〜摂食障害という名の、透明な檻に閉じ込められて~

「ダメ……! お願いだから、行かないで……っ!」

楓はもつれる足で紬の元へ駆け寄ると、その細い体を壊しそうなほど強く抱きしめた。

二人の骨張った体がぶつかり合い、鈍い衝撃が走る。

紬は拒絶するように一瞬体を硬くしたが、楓の涙で濡れた体温が染み込んでくると、力なくその腕を受け入れた。

屋上に、二人の激しい泣き声が響き渡る。

「離して、楓ちゃん……。もう疲れたの、終わりにさせて……」

紬の口から漏れる弱音をかき消すように、楓は必死に声を張り上げた。

「嫌だ! 紬ちゃんがいなくなったら……私、また一人になっちゃう……!」

「お願いだから一緒に生きよう! 紬ちゃんがいなきゃ私、明日からどうしていいか分かんないよ!」

「生きてたって苦しいだけだよ! 毎日毎日、ご飯食べるの怯えて、親の顔色伺って……そんなの生きてるって言えないよ!」

「それでもいい! 苦しくてもいいから、私の側にいてよ!」

涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、楓は紬の服の胸ぐらを掴み、生への執着をぶつけるように懇願した。

「みんな私のせいで不幸になって、パパもママも笑わなくなって、私には紬ちゃんしかいないの……! お願いだから一人にしないで……っ!」

その言葉は、紬の胸の奥底に冷たく沈んでいた心を激しく揺さぶった。

いつもSNSで「消えちゃいたいよね」と傷を舐め合っていたはずの親友が、今、自分のために必死に命乞いをしている。紬の瞳に宿っていた、死への冷徹な「決意」の光が、戸惑いと躊躇いへと揺らぎ始めた。

(楓ちゃん……、私は……)

「……楓ちゃん、本当に、私と一緒ならこれからも耐えられる?」

「うん! 耐えられる! だから、ね、こっちにきて、手を握って!」

二人の時間が、ほんの少しだけ生の方へと傾きかけた、その時だった。

「おい! そこで何をしてるんだ!!」

突如、重い非常扉が開く音とともに、鋭い叫び声が響き渡った。

見回りの警備員だった。

無線機を握りしめ、血相を変えてこちらへ走ってくる。

「ここは関係者以外立ち入り禁止だ! 危ないからそこから離れなさい!」

「今すぐそこから降りろ! 何をやってるんだ、警察を呼ぶぞ!」

「あ、違うんです! 私たちはただ……っ!」

「いいから動きなさい! そこでじっとしてろ!」

大人特有の、威圧的で容赦のない大声。

その声を聞いた瞬間、楓の心に、あの病院でいつも自分を厳しく叱り飛ばしていた看護師の影がフラッシュバックした。

「あ……、うそ……、怒られる……っ」

規則を破り、大人たちを騙してここにいる恐怖。

楓は完全にパニックに陥り、警備員の姿を見ておろおろと視線を彷徨わせ、紬を掴んでいた手の力が一瞬だけ、ほんのわずかに緩んでしまった。

(またあの暗い部屋に戻される。また怒られる。また、思い通りにならない身体で、冷たい言葉を浴びせ続けられるんだ……!)

その一瞬の隙を、紬のなかの「闇」は見逃さなかった。

大人に見つかった。もう終わりだ。すべてを暴かれ、またあの息苦しい世界に引きずり戻される。

「ーー楓ちゃん、ごめんね」

「やっぱり、私たちの居場所なんて、この世界のどこにもないんだよ」

紬は、これまでにないほど強く、そして悲しい眼差しで楓を見つめると、自らその小さな体を柵の隙間へと滑り込ませた。

「え……?」

引き留める間もなかった。

次の瞬間、紬の体は、夕暮れ時の空へと、吸い込まれるようにして真っ逆さまに飛び込んでいた。

「嘘……紬ちゃん!? 紬ちゃーーーん!!」

一瞬の出来事だった。

視界から、紬の姿が消えた。

「あ……」

楓の口から、声にならない乾いた音が漏れる。

駆け寄ってきた警備員も、その場で完全に硬直していた。

二人の視界に残ったのは、紬が着ていた服の残像と、ただ激しく吹き抜ける風の音だけだった。

数秒前まで確かに抱きしめていた親友の体温が、両手のひらから急速に消えていく。

「おい、嘘だろ……! おいっ!!」

我に返った警備員が、狂ったように無線機とスマートフォンを取り出し、震える手でボタンを押した。

「救急車! いや、警察だ! 大変なことが起きた、百貨店の屋上から、少女が一人ーー!!」

「おい! 君! 大丈夫か!? 降りた女の子の連れか!?」

「………………」

「おい! 返事をしてくれ! 誰か、誰か来てくれーー!!」

悲鳴のような連絡の声が、遠くで響いている。

楓は、紬が消えたフェンスの向こう側を、ただ呆然と見つめていた。頭の中が真っ白になり、心臓の音が耳元で爆音のように鳴り響く。

(私が……私が手を離しちゃったから?)

(紬ちゃんが、死んじゃった……?)

(私が殺した。あのとき、私が警備員の声にビビって、手の力を緩めたりしなければ。紬ちゃんは今も私の腕の中にいたのに。私が、彼女の命を崖の上から突き落としたんだ)

脳裏にこびりついて離れないのは、最後に紬が見せた、あの酷く静かで悲しい笑顔。

自分の指先が、ほんの1センチ、ほんの数ミリ動いただけで、一つの命がこの世界から永遠に失われてしまったという圧倒的な事実。

そのあまりの重量に、楓の小さな魂は完全に圧し潰された。

(あぁ、そっか。死にたいってこういうことなんだ。身体がバラバラになって、地面に叩きつけられて、冷たくなって、二度と口をきけなくなることなんだ。
怖い。怖いよ、紬ちゃん。なんで私を置いていっちゃったの。二人で繋がっているって言ったのに。
私のせい。全部、私のせいだ。私が可愛いって思われたいなんて浅はかなことを思ったから。私が病気になったから。私がビルの話を教えたから。私が、彼女の手を離したから……!!)

自分の存在そのものが、ありとあらゆる災厄を引き起こす呪いのように思えてくる。

指先から、紬の体温が消えていくのと同時に、楓自身のなかの「生きるための感情」が、急速に急速に、凍りついて枯死していくのが分かった。

親への申し訳なさも、推しへの憧れも、かつての輝かしい日常も、すべてが漆黒のインクに塗りつぶされていく。

残されたのは、世界で一番醜く、冷酷で、大罪を犯した自分という抜け殻だけだった。

あまりにも残酷で、受け止めきれない現実。

脳の許容量を遥かに超えたショックが、楓の精神を内側から破壊していった。

視界が急激に歪み、ぐにゃりと反転する。

地上の喧騒も、警備員の怒号も、すべてが遠ざかっていく。

楓は糸が切れた人形のように、そのまま冷たいコンクリートの床へと倒れ込み、深い意識の闇の中へと突き落とされた。