音楽室へ向かう途中で暁良に会った。明日の試合に向けて、今日はミーティングだけらしい。
「昨日の試合、うちの親父がテレビ見て大興奮してたよ」
「エースが絶好調だからな。あと、組み合わせが神だったなー。くじ引きした部長に感謝よ」
暁良は、飄々と笑っている。
「そういえば、吹部もコンクールとかあるんじゃねえの? こっちの応援なんか来てて、大丈夫なのかよ」
暁良が、ふと思いついたように聞いてきた。
「あー、うちは出ないんだ、コンクール」
「そうなん?」
「人数も少ないしさ。うちの部、コンクールとかで賞狙うっていうより、演奏会とか、地域のイベントとか、そういうのをメインにやる方針なんだ」
「へえ」
暁良は、少し意外そうに、でも面白がるように笑った。
「いいな、そういうの。うちなんか、勝つか負けるかしかねえもん」
「それはそれで、かっこいいけどな」
暁良は話しやすい奴だった。だからつい調子に乗って、櫂のことまで喋ってしまった。水泳をやっていて、昔からずっと応援してきた友人がいること。
「平野櫂……ああ、二組の。背高くて、ちょっと怖そうなやつだ」
「怖そうって、よく言われるんだよなー、あいつ」
俺は、つい笑ってしまう。
「口数少ないし、表情も硬いけど。……俺、子どものころプールが苦手でさ。スクールに通ってるのに全然泳げなくて、みんなに笑われたりもしたんだけど、あいつは一度もからかったりしなかったんだ。へたくそな俺のトランペットも、ずっと聞いてくれて」
気がつけば、そんなことを結構な熱量で喋っていた。
「すげー語るな、お前」
暁良が、にやにやと面白そうに俺を見ている。
「え? あ、ごめん! つい……」
「いいっていいって。幼馴染かー、ちょっと憧れるな、そういうの」
俺はできれば可愛い女子がいいけど、と暁良はいたずらっぽく笑う。
「で、そいつの大会も明日なの?」
「うん。会場遠いし、俺は野球の応援があるから、たぶん行けないけど」
「え、それ行かなきゃだろ」
「……まあ、うん、行けたら」
俺は、曖昧に笑ってごまかした。
暁良は、一瞬、何か言いたそうにこっちを見たけれど、それ以上は聞かなかった。そういうところが、こいつの、いいところなのかもしれない。
「じゃ、俺そろそろ部活――あ」
「ん?」
「やべ、教室に楽譜忘れた」
「町谷ー。明日の本番で忘れんなよ?」
「大丈夫だって。じゃ、明日がんばれよ!」
暁良に手を振って、俺は教室へ引き返した。
その途中、隣のクラスに櫂がいるのを見つけた。
窓際の席にひとりで座って、ぼんやりと窓の外を眺めているように見える。
声をかけようか、迷った。明日の大会前に、一言でいいからがんばれと伝えたい。
教室に入る。櫂はまだ気づいていない。
よく見ると、イヤホンをつけている。めずらしいな、と思った。あいつがすぐに練習に行かないで、こんなふうにぼうっとしているなんて。
「櫂」
気づいたら、名前を呼んでいた。
櫂の肩が、びくっと跳ねた。イヤホンを引き抜いて、こっちを見る。机に置かれたスマホの画面が、ちらりと目に入った。
再生中の、音声ファイル。
表示されたファイル名と画像に、見覚えがあった。何年も前に俺が録って送った、あの曲。
胸の奥が、ぎゅっと掴まれたみたいになった。
なんだよ。ちゃんと、まだ持ってるじゃん、櫂。俺の応援、嫌になったわけじゃないのかよ。
「櫂、それ」
言いかけると、櫂ははっとしたようにスマホに視線を向けて、乱暴にそれを伏せた。証拠を隠すみたいに。でも、もう遅い。
「聞いてたんだろ、俺の」
嬉しい。どうしようもなく、嬉しい。櫂が、レースの前に俺の曲を聴いてくれた。
胸が熱くなって、止められなくて、俺はつい昔みたいに近づいて身を乗り出した。
「消さないで持っててくれたんだ、それ。へたくそすぎて恥ずかしいんだけど、でも……へへ、嬉しい」
櫂は、乱暴に目を逸らす。耳が、少し赤い。
「……野球部の試合は、どうだったんだよ」
動揺を隠すみたいな、ぶっきらぼうな声で言う。
なんだよ、それ。照れてるのか? 可笑しくて、俺は笑顔を隠すことができない。
「楽しかったよ。スタンドで吹くの、最高だった。やっぱ応援って、いいな」
言いながら、ふと思い出す。
「あ、一組の小田原って知ってる? 野球部の。あいつがさ、俺の――」
「その話、やめろ」
櫂が急に立ち上がって、椅子が大きな音を立てる。俺は、その言葉を最後まで言えなかった。
「……頼むから」
低く、押し殺すような声だった。
え、と思った瞬間に、櫂の大きな手が、俺の手首を掴んだ。
強い力だった。とっさに振り払えないくらいの。でも、それは決して乱暴なものじゃなくて――まるで、溺れている子どもが必死で縋り付くような、切羽詰まった熱を帯びていた。
顔を上げると、すぐ近くに櫂の顔があった。
その瞳が、見たことのない色をしている。怒っているのとも違う、困っているのとも違う――俺の知らない、櫂。
息がかかるくらいの距離。体をぶつけあうみたいにしてじゃれ合っていたころもあったのに、こんなに近くで、櫂を見たことなんてなかった。格闘ごっこをした幼稚園のときも、自転車の二人乗りをした中学生のときも――
櫂の顔が、唇が、近づいてくる。
心臓が大きく跳ねた。声を出そうとしても、唇が動かない。
息が触れ合うほどの距離で、櫂は止まった。
「か、櫂……」
櫂は苦しそうに顔を歪めて、掴んでいた手首から弾かれたように手を離した。そのまま乱暴にスマホとスポーツバッグを掴むと、何も言わずに早足で教室を出ていった。
俺は、その背中に声をかけることも、追うことも、できなかった。
「な……んなんだよ……」
ようやく絞り出した声は、情けないほど震えていた。
手首には、まだ櫂の熱い手の感触が残っていた。
「昨日の試合、うちの親父がテレビ見て大興奮してたよ」
「エースが絶好調だからな。あと、組み合わせが神だったなー。くじ引きした部長に感謝よ」
暁良は、飄々と笑っている。
「そういえば、吹部もコンクールとかあるんじゃねえの? こっちの応援なんか来てて、大丈夫なのかよ」
暁良が、ふと思いついたように聞いてきた。
「あー、うちは出ないんだ、コンクール」
「そうなん?」
「人数も少ないしさ。うちの部、コンクールとかで賞狙うっていうより、演奏会とか、地域のイベントとか、そういうのをメインにやる方針なんだ」
「へえ」
暁良は、少し意外そうに、でも面白がるように笑った。
「いいな、そういうの。うちなんか、勝つか負けるかしかねえもん」
「それはそれで、かっこいいけどな」
暁良は話しやすい奴だった。だからつい調子に乗って、櫂のことまで喋ってしまった。水泳をやっていて、昔からずっと応援してきた友人がいること。
「平野櫂……ああ、二組の。背高くて、ちょっと怖そうなやつだ」
「怖そうって、よく言われるんだよなー、あいつ」
俺は、つい笑ってしまう。
「口数少ないし、表情も硬いけど。……俺、子どものころプールが苦手でさ。スクールに通ってるのに全然泳げなくて、みんなに笑われたりもしたんだけど、あいつは一度もからかったりしなかったんだ。へたくそな俺のトランペットも、ずっと聞いてくれて」
気がつけば、そんなことを結構な熱量で喋っていた。
「すげー語るな、お前」
暁良が、にやにやと面白そうに俺を見ている。
「え? あ、ごめん! つい……」
「いいっていいって。幼馴染かー、ちょっと憧れるな、そういうの」
俺はできれば可愛い女子がいいけど、と暁良はいたずらっぽく笑う。
「で、そいつの大会も明日なの?」
「うん。会場遠いし、俺は野球の応援があるから、たぶん行けないけど」
「え、それ行かなきゃだろ」
「……まあ、うん、行けたら」
俺は、曖昧に笑ってごまかした。
暁良は、一瞬、何か言いたそうにこっちを見たけれど、それ以上は聞かなかった。そういうところが、こいつの、いいところなのかもしれない。
「じゃ、俺そろそろ部活――あ」
「ん?」
「やべ、教室に楽譜忘れた」
「町谷ー。明日の本番で忘れんなよ?」
「大丈夫だって。じゃ、明日がんばれよ!」
暁良に手を振って、俺は教室へ引き返した。
その途中、隣のクラスに櫂がいるのを見つけた。
窓際の席にひとりで座って、ぼんやりと窓の外を眺めているように見える。
声をかけようか、迷った。明日の大会前に、一言でいいからがんばれと伝えたい。
教室に入る。櫂はまだ気づいていない。
よく見ると、イヤホンをつけている。めずらしいな、と思った。あいつがすぐに練習に行かないで、こんなふうにぼうっとしているなんて。
「櫂」
気づいたら、名前を呼んでいた。
櫂の肩が、びくっと跳ねた。イヤホンを引き抜いて、こっちを見る。机に置かれたスマホの画面が、ちらりと目に入った。
再生中の、音声ファイル。
表示されたファイル名と画像に、見覚えがあった。何年も前に俺が録って送った、あの曲。
胸の奥が、ぎゅっと掴まれたみたいになった。
なんだよ。ちゃんと、まだ持ってるじゃん、櫂。俺の応援、嫌になったわけじゃないのかよ。
「櫂、それ」
言いかけると、櫂ははっとしたようにスマホに視線を向けて、乱暴にそれを伏せた。証拠を隠すみたいに。でも、もう遅い。
「聞いてたんだろ、俺の」
嬉しい。どうしようもなく、嬉しい。櫂が、レースの前に俺の曲を聴いてくれた。
胸が熱くなって、止められなくて、俺はつい昔みたいに近づいて身を乗り出した。
「消さないで持っててくれたんだ、それ。へたくそすぎて恥ずかしいんだけど、でも……へへ、嬉しい」
櫂は、乱暴に目を逸らす。耳が、少し赤い。
「……野球部の試合は、どうだったんだよ」
動揺を隠すみたいな、ぶっきらぼうな声で言う。
なんだよ、それ。照れてるのか? 可笑しくて、俺は笑顔を隠すことができない。
「楽しかったよ。スタンドで吹くの、最高だった。やっぱ応援って、いいな」
言いながら、ふと思い出す。
「あ、一組の小田原って知ってる? 野球部の。あいつがさ、俺の――」
「その話、やめろ」
櫂が急に立ち上がって、椅子が大きな音を立てる。俺は、その言葉を最後まで言えなかった。
「……頼むから」
低く、押し殺すような声だった。
え、と思った瞬間に、櫂の大きな手が、俺の手首を掴んだ。
強い力だった。とっさに振り払えないくらいの。でも、それは決して乱暴なものじゃなくて――まるで、溺れている子どもが必死で縋り付くような、切羽詰まった熱を帯びていた。
顔を上げると、すぐ近くに櫂の顔があった。
その瞳が、見たことのない色をしている。怒っているのとも違う、困っているのとも違う――俺の知らない、櫂。
息がかかるくらいの距離。体をぶつけあうみたいにしてじゃれ合っていたころもあったのに、こんなに近くで、櫂を見たことなんてなかった。格闘ごっこをした幼稚園のときも、自転車の二人乗りをした中学生のときも――
櫂の顔が、唇が、近づいてくる。
心臓が大きく跳ねた。声を出そうとしても、唇が動かない。
息が触れ合うほどの距離で、櫂は止まった。
「か、櫂……」
櫂は苦しそうに顔を歪めて、掴んでいた手首から弾かれたように手を離した。そのまま乱暴にスマホとスポーツバッグを掴むと、何も言わずに早足で教室を出ていった。
俺は、その背中に声をかけることも、追うことも、できなかった。
「な……んなんだよ……」
ようやく絞り出した声は、情けないほど震えていた。
手首には、まだ櫂の熱い手の感触が残っていた。
