この音が恋になるまで

 部長に頼んで借りておいたカギで、音楽室のドアを開ける。
 こんな早朝に来るのは初めてだ。昼間は楽器の音や部員の声で賑やかなこの部屋が、嘘みたいに静かだった。
 窓を開けて少し身を乗り出すと、夏の陽にきらめく青いプールが見える。インターハイを控えた数人の部員が、青い水面にまっすぐな線を描いて泳いでいる。そのなかのひとりを――櫂を、俺はすぐに見つけた。
 その滑らかな泳ぎを眺めながら、俺は楽器ケースを開く。金色が、朝の光を弾いた。
 
 少しして、音楽室のドアが開く。
「悪い、待たせた」
 濡れた髪をタオルで拭きながら、櫂が入ってきた。
「お疲れ。調子、どう?」
「ああ、悪くない」
 櫂がメダルを手にして、初めてキスをしたあの日から約三週間。
 野球部は続く六回戦で敗退して、吹奏楽部の応援団も解散になった。試合のあと、暁良から、『次は水泳の応援がんばれよ! 怖い顔の幼馴染にもガンバレって言っといて!』というメッセージと花丸のスタンプが届いて、俺は笑った。
 櫂は、インターハイを三日後に控えている。今日は最後の校内練習で、俺たちはあの日の約束のために、早朝の音楽室にいた。
 窓に近づいた櫂がプールを見下ろして、はっとしたような顔をする。
「……見てたのか」
 その短い問いかけに、俺は、すぐには答えなかった。
 ――うん、見てたよ、さっき。いや、さっきだけじゃない。
 ずっと見てたんだよ、ここから。
「へへ、知らなかっただろ」
 俺が、お前を見てたこと――
 そう言って笑って見せる。櫂は一瞬驚いた顔をした。
 何かを言おうと唇が動きかけて、でも言葉にはならなかった。代わりに、大きな手が俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「じゃあ、吹くね」
 俺はそう言って、トランペットを構えた。
 櫂が、小さくうなずく。窓を背にして、まっすぐ俺を見ている。
 俺は大きく息を吸い込んで、マウスピースを唇に当てた。
 あの短い練習曲。何年も前、へたくそな俺が録音して押しつけた、ふたりだけの応援曲。
 あのころよりは、ずっとうまくなったと思う。
 櫂は、黙って聞いていた。
 濡れた前髪から、水滴が一粒、頬を伝って落ちる。
 その顔が、あんまり穏やかで、俺は危うく音を外しそうになった。
 最後の音が、夏の朝に溶けていった。
 しんとした静けさのあと、櫂が、ぽつりと言った。
「……ありがとう、芽吹」
 たった一言だった。でもそれは、あの春から、ずっと待っていた言葉だった。
 応援を断られたあの日から、ずっと喉につかえていたものが、すっと消えていくのがわかった。きらめく水面に溶けていくように。
「いつかうまくなって、応援に行くって言っただろ」
 トランペットを下ろして、俺は笑った。
「だいぶ待たせちゃったけどさ」
 櫂は、その口元に優しい笑みを浮かべて、言った。
「……来てただろ、ずっと前から」
 その一言に、不意打ちみたいに目の奥が熱くなった。
 ――ああ、そうか。届いてたんだ。
 迷惑かもしれないと思っていた、あの小さな音も。応援に行けなかった、たくさんの朝も。
 全部、ちゃんと届いてた。
 窓の外で青い水面のきらめきが揺れている。
 蝉の声が、夏はまだ終わらないと響いている。
 今日も、暑くなりそうだった。