この音が恋になるまで

 県総体から半月が過ぎても、俺は自分の結果を受け入れられずにいた。
 スマホの画面には、何度見ても変わらない文字が並んでいる。
『県総体、競泳男子200メートル自由形、二位。平野櫂』
 何度見たって変わらないのに、自分の名前の隣に並んだ順位とタイムを、あの日から何度も見返している。そして、同じ痛みを味わっている。
 また優勝を逃した。ずっとライバルだと言われ続けている、他校のエースに負けた。差は、コンマ数秒。関東への切符は手に入れたとはいえ、自己ベストには二秒近く届かなかった。
 次の関東大会で標準記録を切らなければ、インターハイには行けない。
 去年も、あと一歩で逃した。今年こそ、と思っていた。それなのに――この調子で、標準記録なんて切れるのか。
「平野ー、俺、職員室寄ってから部室行くわ」
「ああ。後で」
 そう言って教室を出ていく水泳部員に、短く応じる。
 誰もいなくなった教室で、俺は、スマホの画面を閉じた。そのまま、指が、勝手にメッセージアプリを開いている。
『おめでとう! 動画見た! 関東決まったんだろ、すごい! 次もがんばれ!』
 芽吹からの、カラフルなスタンプが並ぶメッセージ。
 直接礼を言えたのは、芽吹が渡り廊下で声をかけてきたときだった。久しぶりに目にした、芽吹のトランペットケース。
 あのとき、芽吹はプールに誘ってくれた。昔みたいに遊びに行こうと。とっさに、無理だ、と言ってしまった。
 本当は、嬉しかった。こんなふうに距離を置いてしまった俺に、昔と同じように笑いかけてくれることが。
 でも、いまの芽吹の隣で、同じように笑っていられる自信が――水のなかではしゃぐ芽吹を、昔と同じ目で見られる自信が、俺にはなかった。
 俺にとってあいつは、ただ楽しく笑い合っているだけの幼馴染じゃない。
 ――いつから、あいつをこんな目で見るようになってしまったんだろう。
 
 芽吹との思い出を振り返るとき、最初に浮かぶのはスイミングスクールの帰り道だ。
 夏の日、スクールバスの窓に西日が差していて、心地よい疲労とバスの振動が眠りを誘う。芽吹はいつも眠そうにしていて、ときどき俺の肩に凭れて眠ってしまった。
 肩に感じる体温と、乾ききっていない髪の、プールのにおい。
 その重みとぬくもりを、もう少しだけ感じていたい。そんなことを思いながらバスに揺られていたことを、いまも覚えている。
 家の近くの停留所で、ちょっと乱暴に肩をゆすって、「ほら、降りるぞ」と起こしてやって。
 あのころから、芽吹のとなりにいるのは自分の役目だと思っていた。それを友情と呼ぶのだと、ずっと思っていた。
 中学に入ると、俺は迷わず水泳部へ、芽吹は念願の吹奏楽部に入部した。
 音楽のことはよくわからなかったけれど、あいつが何かに夢中になっている姿は、まぶしかった。
 ある日、芽吹が「やっと一曲を通して吹けるようになった」と、短い練習曲を得意げに聞かせてきた。名前も知らない曲。
「その曲いいな、なんか勇ましくて」と何気なく言った。すると芽吹は目を輝かせて、「じゃあ、これをお前専用の応援曲にしてやる」なんて言い出した。
 嬉しそうな芽吹の顔を見ていたら、「恥ずかしいからやめろ」なんて言葉は自然と消えた。
 それからずっと、俺の大会の朝には、あいつの音があった。それは、ほかの誰との間にもない、ふたりだけの約束のようで、照れくさくて、くすぐったかった。口には出せなかったけれど、嬉しかったんだと思う。
 それが、ただの友情ではなくなったのは、高一の夏だ。
 いつものように俺の部屋で曲を吹き終えた芽吹が、俺のベッドに腰を下ろして、秋の演奏会について話していた。
『短いけど、ソロパートもあってさ……やばい、もう緊張してきた』
 膝の上に置かれたトランペットに、芽吹の手が添えられている。
 ピストンに乗せられた指が、ときおり無意識のように小さく動く。何かのメロディをなぞっているのか、トントンと。
 あまり日に焼けてない長い指。短く、きれいに切りそろえられた爪。
 その手が、あの音を出すのだ。何年も俺だけに届けてくれた、あの音を。
 そう思った瞬間、その指先や、トランペットを吹いたばかりの濡れた唇から、目が離せなくなった。
 かわいい、とか、触れてみたい、とか、いままで一度も抱いたことのない感情が、急にせり上がってきた。
 芽吹は、そんな俺の動揺には気づく様子もない。そのまっすぐな目は、すっかり昔からの友人を信頼しきったものだ。
 そんな芽吹に対して、俺は――
『櫂、聞いてる?』
『え? ああ、なんだっけ』
『演奏会! 見に来てくれるよな』
『……暇だったらな』
『えー、なんだよそれ。特等席で聞いててよ』
 そんな風に言いながら、「ちょっと寝てから帰ろっかな」なんて言って、芽吹はベッドに寝転がった。そのとき俺は、その無防備な横顔や投げ出された手足に、絶対に本人には言えないような想像をしていた。
 こんな目で見ていることを知られたら、軽蔑される。いまの関係が壊れる。それは絶対に嫌だった。
 だから俺は、その感情に名前をつけないことにした。考えないように、直視しないようにして、水泳に没頭した。適切な距離さえ保っていれば、こんな気持ちはそのうち消える。そう思っていた。
 ――消えるはずなんて、なかった。
 高二に進級して最初の記録会で、ひどい成績を出した。レースのあと、芽吹はあいつなりに俺を励まそうとしてくれた。それがわかるからこそ、余計に苦しかった。こんな情けない姿を見せたくなかった。芽吹だからこそ、失望されたくなかった。ほかの誰の前で負けるより、芽吹の音に、応援に、応えられない自分が許せなかった。
 だから、言った。
 
 ――芽吹、もう応援に来なくていいから。
 
 あいつがどんな顔をするか、わかっていた。それでも、言葉を止められなかった。
 レースに集中するためだ。そう、自分に言い聞かせた。
 お互いに避けていれば、顔を合わせることもなくなる。
 家が隣同士でも、夕飯を一緒に食べることはなくなったし、鉢合わせしないよう、家を出る時間もずらした。学校で話しかけられても、曖昧にごまかして、逃げた。
 隣を歩くとき、いつも芽吹がいた左側が、ひどくさみしかった。自分で空けたくせに。
 もう何年も前に芽吹が送ってくれた演奏の録音データが、俺のスマホに残っている。
 再生ボタンを押すと、『録れてる? いくぞー』と、いまよりも少し幼い芽吹の声のあと、トランペットの音が流れ出す。ところどころ音が外れているし、息継ぎも危なっかしい。一分にも満たない、短い曲。俺はずっと、このメロディが好きだった。
 でも、もう。
 最後まで聞かないうちに、止めた。これはもう、俺のものじゃない。自分で手を放したんだから。