対になかったのに……!)

自分の無実が証明された喜びと同時に、親友を失った悲劇の理不尽さが、凶悪なブーメランとなって楓の胸に突き刺さった。

誰も悪くなかったはずなのに、見落とされた一つの真実のせいで、何人もの歯車が狂い、一人の少女の命が失われてしまった。

(神様は、なんでこんなに意地悪なの……。私を救ってくれるなら、なんでもっと早くしてくれなかったのよ。私が紬ちゃんを殺したんじゃない、この『間違い』が、私たちをあの屋上に追い詰めたんだ。でも、私がいくら泣いたって、どれだけ叫んだって、もう紬ちゃんは二度と戻ってこない……。私だけが、こんな風に『おめでとう』って言われて生き残るなんて、ずるいよ……っ)

救われたはずの心が、今度は「生き残ってしまった罪悪感」という新たな暗闇に引きずり込まれていく。

泣き叫ぶ楓の胸の奥は、嬉しさと、悔しさと、消えない喪失感で、ぐちゃぐちゃに引き裂かれていた。

失ったものはあまりにも大きく、その傷が完全に消えることはない。

けれど、何年もの間、楓の体をきつく縛り付けていた「心因性」という名の透明な呪縛が、今、確かな真実の前に、音を立てて崩れ去っていった。

窓の外からは、長い冬の終わりを告げるような、あたたかな春の光が、泣き続ける家族の背中を静かに照らし出していた。