この音が恋になるまで

 大会前の調整で練習を早めに切り上げ、教室へ忘れ物を取りに戻る途中だった。
「櫂!」
 名前を呼ばれて振り向くと、芽吹が廊下の向こうから走ってきた。肩には楽器ケースをかけている。
 少し手前まで来たところで足を止め、息を切らして見上げてくる。切ったばかりなのか、少し短くなった髪が、走ってきた勢いでまだ揺れている。癖のある、やわらかい毛先。
 芽吹の視線がじっと俺の顔――いや、正確には、俺の目より少し上を見ていた。濡れたままの髪に何かついているのかと思い、首にかけたタオルで乱暴に拭う。
「……何?」
「え? あ、いや」
 芽吹は慌てたように視線を泳がせて、小さく咳払いをした。
「聞いた? 野球部が三回戦勝ったんだって!」
「へえ」
 予想外の話題に、気の抜けた声が出てしまう。お前、野球にそんなに興味あったっけ。そう思ったけれど、口には出さなかった。
 夏のこの時期はどの部も大会続きで、正直、他の部の試合結果まで追ってはいない。
 それよりも――ついこの間、プールの誘いを、にべもなく断ったばかりだ。あんなに冷たくしたのに、芽吹は何事もなかったみたいに、また笑いかけてくる。
 そんなふうにされたら、どんな顔をすればいいのかわからなくなる。
 俺は、曖昧にうなずいた。
「……それで?」
「次勝ったら、創部初のベスト16なんだってさ。学校もなんかすっごい盛り上がってるらしくて――それで、吹奏楽部が応援に行くことになったんだ」
 芽吹は肩にかけた楽器ケースを、持ち上げてみせた。
「全員じゃないんだけどさ、有志で。俺、速攻で手上げちゃった」
「……そうか」
「昔、父さんとテレビで甲子園見て、憧れてたんだよな。スタンドで応援曲吹くの。これから猛練習」
「良かったな」
「うん」
 そう言って歯を見せる芽吹は、本当に嬉しそうだった。子どもみたいに、隠しごとのできない笑い方。昔から、俺はこの笑顔に弱いことを思い出した。
 芽吹は楽器ケースを背負い直した。
「じゃあ、練習行ってくる。櫂も、大会まで無理すんなよ」
「ああ」
「またな」
 芽吹が、軽く手を振ってから背を向けた。
 あんな嬉しそうな顔の芽吹、久しぶりに見た。
 よかったな。ああやって、嬉しそうに笑っている姿が好きだと、素直にそう思う。
 その一方で、みぞおちのあたりが重く沈むような感覚があった。
 俺には応援はいらないと自分で言ったんだ。あいつがどこで、誰のために吹こうと、俺には関係ない。
 拳を固く握りしめる。
 それは、名前を付けたくない感情だった。
 練習は終わったのに、いますぐ水のなかに飛び込みたかった。あそこなら、何も聞こえない。
 あいつの音も、このみっともない胸の音も。