この音が恋になるまで

 楽器ケースを膝に抱えたまま、俺は車内の行き先表示を見上げた。
 いつもは音楽を聴いていればあっという間なのに、今日はじれったいくらい電車の進みがゆっくりに感じられる。
 野球場を出て電車に乗ってから、俺は何度もスマホを取り出してはポケットに戻すのを繰り返している。
 検索すれば、櫂の結果はもう出ているかもしれない。タイムも、順位も。
 でも、見なかった。
 画面越しの動画でも、速報でもなくて、自分の目で――そして、朝の約束の言葉を聞きたいんだ。
 窓の外を、夏の街が流れていく。乗り換えのたびに走って、ホームの階段を駆け上がって、また電車に飛び乗る。楽器ケースが肩に食い込んで、ポロシャツの背中は汗で濡れていた。
 櫂、がんばれ。
 音が届かなくても、心のなかで何度も呼びかけている。
 自分がこんなに必死になる理由を、俺はうまく説明できない。
 幼馴染だから? スランプが心配だから? ずっと応援してきたから?
 全部間違いではないのに、どれもぴったり正解じゃない。
 不意に思い出す、放課後の教室で、触れる寸前で櫂が止まった、あの瞬間。
 俺はあのとき、驚いた。
 なのに、どうしてか手を振り払おうとは思わなかったんだ。
 何があっても表情ひとつ変えない櫂。その櫂が、余裕なんてどこにもない顔で、何かを必死に求めていた。
 あんなに近くで、息が触れ合うくらい近くで、あんな顔をされて――あれは、単純な驚きや、ただの戸惑いじゃなかった。
 ――嫌じゃなかったんだ。
 それから、今日の応援のことも。
 スタンドで、暁良たちの応援ができることは、本当に嬉しかった。
 でも、櫂のために吹くときの胸の高鳴りとは違う。心臓が、ぜんぜん違う鳴り方をする。
 届いてほしい、俺の音だって気づいてほしいって、そればっかり考えてる。
 大勢に届くんじゃ、足りない。あいつに届けたい。そこまで考えて、足が、勝手に速くなった。
 いま、結果を見たくないのも。
 こんなに汗だくになって走ってるのも。
 勝ち負けじゃなくて、ただ、あいつの顔が見たいのも。朝の言葉の続きを、どうしても聞きたいのも。
 全部、答えはとっくに出てたんじゃないか。見ないふりをしていただけで。
 電車を降りて、ホームを走りながら、俺はようやく気がついた。
 櫂が、好きだ。
 声に出したわけでもないのに、耳が、頬が、胸が、熱くなった。
 認めてしまったら、堰を切ったみたいに、いろんなことがつながっていく。
 あいつは、水を怖がる俺を、一度も笑わなかった。へたくそな演奏を、最後まで黙って聞いてくれた。不愛想なくせに、俺の約束だけは、いつも覚えてた。
 理由になりそうなものなんて、どれもずっと目の前にあったのに、あたりまえすぎて、見えてなかったんだ。
 改札を抜け、駅の外へ飛び出す。夏の一日の終わりの熱が、まだ地面にこもっていた。空はオレンジに傾きかけている。
 櫂。俺、お前に届けたいんだ。
 がんばれよ、なんて言葉じゃ足りないくらいの、爆発しそうな気持ちを。
 
 ◇
 
 駅を出て、案内板も見ずに走った。何度か来たことのある、県営のプール。
 正面の入口から、観客や選手らしき人の波が次々と流れ出してくるのが見える。
 ――やっぱり、間に合わなかった。
 ロビーに駆け込むと、もうスタッフらしき人たちがまばらに残るだけで、レースの熱気は残っていない。表彰式も、もう終わったんだろう。
 それでも、足は止まらなかった。
 人の流れに逆らって、建物の脇の通用口へと回る。
 夕方の光が、まぶしい。目を細めて見たその先――選手通用口の脇に、ジャージ姿の櫂がいた。
 スマホを片手に、きょろきょろと誰かを探すようにして、こちらへ向かってくる。
 誰を探しているのか――考えるまでもなかった。
 いや、うぬぼれかもしれない。でも、いまだけは、そう思ってもいいはずだ。
 あいつが探しているのは、俺だ。
「櫂!」
 呼ぶと、櫂が顔を上げた。
 驚いた顔をしたあと、すぐに真顔に戻る。俺はそのまま駆け寄って、櫂の前で足を止めた。息が切れて、すぐには言葉が出てこなかった。
「……間に合わなくて、ごめん」
「走ってきたのか」
「やばい、あした、筋肉痛かも」
 そう言って、腿を叩いて笑って見せる。
 櫂は静かな表情のまま、口を開いた。
「……野球部の試合は?」
「勝ったよ。ベスト8」
「そうか。おめでとう」
 その声には、もう、前みたいなよそよそしさも、何かを隠すような硬さもなかった。心から、そう言ってくれているのがわかった。
「ありがとう。櫂は――」
 言いかけて、続きを飲み込んだ。
 聞いていいのだろうか。櫂の顔からは、結果が読み取れない。
 聞きたい。でも、その前に。
 さっき走りながら気づいた言葉が、まだ胸のなかで熱を持っている。
 先に、言ってしまおうか。そう思って口を開きかけたとき。
「芽吹。その前に、言わせてくれ」
 櫂が、俺の言葉を遮った。
 めずらしかった。櫂が、自分から何かを切り出そうとするなんて。
 櫂の視線が、まっすぐに俺を見つめている。俺は、ぐっと息をひとつ飲み込んで、櫂の言葉を待った。
「いままでずっと、言葉足らずで、お前を傷つけた。ごめん」
 静かで、けれど、もう逃げない、という覚悟のこもった声だった。
「お前の応援が、嫌だったんじゃない。負けてる自分を、お前に見られるのが嫌だった。お前の音に応えられない自分が、情けなくて」
 ひとつずつ言葉を確かめるみたいにして、櫂は続ける。
「野球部のやつと笑ってるお前を見て、そのために吹くって聞いて、腹が立った。お前の応援を……その、取られたみたいで腹が立った。お前の音を、俺だけのものにしたいって、本気で思った」
 まるで自分自身に怒っているみたいに、櫂はぐっと眉間にしわを寄せる。
「でも、違うよな。お前の音は、お前のものだ。俺が独り占めできるもんじゃない」
 そこで、櫂は一度、息を吸った。
「それでも――あの曲だけは、俺だけに吹いてほしい」
 心臓が、跳ねる。急にテンポを上げた演奏みたいに、鼓動が速くなる。
 櫂の言葉は全部、俺が電車のなかで願ってたことの、答え合わせみたいだった。
 でも、まだ足りない。あと一言。その口から聞きたい。
「お前が好きだ」
 櫂が、言った。
 その言葉はあまりにもまっすぐで、俺は一瞬、息ができなかった。
 さっき電車のなかで、俺がやっと気づいたばかりのものと、同じ気持ち。
「本当は、勝ったら言おうと思ってた。お前の応援に応えられる男になったら……でも、途中で違うって気づいた。勝っても負けても、たとえかっこ悪くても、お前が好きな気持ちは変わらないから」
 全部を言いきったのか、櫂は唇を引き結んだ。その口元は、緊張のためか強張っている。それでも、俺を見つめるまなざしには、もう一切の迷いがなかった。
 そんなまっすぐな気持ちを、向けるなんて。
「……ひどいよ」
 やっと出た声は、情けないくらい掠れていた。
「俺、本当に嫌われたと思ったんだぞ」
 朝、櫂が窓越しに言った「言いたいこと」。一日じゅう、なんだろうって気になって仕方なかったそれが、これだったなんて。
「俺、ずっと、お前に届いてほしくて吹いてたんだから。中学のときから、ずっと」
 いまならわかる。あの練習曲を「お前専用の応援曲にしてやる」なんて言ったときから、櫂は特別だった。それを「好き」だということを、いままで知らなかっただけで。
「お前は、言うの遅すぎ。俺は、気づくの遅すぎ」
 言いながら、目の奥が熱くなってくる。
「俺も好きだ。櫂が」
 もっとかっこいいセリフが言えたらよかったのかもしれない。でも、これが俺のほんとうの気持ちだから。
「あの曲は、お前だけのだよ。昔から、ずっとそうだったろ」
 櫂が、目を見開いた。それから、泣きそうな、笑うのを我慢してるような、見たことのない顔になった。
「だから、また俺の音を聞いてほしいよ、櫂」
 ああ、かっこ悪い。そう思いながらも、頬を伝ってこぼれていく涙を止めることはできなかった。
 櫂が、ためらいがちに俺の肩へ手を置く。それからゆっくり、その手を背中に回して――俺の頭を、そっと自分の肩へ引き寄せた。
 泣き顔を隠してくれたんだと、少し遅れて気づく。
 あたたかい腕の感触に、俺はますます目の奥が熱くなってしまった。
 子どものころから、数えきれないくらい、こいつとは体をぶつけ合ってきた。じゃれて、もつれて、取っ組み合って。
 でも、こんなに優しく、あたたかく、触れられたことはなかった。
 涙を拭って視線を落としたとき、足元に置かれたスポーツバッグが目に入った。それで、ようやく思い出した。
「……櫂、それで……」
 俺は、間の抜けた声を出した。
「……勝ったのか?」
 櫂は何も言わず、そっと手を放した。そして、バッグを開けて、奥へ手を入れる。
 引き出された青いリボンの先で、丸い金色が揺れた。それは、西日を弾いて、まぶしいほどに光っていた。
「勝った」
 櫂が言った。ほんの少しだけ、照れくさそうに。
「勝ったんだ……」
「ああ」
「優勝、だよね?」
「金メダルだからな」
「タイムは……?」
「標準は切った。だから」
 ――インターハイに、行ける。櫂が、去年からずっと目指してた舞台に。
「すごい、すごいよ、おめでとう」
 言葉が、うまく出てこなかった。すごい、しか言えない自分がもどかしい。
 それでも櫂は、満更でもなさそうに、小さく笑ってうなずいた。
「櫂、じゃあ、嫌じゃなかったら、次は――インハイは、俺」
「来いよ」
 言い終わる前に、櫂が言った。
「……いや、来てくれ。お前の応援が聞きたい」
 その不器用な言い直しが、櫂らしくて、嬉しくて。俺は思わず笑ってしまった。
「なんだよ、それ。前は、来るなって言ったくせに」
「……だからそれは、悪かったって」
 櫂が困ったように言って、そそくさとメダルをバッグにしまおうとする。
 青いリボンの先で、揺れている金色。櫂はどんな顔をして、これを受け取ったんだろう。想像しようとしたところで、いいことを思いついてしまった。
「櫂、ちょっと待って」
「ん?」
「それ、俺が首にかけてあげてもいい?」
「……何で」
「表彰式、見れなかったから。だから俺にやらせてよ」
「子どもかよ」
 呆れたように言いながら、櫂が苦笑した。昔からよく見た、仕方ないなって言うような笑顔だった。
「ほらよ」と、青いリボンのついたメダルを、俺の手のひらへ載せてくれる。それは、思っていたよりもしっかり重かった。櫂が積み上げてきた時間の重さみたいに思えて、なんだか少し、泣きそうになる。
「じゃ、ちょっと屈んで」
「お前が背伸びすればいいだろ」
「いいから」
 櫂がやれやれといったふうに、少しだけ腰をかがめる。俺は両手でリボンを広げ、その頭をくぐらせた。
 金色のメダルが、櫂の胸元へ落ちる。
「優勝、おめでとう」
「ありがとう」
 顔を上げたら、思っていたよりもずっと近くに櫂の顔があった。
「……っ」
 息が触れそうな距離で、目が合う。
 ゆるんでいた櫂の口元が、きゅっと引き結ばれる。
 放課後の教室でのことが頭をよぎって、心臓が急に役割を放り出したメトロノームみたいにバクバク鳴りだした。
 櫂の喉が、ごくんと上下に動く。
 あのときはすぐに離れた。でも、今度は――もう逃げない。俺も、たぶん、櫂も。
 そっと目を閉じようとした、その瞬間――
「おーい、まだ残ってる奴いるのかー」
 通路の向こうから、誰かの声が飛んできた。俺たちは、弾かれたみたいに離れた。別の学校のジャージ姿の選手が、こっちには目もくれずに通り過ぎていく。
「……帰るぞ」
 櫂が、俺の顔を見ないまま、足元のバッグを肩にかけた。耳も頬も、まだ赤い。
「う、うん」
 たぶん俺の顔も、同じくらい赤かったと思う。
 並んで、駅へ向かって歩き出す。歩き出そうとしたとき、櫂の指先が、ためらうように俺の手に触れた。
 逃がすものかと思って、俺はその手をつかまえて、握った。
 ちらりと横を見ると、櫂の胸元で、金色のメダルが歩くたびに小さく揺れている。
 それを見て、ふと思いついた。
「……あのさ、櫂」
「ん?」
「トランペットってさ、応援だけじゃないんだ」
「え?」
「お祝いのときも、吹くんだよ。優勝とか、おめでたいとき」
 言いながら、自分の顔が、じわじわ熱くなっていくのがわかった。それでも、目は逸らさなかった。
「だから――今日、櫂の家、行っていい? 優勝のお祝いに、吹かせてほしい」
 櫂が、足を止めた。困った顔で、こっちを見る。
「……お前、急に何言って」
「お祝いの曲もちゃんとあるんだ。一度、吹いてみたかった」
「いや、でも」
 ぐしゃっと前髪をかき上げて、櫂は目を閉じる。
 言葉を探すみたいに、何度か口を開きかけて、結局、あきらめたように。
「……わかったよ」
 そう言って、繋いだ手に少しだけ力がこめられる。
 ずっと、応援の曲ばかり吹いてきた。櫂に、「がんばれ」を届けたくて。
 でも、今日は違う。「おめでとう」を伝える。
 応援する相手だった櫂が、お祝いしたい相手にもなった。それが、どうしようもなく嬉しかった。