この音が恋になるまで

 野球部の応援が決まったこと。そして、久しぶりに櫂と話せたこと。
 そのふたつだけで、部室に向かう足取りが、自分でもおかしいくらい軽かった。
 音楽室への階段を駆け上がる途中、ふいにさっきの櫂の姿が頭に浮かんだ。
 濡れた前髪。首にかけたブルーのタオル。近づいたとき、かすかに感じたプールのにおい。スイミングスクールの帰りに何度も感じた、懐かしいにおいだった。でも、いまは昔みたいに肩を叩けない。
 濡れた髪を拭いていた櫂の腕は、ランニングで日に焼けて、俺の知っているそれより、ずっとしっかりしていた。タオルを動かすたび、水泳選手らしい筋肉のついた肩のあたりが動くのが、白いTシャツの上からでもわかった。小学生のころは、あんなに上手に泳ぐ櫂だって、俺と同じ小さな子どもだったのに。いつのまに、こんな。
 ――いや、なにを考えてたんだろう、俺は。どうして、あんなに緊張したんだろう。
 多分、最近ずっと気まずかったから、距離の取り方がわからなかっただけだ。そうに決まっている。
 それよりも――野球部の応援に行くことを、櫂は「良かったな」と言ってくれた。
 櫂は、お世辞を言ったり、興味のないことに話を合わせたりするようなやつじゃない。言葉は少なくても、いつも本当のことを言ってくれる。
 素っ気ない声だったけど、久しぶりに昔と同じように話せた。いまの俺には、それだけで十分だった。
 
 ◇

「はい、これ応援曲の楽譜ね。急で大変かもだけど、野球部も盛り上がってるから、精いっぱいやりましょう」
 部長が、コピーしたての楽譜を配っていく。受け取ると、まだ印刷の熱が残っていた。
 定番の応援曲がふたつと、最近のJーPOPのアレンジがひとつ。譜読みは得意なほうじゃないけど、どれも短くて、耳にしたことがある曲だ。これならきっと間に合わせられる。
 演奏できるのはもちろん嬉しい。試合をすぐそばで見て、選手に音を届けられることも、考えるだけでドキドキした。
 子どものころ、夏になると、父さんはよくテレビで高校野球を見ていた。画面越しに伝わるスタンドの熱気。腹の底に響くような太鼓。チアが弾ませるカラフルなポンポン。そして、まっすぐ突き抜けていくトランペットの音。あのなかに、自分が入れるんだ。
 マウスピースを、唇に当てる。
 俺はきっと、こういうのが好きなんだ。コンクールで入賞を目指すとか、上手なソロを吹くとか、そういうことよりも、誰かに届けるための音を出すこと。中学で吹奏楽を始めたときから、たぶんずっと、そうだった。
 だから、野球部の応援も、絶対にいい音を届けたい。
「よし」と小さく気合を入れると、俺は最初の一音に息を入れた。