目が覚めると、天井の照明がぼやけて見えた。
夢を見ていたんだ、と気づくのに少し時間がかかった。喉の奥が、変な感じに渇いている。スイミングスクールの練習のあとみたいだ。もう何年も前に辞めたのに。
壁の時計は、六時前を示している。薄いブルーのカーテンの隙間から、太陽の光が差し込んでいた。もうすっかり夏の温度を帯びた光が、フローリングの床に白い線を引いている。
のろのろと体を起こして、窓に近づく。二階にある俺の部屋の窓からは、隣の家――櫂の家の玄関先が見える。子どものころから見慣れた眺めだ。
カーテンを小さくめくると、ちょうど玄関のドアが開いて、人影が出てきた。
櫂だった。
黒いスポーツバッグを肩にかけて、玄関脇に置いた自転車を押して道路に出る。
あのバッグの中身は、見なくてもわかる。水着、ゴーグル、キャップ、それからタオル。
今日は、県総体だ。水泳部にとって、夏のいちばん大きな大会の、予選。
櫂があのバッグを持って出ていく朝を、俺は何度も見てきた。そして、その背中に「いってらっしゃい」を言うのが、俺の役目だった。今年の春までは。
いつのまにか、背がずいぶん伸びたなあと思う。小学生のころは、背の順でいつも前後だったのに。いまでは、並んで歩くと、俺の視線は少し上を向くようになって久しい。短い黒髪の一部が、寝癖でぴょんとはねているのが見えた。
もしかしたら、こっちに気づいてくれないかな。そんなわずかな期待をあっさり裏切って、櫂は自転車にまたがり、坂の下へ消えていった。
坂へ曲がる直前、櫂が一度だけ、俺の部屋の窓を振り返った気がしたけど――気のせいだろう。
俺はカーテンを閉めて、もう一度ベッドに寝転がった。
ベッドの脇に、トランペットのケースが置いてある。腕を伸ばして、でも、指が触れる手前で止まった。
伸ばした手を、ゆっくり引っ込める。行き場をなくした手のひらが、シーツの上に落ちた。
◇
「あら、芽吹くん、おはよう」
玄関を出ると、ちょうど櫂のお母さんが出てきた。白いブラウスに、肩には通勤用のバッグ。仕事に行くところらしい。
「おはようございます。櫂、今日県総体ですよね」
「そうなのよ。去年からずっと、調子が出ないみたいなこと言ってたけど……どうなのかしらねえ」
頬に手を当てて、少し困ったように笑う。
「櫂なら大丈夫ですよ」
「いつも応援ありがとね、芽吹くん」
「いえ……」
俺は曖昧に笑ってそう応えることしかできなかった。
櫂との付き合いは、幼稚園時代までさかのぼる。
家が隣同士で、母さんたちが仲良くて、同じ幼稚園で――一緒に遊ぶようになるのは自然な流れだった。
「あんたが静かなのは、寝てるときと食べてるときだけね」と母さんに揶揄されるくらい、よく喋る子どもだった俺とは反対に、櫂は口数が少ない子だった。そして、一度遊び始めると、ひとつのことにずっと集中する。俺はといえば、すぐ別のことがやりたくなる。何から何まで正反対で、なのに、いつも一緒にいた。
櫂は、幼稚園のころから水泳を習っていた。その曜日だけは一緒に遊べなくて、それが少しさみしかった。俺は水が怖かったから、自分も習いたいとは思わなかったけれど。
それでも小学校に上がると、体力をつけなさい、と親に言われて、櫂と同じスイミングスクールに通うことになった。レッスンそのものは、正直つらかった。それでも、送迎バスで櫂と並んで揺られる時間は好きだった。
櫂は、俺がどうしてこんなに水を怖がるのか、わからないみたいだったけど、泳げない俺を笑うこともなかった。ただ淡々と、俺よりずっと上のクラスで、すいすいと泳いでいた。そんな姿を、かっこいいと思った。そして、少しだけ悔しくもあった。
上級コースに上がって、大会にも出るようになった櫂を残して、俺はクロールと背泳ぎがどうにかできるようになったころ、スクールをやめた。つらい練習から解放されたのはうれしかったけど、櫂と通う時間がなくなるのは、やっぱりさみしかった。
中学に上がって、俺は新入生歓迎の吹奏楽部の演奏で、トランペットに一目惚れした。腹の底に響く音、胸が躍るメロディ、大勢で音を重ねる一体感。これだ、と思った。その日のうちに入部を決めて、トランペットがやりたいですと手を挙げた。
それを報告すると、櫂は「ふうん」と、特に興味はなさそうだった。それでも俺は、休みの日に櫂の部屋に押しかけては、トランペットがどれだけかっこいいかを熱弁して、まだろくにできない演奏を聞かせたりした。
櫂が水泳にまっすぐ向き合っているように、俺にも夢中になれるものができた。それを知ってほしくて。
櫂が大会に出るようになっても、俺はプールの観戦席でトランペットを吹くわけにはいかない。だから代わりに、出発前に櫂の家にお邪魔して、最初に吹けるようになった練習曲を吹いた。「なんか、勇ましい曲だな」と櫂が言った短い曲を、俺たちだけの応援曲にして。
近所に響かないよう、ミュートをつけて奏でた小さな音。それが、いつのまにか俺たちのお決まりになっていた。
それも、今年の春で終わってしまった。
「芽吹くんは? 吹奏楽のほう、どう?」
駅へ向かう櫂のお母さんと、途中まで道が同じだ。並んで歩きながら、おばさんが尋ねてくる。
「夏休みに商店街のチャリティコンサートがあるんで、いまはその練習をしてます」
「いいわねえ。聞きに行こうかな」
それから、おばさんは、少し懐かしそうに言った。
「そういえば、最近、聞いてないわねえ。芽吹くんの、朝の演奏」
どきっとした。
「……最近は、ちょっと、忙しくて」
俺は、なんとかそう答えた。
本当のことは、言えなかった。もう来なくていいって言われたんです、なんて。
俺は楽器ケースを握りしめた。
夢を見ていたんだ、と気づくのに少し時間がかかった。喉の奥が、変な感じに渇いている。スイミングスクールの練習のあとみたいだ。もう何年も前に辞めたのに。
壁の時計は、六時前を示している。薄いブルーのカーテンの隙間から、太陽の光が差し込んでいた。もうすっかり夏の温度を帯びた光が、フローリングの床に白い線を引いている。
のろのろと体を起こして、窓に近づく。二階にある俺の部屋の窓からは、隣の家――櫂の家の玄関先が見える。子どものころから見慣れた眺めだ。
カーテンを小さくめくると、ちょうど玄関のドアが開いて、人影が出てきた。
櫂だった。
黒いスポーツバッグを肩にかけて、玄関脇に置いた自転車を押して道路に出る。
あのバッグの中身は、見なくてもわかる。水着、ゴーグル、キャップ、それからタオル。
今日は、県総体だ。水泳部にとって、夏のいちばん大きな大会の、予選。
櫂があのバッグを持って出ていく朝を、俺は何度も見てきた。そして、その背中に「いってらっしゃい」を言うのが、俺の役目だった。今年の春までは。
いつのまにか、背がずいぶん伸びたなあと思う。小学生のころは、背の順でいつも前後だったのに。いまでは、並んで歩くと、俺の視線は少し上を向くようになって久しい。短い黒髪の一部が、寝癖でぴょんとはねているのが見えた。
もしかしたら、こっちに気づいてくれないかな。そんなわずかな期待をあっさり裏切って、櫂は自転車にまたがり、坂の下へ消えていった。
坂へ曲がる直前、櫂が一度だけ、俺の部屋の窓を振り返った気がしたけど――気のせいだろう。
俺はカーテンを閉めて、もう一度ベッドに寝転がった。
ベッドの脇に、トランペットのケースが置いてある。腕を伸ばして、でも、指が触れる手前で止まった。
伸ばした手を、ゆっくり引っ込める。行き場をなくした手のひらが、シーツの上に落ちた。
◇
「あら、芽吹くん、おはよう」
玄関を出ると、ちょうど櫂のお母さんが出てきた。白いブラウスに、肩には通勤用のバッグ。仕事に行くところらしい。
「おはようございます。櫂、今日県総体ですよね」
「そうなのよ。去年からずっと、調子が出ないみたいなこと言ってたけど……どうなのかしらねえ」
頬に手を当てて、少し困ったように笑う。
「櫂なら大丈夫ですよ」
「いつも応援ありがとね、芽吹くん」
「いえ……」
俺は曖昧に笑ってそう応えることしかできなかった。
櫂との付き合いは、幼稚園時代までさかのぼる。
家が隣同士で、母さんたちが仲良くて、同じ幼稚園で――一緒に遊ぶようになるのは自然な流れだった。
「あんたが静かなのは、寝てるときと食べてるときだけね」と母さんに揶揄されるくらい、よく喋る子どもだった俺とは反対に、櫂は口数が少ない子だった。そして、一度遊び始めると、ひとつのことにずっと集中する。俺はといえば、すぐ別のことがやりたくなる。何から何まで正反対で、なのに、いつも一緒にいた。
櫂は、幼稚園のころから水泳を習っていた。その曜日だけは一緒に遊べなくて、それが少しさみしかった。俺は水が怖かったから、自分も習いたいとは思わなかったけれど。
それでも小学校に上がると、体力をつけなさい、と親に言われて、櫂と同じスイミングスクールに通うことになった。レッスンそのものは、正直つらかった。それでも、送迎バスで櫂と並んで揺られる時間は好きだった。
櫂は、俺がどうしてこんなに水を怖がるのか、わからないみたいだったけど、泳げない俺を笑うこともなかった。ただ淡々と、俺よりずっと上のクラスで、すいすいと泳いでいた。そんな姿を、かっこいいと思った。そして、少しだけ悔しくもあった。
上級コースに上がって、大会にも出るようになった櫂を残して、俺はクロールと背泳ぎがどうにかできるようになったころ、スクールをやめた。つらい練習から解放されたのはうれしかったけど、櫂と通う時間がなくなるのは、やっぱりさみしかった。
中学に上がって、俺は新入生歓迎の吹奏楽部の演奏で、トランペットに一目惚れした。腹の底に響く音、胸が躍るメロディ、大勢で音を重ねる一体感。これだ、と思った。その日のうちに入部を決めて、トランペットがやりたいですと手を挙げた。
それを報告すると、櫂は「ふうん」と、特に興味はなさそうだった。それでも俺は、休みの日に櫂の部屋に押しかけては、トランペットがどれだけかっこいいかを熱弁して、まだろくにできない演奏を聞かせたりした。
櫂が水泳にまっすぐ向き合っているように、俺にも夢中になれるものができた。それを知ってほしくて。
櫂が大会に出るようになっても、俺はプールの観戦席でトランペットを吹くわけにはいかない。だから代わりに、出発前に櫂の家にお邪魔して、最初に吹けるようになった練習曲を吹いた。「なんか、勇ましい曲だな」と櫂が言った短い曲を、俺たちだけの応援曲にして。
近所に響かないよう、ミュートをつけて奏でた小さな音。それが、いつのまにか俺たちのお決まりになっていた。
それも、今年の春で終わってしまった。
「芽吹くんは? 吹奏楽のほう、どう?」
駅へ向かう櫂のお母さんと、途中まで道が同じだ。並んで歩きながら、おばさんが尋ねてくる。
「夏休みに商店街のチャリティコンサートがあるんで、いまはその練習をしてます」
「いいわねえ。聞きに行こうかな」
それから、おばさんは、少し懐かしそうに言った。
「そういえば、最近、聞いてないわねえ。芽吹くんの、朝の演奏」
どきっとした。
「……最近は、ちょっと、忙しくて」
俺は、なんとかそう答えた。
本当のことは、言えなかった。もう来なくていいって言われたんです、なんて。
俺は楽器ケースを握りしめた。
