この音が恋になるまで

 水のなかは、いつも静かで、少し怖い。
 頭のてっぺんまで潜ると、プールの高い天井に響いていた賑やかな音が、急に遠くなる。世界にひとりきりみたいで、ふわふわと浮いた体は頼りない。
 まだ背の立たない深さが怖くて、俺はビート板にしがみついたまま、隣のレーンの男の子を見ていた。
 まっすぐ前のコースを見据え、ひとつ深呼吸をしてゴーグルを着ける横顔。
 ピッと、コーチが鳴らす鋭いホイッスルの音を合図に、彼が――(かい)が泳ぎ始めた。
 いつか一緒に行った水族館で見た、水のなかをなめらかに進んでいくイルカみたいに、すいすい泳いでいく。その姿を見るのが、俺は好きだった。
「櫂、すごいね、かっこいい。イルカみたい」
「イルカじゃねえし」
「じゃあ……えーっと、ペンギン?」
「鳥じゃん」
 ちょうど休憩が合ったタイミングで、隣のコースに身を乗り出して声をかけると、櫂はぶっきらぼうに言った。素っ気ないのにちょっと得意げに見えたのは、気のせいじゃなかったと思う。
 ホイッスルの合図で、もう一往復。水を蹴る足は、ただ無我夢中にばたばたしている俺の足とは違って、きれいに、まっすぐに伸びて、小さなしぶきを上げていた。
 ――その水のきらめきが、ふいに、別の光に変わる。
 夕方の、まぶしい西日。スイミングスクールの、送迎バスの窓。まだ髪の湿った頭に、ぼんやり残る、塩素のにおい。これは、たぶん、スイミングをやめる、最後の日の帰り道だ。
芽吹(めぶき)、つぎ何か別の習い事やるの?」
 めずらしく、櫂のほうから聞いてきた。
「うーん、まだわかんない。でも」
 窓の外を流れていく、オレンジ色に染まる景色を見ながら、俺は言った。
「なんか、楽器とかやってみたいな。かっこいいし、音楽好きだし」
「楽器かあ」
「櫂はいいよな。泳ぐの、すごい得意じゃん。俺はそういうの、まだ何にもないからさ」
「ふうん」
「でも、音楽聴くの好きだし。かっこいい曲とか聴くと、自分でもできたらなあって思うんだ。あんな音、自分で出せたら気持ちいいだろうなって」
 窓の外を見ながら、俺は言った。楽器を構える自分を想像すると、わくわくする。
 櫂は、しばらくしてからぽつりと言った。
「……いいな、それ。似合うかも」
 夕日がまぶしくて、櫂がどんな顔で言ったのかは、よく見えなかった。でも、その短い言葉がすごく嬉しかった。
「あ、そうだ!」
 俺は身を乗り出した。
「俺さ、楽器うまくなったら、櫂の水泳の大会、応援に行くよ」
「え?」
「ぜったい行くから。すっげーうまくなって、応援してやる」
「ぜったいだぞ」と念を押す俺に、櫂は、「わかったよ」と笑った。
 笑ってたのに。
 
 ――芽吹、もう応援に来なくていいから。
 
 幼い櫂の、ちょっと照れたような笑顔が、急に十七歳の櫂になる。
 春の、まだ水の冷たい時期だった。プールサイドの塩素のにおいのなかで。俺の顔も見ないで、あいつはそう言った。
 ……ああ、そうだった。
 もう、来なくていいって言われたんだっけ。