黒瀬によれば、これは純愛らしい。

 
 無響大学、昼下がり。

 例の猫ポエム晒し事件から数日が経っても、大学構内にはまだ妙な余韻が残っていた。

 掲示板からスクショは剥がされ、油性ペンの落書きも誰かが雑に消した。

 だが、人間の記憶というものは紙よりしつこい。特に面白い不審者の記憶は、学内ネットワークを経由してなかなか死なない。

「猫男、今日いた?」
「さっき自販機裏にいたぞ」
「人間の方?」
「人間」

 そんな会話が、昼休みの喧騒に混ざって普通に流れている。
 無響大学の治安は、今日もそこそこ終わっていた。

 橘は、コンビニ袋を片手に自販機裏へ向かう。

 中身は鮭弁当の空き容器と、申し訳程度に残した鮭の皮。それから、買ったものの食べる気がなくなった未開封の鮭おにぎり。

 本人曰く「食べきれなかっただけ」だが、足は完全に例の茶トラがいる方へ向いている。

「おー、いたいた」

 自販機裏の陰。
 日差しを避けるようにして、茶トラの野良猫が伸びていた。
 雑に伸びた短毛。眠たげな目。大学生よりよほど昼休みの使い方がうまい。

 その首元には、あの日のブレスレットの飾りがまだ残っている。

 ただし、黒瀬がいつの間にか軽い紐に通し直したらしく、前よりは猫への負担が少なそうだった。あくまで「少なそう」であって、そもそもつけるなという話ではある。

「残飯持ってきたよー。今日も猫生やってる?」

 橘はしゃがみ込み、鮭の皮を小さくちぎって猫の前に置いた。

 猫は一度だけ橘を見上げる。
 そして、まるで「まあ食ってやるか」とでも言いたげに、ゆっくり咀嚼し始めた。

「態度でか。じぇにより大学馴染んでるじゃん」

 橘が雑に笑いながら、猫の頭を撫でる。
 猫は当然のようにそれを受け入れ、喉を鳴らした。

「じぇにの貢ぎ物の代わりに、私からの現物支給。あんた、あいつに毎日ポエム聞かされててよく精神病まないね。普通に尊敬するわ」

 猫は答えない。答えないから可愛い。

 人間はだいたい、喋ると余計なことになる。特に黒瀬という男は、喋るたびに世界へ異物を混ぜる。

 その瞬間だった。
 自販機横の植え込みが、ガサッと揺れた。

「──」

 橘の手が止まる。猫も一応そちらを見る。

 ガサ。
 もう一度揺れる。

 以前なら、もう少し驚いたかもしれない。

 しかし今の橘は、植え込みが揺れた時点で黒瀬を想定できる程度には、この数日で嫌な学習をしていた。
 成長ではなく、被害経験だ。

「出てこい。ラブホ前の時点で植え込みキャラ確定してるから」

 数秒の沈黙のあと、植え込みの奥から黒瀬が現れた。

 葉っぱはついていない。泥もついていない。
 しかし、植え込みから出てきた時点で人間としてはかなりアウトだった。

 よく見ると、黒瀬の顔色は少し悪い。
 晒されたことを祝福だの記念日だの言っていた男にしては、身体の方がだいぶ正直だった。

「……偶然だね、める」

 植え込みから出てきた側が、信じがたいほど堂々と言った。

「無理あるって」

「自販機に用があった」

「じゃあ早く買えよ」

「今はそれどころじゃない」

「じゃあ自販機を言い訳に使うな」

 黒瀬は植え込みの影から一歩だけ出たところで止まった。橘と猫からは微妙に距離を取っている。

 それでも視線だけは、猫の口元に固定されていた。
 正確には、鮭の皮を食べている口元に。
 鮭の皮。橘の指。猫。首元のブレスレット。
 その四つの情報が、黒瀬の中で勝手に接続されていく。

「……なるほど」

 本来繋がってはいけない点と点が、彼の脳内で都合よく一本の線になる。

「めるは、この子を外部胃袋として使っているんだね」

「最悪の単語出たな。猫を周辺機器扱いとかえぐい」

 黒瀬はスマホを取り出し、メモアプリを開いた。
 指の動きだけが異様に速い。

 ──12:45 対象、外部ユニットへエネルギー供給。
 ──12:46 対象、外部ユニットと接触。
 ──12:46 ブレスレット経由、間接リンク確立。

「君が鮭を渡した。猫が食べた。猫には僕のブレスレットがある。たったそれだけで、僕は君の昼食に混ざれる」

「鮭がかわいそうだから混ざるな」

「実質、相席だ」

「相席の定義を法廷で争おうか?」

「これは事実上の間接摂取でもある。カロリーの移動は、愛の移動でもあるんだ」

「栄養学と鮭に謝れ」

 猫は何も知らない顔で鮭の皮を食べている。

 人間の愛情表現も妄想も、猫には関係ない。
 食えるものがあるから食っているだけだ。

 橘は呆れながら、コンビニ袋の中を漁った。

「相変わらずだな、あんた……とりま、本体にも餌やっとくわ。ほら」

 橘は未開封の鮭おにぎりを取り出し、黒瀬に投げた。
 黒瀬は反射的に受け取る。

「……これは」

「この前バズってた人間の方、昼飯食ってないんでしょ、どうせ。顔色も悪いし、祝福とか言ってたくせに普通にダメージ入ってんじゃん」

 黒瀬の指が、包装の上で止まった。

 ほんの少しだけ、目が揺れる。さっきまで猫を外部胃袋呼ばわりしていた男が、急に人間みたいな反応をした。

「……見てたんだ」

「見えるだろ、その顔色。イケメンの無駄遣いにも限度あるわ」

「めるが、僕の異常値に気づいた」

「体調不良を愛のログにすんな。餌。食え」

 心配したつもりはない。

 ただ、顔色の悪い不審者が植え込みから出てきて、鮭と猫を恋愛理論に巻き込んでいる絵面が、普通にみっともなかっただけだ。

 倒れられても面倒くさい。だから餌を投げた。
 橘にとっては猫と同じである。

「めるからの直接供給……」

 黒瀬はおにぎりを両手で持ったまま、しばらく固まっている。

 ただの鮭おにぎりは、黒瀬の中で今まさに宗教的意味を持とうとしていた。

「……ありがとう」

 声が妙に静かだった。

 橘は少しだけ反応に困り、視線を逸らす。

「別に。余っただけだし」

「余った君の一部を、僕が受け取った」

「やっぱ返せ。今のでおにぎりに呪いがかかった」

「返せないよ。これはもう、僕の内側へ向かっている。消化という名の不可逆的な儀式を通して、君由来の物質が僕の体内に入る」

「言い方きっしょ。鮭おにぎりに戻れ」

 黒瀬は包装を丁寧に開け、海苔が崩れないように鮭おにぎりを持ち直した。
 こういう時の所作だけは腹が立つほど綺麗だ。

 中身を知らなければ、ただ育ちのいい学生に見える。
 中身を知っているので、鮭に宗教的意味を見出している不審者である。

 黒瀬は、深刻な顔で鮭おにぎりを一口食べた。

「……同じ鮭。猫と僕が、同じ鮭系列に属した」

「分類するなら猫が上ね」

「分かってる。今日の僕は猫の下位互換から始める。でも、下位互換には伸びしろがあるね」

「前向きな不審者、普通に迷惑」

 黒瀬は鮭おにぎりを食べながら、猫を見た。

 猫はもう鮭の皮を食べ終わって、橘の靴先に体を寄せたまま、前足で顔を洗っている。
 橘も特に追い払わない。邪魔そうにもしない。
 ただ、そこにいることを当たり前みたいに許している。

「……猫って、審査なしで近づけるんだね。僕は毎回止められるのに、その子は顔パスなんだ」

「あんたは顔パスのあとに中身で強制送還されるタイプ」

 橘はそう言って、自販機横の低い縁に腰を下ろした。
 そして黒瀬は、今日いちばん見てはいけないものを見ることになる。