この音が恋になるまで

 翌日に関東大会を控え、水泳部の練習はもう軽い調整とミーティングだ。そろそろ行かなければならない。そう思いながら、俺は窓際の席に座ったまま、ぼんやりスマホを手にしていた。
「昨日の野球の試合、すごかったらしいな」
 後ろで、帰り支度をするクラスメートの声がする。
「すげーよな、明日勝てばベスト8だっけ?」
「動画見たけど、吹部の応援席かなり盛り上がってたよ」
「いいよなー、野球部は応援あって。めざせ甲子園! って感じするもんな」
 聞くつもりはなかったのに、その言葉が耳に残った。
 教室からざわめきが消える。俺も練習に行かないと。立ち上がりかけたとき、教室の窓の向こうに見慣れた黒い楽器ケースが目に入った。
 芽吹だった。
 隣には、野球部の練習着姿の男がいる。男が何か言うと、芽吹が笑った。
 遠くて、声までは聞こえない。それでも、ふたりが楽しそうなのはわかった。
 明日の試合も行くのだろう。芽吹はまた、スタンドでトランペットを吹く。選手たちが打てるように。勝てるように。
 応援はいらないと言ったのは、俺だ。なのに、胸の奥がひどく重くて、息苦しい。
 すぐには教室を出たくなくて、机の上のスマホを手に取る。
 何度も開いたフォルダのなかから、古い音声ファイルを選ぶ。イヤホンを片耳に突っ込んで、再生ボタンを押した。
『録れてる? いくぞー』
 もう何度も聞いた、中学生の芽吹の声。続いて、トランペットの音色。
 この音は、最初から俺のものじゃない。そんなの、わかっている。
 それでも、これは――この曲だけは、俺ひとりに向けられていたものだと思いたい。
 机に頬杖をついて、目を閉じる。
 胸に沈んだ澱は消えない。でも、停止ボタンは押せなかった。