レース前の招集所には、いつもと同じようによそよそしい緊張感が漂っていた。ベンチに並んで順番を待つあいだ、誰も口をきかない。係員に呼ばれて、招集所からプールサイドへ歩き出すと、歓声が大きくなった。
野球部の試合はもう終わっただろうか。それともまだ点の取り合いは続いていて、芽吹はトランペットを吹いているだろうか。
――もしもあいつが、この会場にいたら。
そこまで考えて、打ち消した。今日の試合会場は離れている。応援をはしごするなんて、できるわけがない。
野球場のスタンドで、芽吹がまっすぐに立ってあの音を響かせる姿を思い浮かべる。ゲームの展開に興奮して、手を叩いたり、ほかの部員と抱き合ったりするのかもしれない。
耳の奥に、あの曲が流れてくる。あいつが俺だけに吹いてくれた、短い練習曲。
――あの音だけは、俺のものだと思わせてくれ。いまこの瞬間は。
電光掲示板に、名前とレーンの番号が表示され、意識が引き戻される。
四コース。隣の五コースには、県総体で俺を抑えて優勝した、他校のエースが並ぶ。台の前で肩を回している姿が、視界の端に入った。
今日は、勝つ。
スタート台に足をかける。
冷たい感触が、足の裏から伝わってきた。その瞬間、県総体で負けたときの感覚が、ぬるりと背中に蘇る。
ゴーグルの内側で、一度、目を閉じる。
――今日、絶対勝つから。勝って、お前に言いたいことがある。
「Take your marks(位置について)」
合図に従い、前傾姿勢を取る。息が詰まるような沈黙。
スタートの電子音が響く。その瞬間、水へ飛び込んだ。
最初の一掻き。隣のレーンの水しぶきが、視界の端で跳ねる。隣の選手が、わずかに前に出ている。
追わなければ。そう思うと、反射的に肩に力が入った。
水を掻く手が、浅くなる。しっかりと進んでいる感触がない。回転だけが上がっていく。掻いても、掻いても、水が逃げていくような感覚。
駄目だ、これじゃ、県総体と同じだ。
いま無理に追えば、後半は疲労でもがくような重い泳ぎになってしまう。
50メートル。水中でターンして壁を蹴った瞬間、芽吹の声が聞こえた気がした。
――今日、がんばって。俺、応援してるから。
朝、会えるとは思わなかった。
このレースが終わったら、言うつもりだった。優勝して。胸を張れる自分になって。勝てない自分のままじゃ、あいつの隣に立つ資格なんてない。ずっと、そう思っていた。でも。
――だったら、負けたら、言わないのか? この気持ちは、順位ひとつで、タイムひとつで消えるのか?
――消えるわけがない。
勝ったから好きでいていいとか、負けたから諦めるとか、そんなものじゃない。
勝っても負けても、俺があいつを好きなことは、変わらない。
ふっと、肩の力が抜けた。
隣を見るな。順位を考えるな。ただ、自分の泳ぎをしろ。
急くように浅くなっていた手を、もう一度、深く沈める。
自分のフォームを思い出せ。
ひとつひとつのストロークを丁寧に、しっかり水を掻いて、前へ進め。
水のなかは、いつものように静かだった。世界でひとりみたいな、あの静けさ。
俺はこの静けさがずっと好きだった。
でも、いつからかそこに、芽吹がいた。
100メートル、そして、150メートルのターンを越える。
隣のレーンの選手の気配は、まだわずかに前方にある。
でも、焦りはなかった。
最後の50メートル。ここからだ。
沈みかけた下半身を、強いキックで水平に戻す。テンポを上げろ。前半で力を使い切っていない体が、ちゃんと応えた。一掻きごとに、隣との差が縮まっていく。水が味方になる感覚があった。
残り、25メートル。
もう、何も聞こえない。歓声も、自分の心臓の音も。
あるのは、泳ぐのが好きだという気持ちだけだった。芽吹が隣のコースから、まぶしそうに俺を見ていた、あのころと同じ。
俺は、最後の壁へ右手を伸ばした。
野球部の試合はもう終わっただろうか。それともまだ点の取り合いは続いていて、芽吹はトランペットを吹いているだろうか。
――もしもあいつが、この会場にいたら。
そこまで考えて、打ち消した。今日の試合会場は離れている。応援をはしごするなんて、できるわけがない。
野球場のスタンドで、芽吹がまっすぐに立ってあの音を響かせる姿を思い浮かべる。ゲームの展開に興奮して、手を叩いたり、ほかの部員と抱き合ったりするのかもしれない。
耳の奥に、あの曲が流れてくる。あいつが俺だけに吹いてくれた、短い練習曲。
――あの音だけは、俺のものだと思わせてくれ。いまこの瞬間は。
電光掲示板に、名前とレーンの番号が表示され、意識が引き戻される。
四コース。隣の五コースには、県総体で俺を抑えて優勝した、他校のエースが並ぶ。台の前で肩を回している姿が、視界の端に入った。
今日は、勝つ。
スタート台に足をかける。
冷たい感触が、足の裏から伝わってきた。その瞬間、県総体で負けたときの感覚が、ぬるりと背中に蘇る。
ゴーグルの内側で、一度、目を閉じる。
――今日、絶対勝つから。勝って、お前に言いたいことがある。
「Take your marks(位置について)」
合図に従い、前傾姿勢を取る。息が詰まるような沈黙。
スタートの電子音が響く。その瞬間、水へ飛び込んだ。
最初の一掻き。隣のレーンの水しぶきが、視界の端で跳ねる。隣の選手が、わずかに前に出ている。
追わなければ。そう思うと、反射的に肩に力が入った。
水を掻く手が、浅くなる。しっかりと進んでいる感触がない。回転だけが上がっていく。掻いても、掻いても、水が逃げていくような感覚。
駄目だ、これじゃ、県総体と同じだ。
いま無理に追えば、後半は疲労でもがくような重い泳ぎになってしまう。
50メートル。水中でターンして壁を蹴った瞬間、芽吹の声が聞こえた気がした。
――今日、がんばって。俺、応援してるから。
朝、会えるとは思わなかった。
このレースが終わったら、言うつもりだった。優勝して。胸を張れる自分になって。勝てない自分のままじゃ、あいつの隣に立つ資格なんてない。ずっと、そう思っていた。でも。
――だったら、負けたら、言わないのか? この気持ちは、順位ひとつで、タイムひとつで消えるのか?
――消えるわけがない。
勝ったから好きでいていいとか、負けたから諦めるとか、そんなものじゃない。
勝っても負けても、俺があいつを好きなことは、変わらない。
ふっと、肩の力が抜けた。
隣を見るな。順位を考えるな。ただ、自分の泳ぎをしろ。
急くように浅くなっていた手を、もう一度、深く沈める。
自分のフォームを思い出せ。
ひとつひとつのストロークを丁寧に、しっかり水を掻いて、前へ進め。
水のなかは、いつものように静かだった。世界でひとりみたいな、あの静けさ。
俺はこの静けさがずっと好きだった。
でも、いつからかそこに、芽吹がいた。
100メートル、そして、150メートルのターンを越える。
隣のレーンの選手の気配は、まだわずかに前方にある。
でも、焦りはなかった。
最後の50メートル。ここからだ。
沈みかけた下半身を、強いキックで水平に戻す。テンポを上げろ。前半で力を使い切っていない体が、ちゃんと応えた。一掻きごとに、隣との差が縮まっていく。水が味方になる感覚があった。
残り、25メートル。
もう、何も聞こえない。歓声も、自分の心臓の音も。
あるのは、泳ぐのが好きだという気持ちだけだった。芽吹が隣のコースから、まぶしそうに俺を見ていた、あのころと同じ。
俺は、最後の壁へ右手を伸ばした。
