この音が恋になるまで

 櫂の部屋に入るのは、ずいぶん久しぶりだった。
 小さいころから数えきれないくらい出入りした部屋なのに、いまはなんだか他人の部屋みたいに見える。
 自分から「吹きに行く」なんて言っておいて、いざ部屋に入った途端、どこに立てばいいのかもわからなくなるなんて、情けない。
 でも、俺たちはもう、ただの幼馴染じゃないんだ。そう思うと――
 電車で移動しているうちに落ち着いたはずの心臓が、また急に速くなる。
「……あ、あれ、しばらく見ないうちに、雑誌増えてない?」
「芽吹」
「あ、カーテンも変えただろ。前はもっと青っぽいやつで――」
「芽吹」
「優勝、おばさんも喜ぶよなあ。きっと今夜はごちそうだ。なんだろ、ステーキかな、それとも」
「座れば」
「う、うん……」
 言われて、俺はベッドの端に腰を下ろした。それから、急に恥ずかしくなる。
 いままでは何も考えずに座って――というか、昼寝までしていた場所なのに。
 櫂が、すぐ隣に腰を下ろした。ベッドが、ぎし、と鳴って、小さく沈む。
 鼓動が、痛いくらいに鳴っている。さっき会場まで全力で走ったときよりも、部活の筋トレで限界まで追い込んだときよりも、ずっと速い。
 横を向けば、すぐそこに櫂の顔がある。
 ――だめだ、頭が爆発しそうだ。
「そ、そうだ」
 俺は、勢いよく立ち上がった。
「曲! お祝いの曲、吹きに来たんだった」
 床に置いた楽器ケースを持ち上げて、留め具に手をかける。
 逃げてるような気分だったけど、お祝いのために来たんだし、と自分に言い聞かせる。
「芽吹」
 ケースを開けようとした手を、櫂の手が掴んで止めた。
「わっ」
 思わず声を上げると、櫂ははっとしたように慌てて手を離した。そして、「ごめん」と言葉を続けた。
「その曲は、あとでちゃんと聴かせてもらうから」
 櫂は、そこで一度言葉を切った。
 俺がうなずくと、櫂は、一度、息を吸った。
 それから、俺の目を見て――今度は、逸らさなかった。
「昨日、教室で……ごめん。あれ、ずっと謝りたかった」
「……櫂」
「手、痛くなかったか」
 いつもと同じ低い声。でも、どこか、おそるおそる確かめるような響きがあった。
「びっくりしたけど、大丈夫だよ」
 俺が答えると、櫂は、少しだけほっとしたように息を吐いた。
 それから、まだ言いたいことがあるのか、それを言うべきか、迷っているみたいだった。視線が、一瞬泳いで、ぐっと息をのむ。やがて、意を決したように、口を開く。
「あと……ずっと、お前のそういうとこ、見ないようにしてた」
「……どういうとこ?」
「お前が、トランペット吹いてるとこ」
「えっ? なんで?」
「だから……楽しそうにしてる顔とか、その……手とか、唇とか」
 櫂の耳が、みるみる赤くなっていく。
「見てると、変な気持ちになる。友達じゃない気持ちっていうか……それを知られるのが、怖くて」
 その言葉に、かっと頬が熱くなるのがわかる。
 それってつまり、いや、まさか。でも――俺だって。
 櫂の濡れた髪や腕を、つい目で追ってしまったこと。昔みたいに気安く肩を叩けなかったこと。それだって、同じだったんじゃないのか。
「なんだよ、それ……」
 お互いずっと、ひとりで抱えて、ごまかしてたのか。
 そう気づいた途端、顔がどうしようもなく熱くなった。
「俺のことそんな目で見てたのかよ!」
 自分のことを棚に上げて、そうでも言わないと恥ずかしさで爆発しそうだった。
「悪いか」
「悪いよ!」
 まるで子どものころみたいなやりとりが、可笑しくて、いとおしい。でも、触れた手から伝わる体温は、あのころと違う。
 照れ隠しにふざける俺の手を、櫂が、ぐっと握り直した。その力に、はしゃいでいた俺の声が、止まる。
「さっきの続き、していいか」
 何のこと、なんて、聞かなくてもわかった。
 わかってしまったから、頬がどうしようもなく熱くなって、もうとぼけることもできない。
「そ……そういうのは、聞かなくても、わかるだろ」
 精いっぱいの強がりで返した声は、情けないくらい掠れていた。
「ちゃんと聞きたい」
 そう言って、櫂が少しだけ距離を詰める。
 いつもと同じぶっきらぼうな声なのに、その奥には、まっすぐな熱があった。
 ぎし、と小さくベッドが鳴る。
 俺は小さく息を吐いて、それから。
「……いいよ」
 短く答えて、櫂のTシャツの裾を小さく掴んだ。
 どちらからともなく、距離が縮まる。自然なやり方なんてわからなくて、俺はぎゅっと目をつぶる。
 最初に、鼻先が触れた。心臓が破裂しそうな数秒の沈黙のあと、唇にやわらかい熱が触れた。
 その瞬間、櫂のことが好きだという気持ちで胸がいっぱいになった。
 体のほんの一部分を触れ合わせているだけなのに、こんなに緊張して、こんなに幸せで。
 今までずっとがまんしていたものが溢れそうになる。
 いつまで息を止めていればいいのかわからなくて我慢していると、唇がそっと離れた。慌てて息を吐くと、目の前で櫂が小さく笑う気配がした。
 おそるおそる目を開けると、びっくりするくらい近くで、櫂の目が優しくこっちを見ていた。こんな目で見られたことなんて、なかった。
 なにか言わなきゃと思うのに、言葉が出てこない。ただ呼吸だけが、忙しなく上下する。
 すると櫂が、こつん、と額をぶつけて言った。
「……いつもトランペット吹いてんのに、息、苦しそうだな」
「楽器と、き、キスは違うだろ!」
 動揺で、声が裏返る。櫂のそれだって、きっと照れ隠しだ。そうわかっていても恥ずかしい。
 櫂が、ふっと小さく笑った。
 悔しくて、照れくさくて――俺は、今度は自分から、櫂の唇に押しつけるようにキスをした。ほんの一瞬、触れて、すぐに離れる。勢いだけの、不格好なキスだった。
 もう一度目が合う。俺は、まじまじとその顔を見て――思わず噴き出した。
「櫂こそ、顔すごい赤い」
「……うるせえ」
「水泳の大会より緊張してるじゃん」
「んなわけないだろ」
「あんなに大きい会場で、みんなが見てる前で泳いで平気なくせに、なんで――」
「おい、その口ふさぐぞ」
 照れ隠しに少し強くなる声。でも、その頬は、ますます赤くなっている。
 胸の奥のほうがくすぐったくて、たまらなかった。
「……いいよ」
「は?」
 俺だって、余裕なんてどこにも――かけらもない。心臓の音を聞かれてしまったら、きっと笑われるくらい、めちゃくちゃだ。
 でも、櫂にもっと触れたい。さっきの気持ちを、もっとほしい。
「ふさいでいいよ」
 そう言った瞬間、櫂がびっくりしたように目を見開く。
 やばい、引かれたかな。また調子に乗って、俺は――
 慌てて体を離そうとすると、櫂の右手がそっと俺の頬に触れた。行くな、と引き留めるように。
 おそるおそる目を合わせる。櫂は、観念したみたいに笑っていた。
「……ほんと、昔からお前のそういうとこが――」
 その先に続く言葉は、優しいキスに飲み込まれた。