この音が恋になるまで

 アラームの音に、重い頭を持ち上げる。ゆうべは、ほとんど眠れなかった。
 目を閉じるたびに、あの瞬間が浮かんできた。息がかかるくらい近くにあった、櫂の目。苦しそうな表情。掴まれた手首の熱。
 突然のことに頭が真っ白になったし、いつもと違う櫂の様子が、怖かった。唇が触れる寸前で解放されて、ほっとした。……はずだった。
 あのときの櫂の、泣きそうな、すがるような瞳が、ずっと胸の奥に刺さって抜けない。どうして俺は、あんなことをされたのに、「嫌だ」とは思わなかったんだろう。
 櫂の考えてることは、昔から半分くらいしかわからない。俺みたいにおしゃべりじゃないし、表情もあまり変わらないから。それでも、少ない言葉や目の動きから、櫂の気持ちをくみ取ってきたつもりだった。優しさも、困惑も、そんな小さな変化に表れていたから。
 でも、昨日のあの表情は――まるでわからない。俺の知らない櫂だった。
 今日の200メートル自由形の決勝は午後からだと、大会日程を見て確認した。櫂は、調整と準備のために、朝早くに出発するだろう。
 カーテンを開けて、櫂の家の玄関を見下ろす。ややあって、黒いスポーツバッグを下げた櫂が出てきた。
 とっさに、カーテンの影に隠れてしまう。
 声をかけたいと思った。ひとことでいいから、がんばって、と。でも、目を逸らされたら。無視されたら。それよりも――また、苦しそうな顔をさせてしまったら。
 カシャン、と自転車のカギを開ける音がする。行ってしまう。
 俺は思い切って窓を開けた。
「おはよう、櫂」
 ぎりぎり届くくらいの声で、呼ぶ。
 櫂が、はっと顔を上げた。窓辺の俺を見つけて、驚いた顔をする。
 そうだよな。ここからこんなふうに声をかけるのは、ずいぶん久しぶりだ。
「……おはよう」
 声量を抑えた低い声で、櫂が返す。
 昨日のことは、まだ、何も分からないままだ。
 でも――それでも、応援したい気持ちは変わらない。
「今日、がんばって。俺、応援してるから」
 櫂が、きゅっと唇を引き結ぶのが見えた。
 そのまましばらく、黙って俺を見ていた。
「芽吹」
 何かを決意したみたいに、拳を握りしめて、櫂がこちらに向き直った。
「今日、絶対勝つから。勝って、お前に言いたいことがある」
 まっすぐな声でそう言って、じっとこっちを見つめる。目を逸らさない。
 言いたいことって何? 昨日のこと? それとも、もう応援に来るな、って言った、あのこと?
 聞きたい、いますぐにでも。でも、何か大切なことを決めたみたいな櫂の表情を見て、俺はその言葉を飲み込んだ。
「うん」
 窓枠に置いた手をぐっと握りしめる。
 声が届いたのか、櫂が小さく「ありがとう」と言った。
 胸のなかに、不思議な温かさと、ざわめきが静かに広がっていく。
 櫂が、口の端を少しだけ上げた。
 久しぶりに見る櫂の笑顔だった。