県総体から、数日が過ぎた。
櫂の出場したレース――男子200メートル自由形は、授業の合間に動画で見た。順位は、二位。その横に表示されたタイムが、数字として速いのか、俺にはよくわからない。でも、これで来月の関東大会に出られることを知って、俺はほっと胸をなでおろした。
おめでとう、次もがんばれ、と送ったメッセージに返ってきたのは、『どうも』という短い返信だけだった。
――なんだよ、もっとなんかあるだろ。
そう思いながら、俺は何度もそのレース動画を再生した。
昔、水族館のイルカみたいだと思った、きれいな泳ぎ。それは、いまも変わらないはずなのに。
画面の櫂は、どこかぎこちなくて、まるで水と戦っているように見えた。気のせいかもしれない。でも、ずっと見てきた俺には、そう見えた。
その日の放課後、音楽室に向かう途中の渡り廊下で、櫂を見かけた。白いワイシャツの肩にいつものスポーツバッグをかけて、ひとりで歩いている。
「櫂!」
声をかけると、櫂は足を止めた。
「県総体、おめでとう。次、関東大会だろ」
「……ああ」
会話が続かない。前はこんなんじゃなかったのに。沈黙が怖くて、俺はつい早口になった。
「練習大変そうだな。最近ずっと遅くまでやってるだろ」
「まあ」
櫂は、ポケットに手を突っ込んだまま、目を合わせない。早く、この会話を終わらせたい――そんなふうに見えて、俺は焦った。
このまま行かせたら、また、前みたいに、口をきけない日々に戻ってしまう。
何か、何かないか。櫂と、つながっていられる方法。――そうだ。応援はだめでも、昔みたいに遊ぶくらいなら、櫂も乗ってくれるかもしれない。
「あのさ、今度、息抜きに市民プールでも行かない? ガチで泳ぐんじゃなくて遊びでさ、俺、久しぶりだから泳げるかどうかわかんないけど、溺れたら櫂が助けてくれるし――」
「無理だ」
「……っ」
喉の奥が、ぎゅっと詰まった。
「あ、えっと……」
うまく言葉が出てこない。櫂が、気まずそうに目を伏せた。
「……ごめん、俺と遊んでる暇なんてないよな、いま」
なんとか笑顔を作る。そう言うのが精一杯だった。
「芽吹」
櫂が、何か言いかける。口を開いて、でも、その続きが言葉になる前にぐっと閉じた。バッグのショルダーベルトを握る手に、力がこもったのが見えた。
「……悪い。じゃあ」
櫂は短くそう言うと、背を向けて早足に歩き出す。
「あ、うん。練習、がんばれよ」
そう言った俺の声が聞こえたかどうかはわからない。
その背中が角を曲がって見えなくなるまで、俺はその場に立っていた。
――いつから、こんなふうになってしまったんだろう。
あれは、高一の夏ごろだった。大会の朝、いつものように櫂の部屋で応援の演奏をしたあと、櫂が急によそよそしい態度になった。曲を吹き終えても、「どうも」とも「へたくそ」とも言わなかった。ただ、窓の外を見たまま、俺と目を合わせようとしなかった。それまでは、曲を聞いたあと、短くても何かを言ってくれたのに。
俺、なんか変なことした? そう聞いても答えてくれない。
その日のレースで、櫂は三位に入賞した。「すごいだろ」なんて言わないのはいつものことだけど、レースのあとの櫂はひどく素っ気なかった。それに、水泳部のやつらが『なんか櫂、いつもと感じ違ったな』と話しているのを耳にした。
それからも、記録会や大会のたびに、俺は櫂の部屋に押しかけてあの曲を吹いた。でも、櫂の反応はぎこちないままだった。拒絶はしない。でも、反応もしない。
もしかして、高校生にもなってこんなガキっぽいこと、もうやめてほしいのかな、と、俺はだんだん不安になった。
秋ごろからはタイムも伸びなくなった。どこかを怪我したわけではない。スランプなのかな、と心配しながら、俺は見守ることしかできなかった。
そして、高二に進級して、最初の記録会。
自己ベスト更新も入賞も逃してうつむいた櫂を見守るのは、自分が演奏会でミスをしたときよりも苦しい気がした。
レースのあとの帰り道、なんて声をかけたらいいかわからなくて、それでも何か励ましたくて、俺は櫂の背中に声をかけた。
俺のへたくそな慰めの言葉を黙って聞いたあと、櫂は言った。
――もう応援に来なくていいから。
どうして、と聞きたかった。でも、それより先に、やっぱり迷惑だったんだ、と思い知らされた気がして、何も言えなかった。
眉間を寄せて、でも、こっちを見られないみたいに目を伏せた、櫂の顔。怒っているんじゃない。櫂のほうが、何かに耐えているみたいだった。そんな表情を見たら問い詰めることもできなくて、俺は「わかった」と言うしかなかった。
こうして、櫂の大会の朝に、俺がトランペットを吹くことはなくなった。
それだけじゃない。
朝、櫂が学校に出かける時間が、いつのまに早くなっていた。別に約束していたわけじゃないけど、朝練のない日は一緒だった登校も、なくなった。昼休みも、放課後も、櫂の姿を見かける回数がめっきり減った。避けられているのは、明らかだった。
一度だけ、櫂の腕を掴んで問い詰めたことがある。
「なんでだよ。俺、何かした? ちゃんと言ってくれよ」
食い下がる俺に、櫂はひどく困った顔をして、「何でもない」としか言わなかった。
何でもないわけないだろ。こんなに一緒にいたのに、急にそんな態度を取られて納得できるわけない。
でも、そのときの櫂の表情が、あまりにも苦しそうで。
俺が近づけば近づくほど、櫂を追い詰めてるみたいだ。そう思うと、俺はそれ以上、聞くことができなかった。
クラスが違うから、学校にいても会う機会は多くない。廊下ですれ違うときも、すぐに目を逸らされてしまう。さすがの俺も、能天気に話しかけることもできなくなって、いつのまにか、櫂とのあいだには距離ができていた。
もう俺とはしゃべりたくないのかな。もしかしたら、俺といるより楽しいことができたのかも。
重い足取りで音楽室の扉を開ける。
四階にあるこの部屋の窓からは、校舎横の屋外プールが見下ろせる。
俺は無意識に、プールサイドに櫂の姿を探していた。
マネージャーの女の子と、何か話している。その表情はここからじゃよく見えない。
もしかして、好きな子ができたのかな。彼女、とか。
そう思った瞬間、胸の奥の触れない部分がずきずきと痛むような感じがした。
なんだよ、これ。幼馴染に彼女ができるとか、普通にあることなのに。
そんなことを考えている自分が嫌になって、俺は窓から目を逸らした。
櫂の出場したレース――男子200メートル自由形は、授業の合間に動画で見た。順位は、二位。その横に表示されたタイムが、数字として速いのか、俺にはよくわからない。でも、これで来月の関東大会に出られることを知って、俺はほっと胸をなでおろした。
おめでとう、次もがんばれ、と送ったメッセージに返ってきたのは、『どうも』という短い返信だけだった。
――なんだよ、もっとなんかあるだろ。
そう思いながら、俺は何度もそのレース動画を再生した。
昔、水族館のイルカみたいだと思った、きれいな泳ぎ。それは、いまも変わらないはずなのに。
画面の櫂は、どこかぎこちなくて、まるで水と戦っているように見えた。気のせいかもしれない。でも、ずっと見てきた俺には、そう見えた。
その日の放課後、音楽室に向かう途中の渡り廊下で、櫂を見かけた。白いワイシャツの肩にいつものスポーツバッグをかけて、ひとりで歩いている。
「櫂!」
声をかけると、櫂は足を止めた。
「県総体、おめでとう。次、関東大会だろ」
「……ああ」
会話が続かない。前はこんなんじゃなかったのに。沈黙が怖くて、俺はつい早口になった。
「練習大変そうだな。最近ずっと遅くまでやってるだろ」
「まあ」
櫂は、ポケットに手を突っ込んだまま、目を合わせない。早く、この会話を終わらせたい――そんなふうに見えて、俺は焦った。
このまま行かせたら、また、前みたいに、口をきけない日々に戻ってしまう。
何か、何かないか。櫂と、つながっていられる方法。――そうだ。応援はだめでも、昔みたいに遊ぶくらいなら、櫂も乗ってくれるかもしれない。
「あのさ、今度、息抜きに市民プールでも行かない? ガチで泳ぐんじゃなくて遊びでさ、俺、久しぶりだから泳げるかどうかわかんないけど、溺れたら櫂が助けてくれるし――」
「無理だ」
「……っ」
喉の奥が、ぎゅっと詰まった。
「あ、えっと……」
うまく言葉が出てこない。櫂が、気まずそうに目を伏せた。
「……ごめん、俺と遊んでる暇なんてないよな、いま」
なんとか笑顔を作る。そう言うのが精一杯だった。
「芽吹」
櫂が、何か言いかける。口を開いて、でも、その続きが言葉になる前にぐっと閉じた。バッグのショルダーベルトを握る手に、力がこもったのが見えた。
「……悪い。じゃあ」
櫂は短くそう言うと、背を向けて早足に歩き出す。
「あ、うん。練習、がんばれよ」
そう言った俺の声が聞こえたかどうかはわからない。
その背中が角を曲がって見えなくなるまで、俺はその場に立っていた。
――いつから、こんなふうになってしまったんだろう。
あれは、高一の夏ごろだった。大会の朝、いつものように櫂の部屋で応援の演奏をしたあと、櫂が急によそよそしい態度になった。曲を吹き終えても、「どうも」とも「へたくそ」とも言わなかった。ただ、窓の外を見たまま、俺と目を合わせようとしなかった。それまでは、曲を聞いたあと、短くても何かを言ってくれたのに。
俺、なんか変なことした? そう聞いても答えてくれない。
その日のレースで、櫂は三位に入賞した。「すごいだろ」なんて言わないのはいつものことだけど、レースのあとの櫂はひどく素っ気なかった。それに、水泳部のやつらが『なんか櫂、いつもと感じ違ったな』と話しているのを耳にした。
それからも、記録会や大会のたびに、俺は櫂の部屋に押しかけてあの曲を吹いた。でも、櫂の反応はぎこちないままだった。拒絶はしない。でも、反応もしない。
もしかして、高校生にもなってこんなガキっぽいこと、もうやめてほしいのかな、と、俺はだんだん不安になった。
秋ごろからはタイムも伸びなくなった。どこかを怪我したわけではない。スランプなのかな、と心配しながら、俺は見守ることしかできなかった。
そして、高二に進級して、最初の記録会。
自己ベスト更新も入賞も逃してうつむいた櫂を見守るのは、自分が演奏会でミスをしたときよりも苦しい気がした。
レースのあとの帰り道、なんて声をかけたらいいかわからなくて、それでも何か励ましたくて、俺は櫂の背中に声をかけた。
俺のへたくそな慰めの言葉を黙って聞いたあと、櫂は言った。
――もう応援に来なくていいから。
どうして、と聞きたかった。でも、それより先に、やっぱり迷惑だったんだ、と思い知らされた気がして、何も言えなかった。
眉間を寄せて、でも、こっちを見られないみたいに目を伏せた、櫂の顔。怒っているんじゃない。櫂のほうが、何かに耐えているみたいだった。そんな表情を見たら問い詰めることもできなくて、俺は「わかった」と言うしかなかった。
こうして、櫂の大会の朝に、俺がトランペットを吹くことはなくなった。
それだけじゃない。
朝、櫂が学校に出かける時間が、いつのまに早くなっていた。別に約束していたわけじゃないけど、朝練のない日は一緒だった登校も、なくなった。昼休みも、放課後も、櫂の姿を見かける回数がめっきり減った。避けられているのは、明らかだった。
一度だけ、櫂の腕を掴んで問い詰めたことがある。
「なんでだよ。俺、何かした? ちゃんと言ってくれよ」
食い下がる俺に、櫂はひどく困った顔をして、「何でもない」としか言わなかった。
何でもないわけないだろ。こんなに一緒にいたのに、急にそんな態度を取られて納得できるわけない。
でも、そのときの櫂の表情が、あまりにも苦しそうで。
俺が近づけば近づくほど、櫂を追い詰めてるみたいだ。そう思うと、俺はそれ以上、聞くことができなかった。
クラスが違うから、学校にいても会う機会は多くない。廊下ですれ違うときも、すぐに目を逸らされてしまう。さすがの俺も、能天気に話しかけることもできなくなって、いつのまにか、櫂とのあいだには距離ができていた。
もう俺とはしゃべりたくないのかな。もしかしたら、俺といるより楽しいことができたのかも。
重い足取りで音楽室の扉を開ける。
四階にあるこの部屋の窓からは、校舎横の屋外プールが見下ろせる。
俺は無意識に、プールサイドに櫂の姿を探していた。
マネージャーの女の子と、何か話している。その表情はここからじゃよく見えない。
もしかして、好きな子ができたのかな。彼女、とか。
そう思った瞬間、胸の奥の触れない部分がずきずきと痛むような感じがした。
なんだよ、これ。幼馴染に彼女ができるとか、普通にあることなのに。
そんなことを考えている自分が嫌になって、俺は窓から目を逸らした。
