この音が恋になるまで

 球場に着くと、四回戦のときよりも空気がひりひりしているのを感じた。
 スタンドの一角に陣取って、楽器を構える。相手校の応援団も、負けないくらいの人数だ。
 プレイボールの号令と同時に、最初の音を吹いた瞬間、ぞくっと鳥肌が立った。
 俺は腹の底から息を送り込んだ。届け、と思いながら。
 次の打者は暁良だ。キン、と乾いた音が響いて、白い球がレフト前にきれいに抜けた。スタンドが、爆発したように沸く。ヒットが出たときの短いフレーズを吹くと、心が躍った。
 一塁に立った暁良が、大きくガッツポーズをする。
 スタンドの手拍子と、ベンチから上がる歓声が、ひとつになる。この瞬間のために、みんなここにいるんだ。そう思うと、トランペットを持つ手に自然と力が入った。
 試合は、ずっと競り合いだった。
 一点を取られれば、取り返す。逆転されて、また食らいつく。そのたびに俺たちは音を鳴らして、選手の背中を押す。
 気づけば、唇も指も、じんじんと痺れている。それでも、不思議と疲れは感じなかった。俺の音を届けたい。みんなの背中を、ほんの少しでも押したい。
 攻守交替の短いインターバルの間に、ドリンクを飲み、汗を拭う。
 ふっと息をつくその隙間に、不意に思い出してしまう。
 櫂、いまごろ会場に着いたかな。
 緊張してるかな。
 言いたいことって何だろう。
 がんばれ、だけじゃなくて、あの曲を吹きたかった。
 そうだ。俺がこの音を、ほんとうに届けたいのは。
 そこまで浮かんで、慌てて打ち消す。
 だめだ。いまは、目の前の試合に集中しよう。
 俺は楽譜から顔を上げて、グラウンドに視線を戻した。次の回が始まる。
 
 九回の裏、最後のバッターが大きく振ったバットは、音を鳴らすことなく空を切った。三振で試合が決まった瞬間、俺たちのいるスタンドが揺れた。
「勝った! ベスト8だ!」
 俺は、隣のやつと肩を組んで、言葉にならない声を上げて、楽器を抱えたまま飛び跳ねた。
 試合終了の整列を終えた選手たちが、スタンドの前に駆けてきて、「応援ありがとうございました!」と声をそろえる。俺たちは力いっぱい拍手を送った。
 ありがとうを言いたいのはこっちのほうだ。応援する喜びをいっぱいくれた。
 目尻に涙が浮かんでいることに気づいて、俺は慌てて拭った。
 興奮は、まだ心臓を熱く、強く、揺らしている。
 ――でも。
 最後の音を吹き終えたその瞬間から、心はただひとりに向かっていることに、俺は気づいていた。
 
 ◇
 
 楽器を片付け、応援団の列に従って、球場の出入り口へ向かう。
 早足で歩きながら、スマホを開く。
 もうすぐ櫂のレースが始まる時間だ。ここから電車を乗り継いで、一時間以上。どんなに急いだって、会場に着くころにはきっと全部終わっている。
 それでも――
 今朝、櫂が言ったんだ。勝って、話したいことがある、と。その続きを、どうしても聞きたい。間に合わなくたっていい。結果なんて、関係ない。
 ただ、あいつの顔が見たい。あいつの声が、聞きたい。
「町谷!」
 楽器ケースを担ぎ直したとき、名前を呼ばれた。
 顔を上げると、暁良がいた。
 さっきまでの試合の興奮そのままに、汗だくのユニフォーム姿で。どうやら、俺を待っていたらしい。
「お前、行くんだろ。水泳の幼馴染のとこ」
「え、言ったっけ、俺」
「顔に書いてある。さっきからめっちゃスマホ見てるし」
 ばれていた。耳が、かっと熱くなる。
「今日の応援、最高だった。ありがとな」
 暁良は、とん、と俺の肩を叩いた。
「こっちはもう大丈夫だから。ほら、行けって。間に合わなくなるぞ」
「……うん。ありがとう」
 俺は、楽器ケースを抱えて、頭を下げて、走り出した。
「町谷ー!」
 振り返ると、暁良が両手で大きく丸を作っていた。
「うちも勝ったし、次はお前の番だ。応援してるぞ!」
 精いっぱいうなずいて、俺は球場の外へ駆け出した。