黒瀬によれば、これは純愛らしい。

 
 橘の即答に、黒瀬はほんの少しだけ固まったが、すぐに表情を緩めた。

「でも、否定が早いのは意識しているからだよね。君は僕の発言を反射的に否定できるくらいには、僕の言葉を聞いている」

「燃え広がる前に消火してるだけな」

「否定、今日いち速かったね」

 いつの間にか隣に来ていたつきのが、掲示板のスクショを見ながら言った。

「速く切らないと意味増やされるから」

「でも黒瀬くん、否定されても栄養にしてない?」

「してる」

「食うな」

 橘は鮭弁当の空き容器が入った袋を片手に、掲示板のスクショをもう一度見た。

 泥まみれの男。
 葉っぱの刺さった髪。
 腕の中の猫。
 背景には、どぎついラブホテル街のネオン。

 どう見ても、人生で一度も掲示板に貼られてはいけない種類の写真だった。

「てか、これ普通に黒歴史じゃん。何で自撮りまでしてんの。しかもキメ顔」

「保存だよ。世界が僕たちを認識した日の記録として」

「猫に求婚して晒された日な」

「記録名で揉めてる時点で式典じゃないんだよ」

 つきのが笑いながら言う。

 黒瀬は掲示板を見つめたまま、なぜか満足げだった。

 橘と黒瀬が話し始めてから、周りの学生たちのヒソヒソ声はさらに増えている。それすら黒瀬にとっては、祝福のざわめきに聞こえているのだろう。

「でも、案外、あの瞬間は嫌いじゃない」

「嫌わない要素どこ?」

「君が笑っていたから」

 静かな声で黒瀬は言う。

 掲示板のガラス面には、貼り出された無様なスクショと、その前に立つ今の黒瀬、それから隣で鮭弁当の袋をぶら下げた橘の姿が、薄く重なって映っている。

 ラブホ街で奇行を働いた男を笑い飛ばし、今は大学の掲示板前で普通に会話しているこの状況。
 改めて考えると、わりと意味が分からない。

「ラブホ街で猫にブラックホールポエム語りかける奴なんて、人生で1回見るかどうかのレアキャラだよ。笑わない方が無理」

「でもこれ、構図としては悪くない。君が僕を見つけた場所。僕が君を探した場所。猫が中継した場所。全部ここに写ってる」

「猫を聖地にすな」

「まあ発端は私だけど、あの猫かわいそう」

 つきのはスクショの中の猫を見て、橘の方を向いた。

「ていうか、だから猫に付けるなって言ったじゃん。冗談じゃなかったんかい」

「写メだけ撮って外すつもりだったんだって。猫の機動力なめてたわ」

「結果、ラブホ前で求婚されてるけど」

「猫生もハードモードだね」

 つきのはそこで、ふと周囲の視線に気づいたように顔を上げた。
 掲示板前の人だかりは、明らかにこちらを見ている。

「私、これ以上いたら変な当事者にされそうだから先行くわ。めるちゃんも早めに逃げなね。物理じゃなくて概念的に」

「手遅れっぽいんだよな」

 つきのは「がんば」とだけ言って、笑いながら人混みの方へ消えていった。

 橘が呆れながらスマホを取り出すと、画面には通知がいくつか溜まっていた。

『これ、めるの知り合い?』
『昨日の配信で晒されてたのなんでwww』
『未読無視?』
『飲み行こー。猫男の話聞きたい』
『あの人紹介して。顔だけでいいから』

「じぇに、あんたのおかげで私までバズってんだけど。実質広報担当になってる」

 橘がスマホの画面を見せると、黒瀬の視線がわずかに止まった。

「君との関係が、外側に漏れたんだね」

「漏洩事故な。ま、そのおかげでしばらくは飯代に困らなそうだけど」

 ピコン。
 橘のスマホから鳴る軽くて薄い電子音。

 その音はさっきまで、黒瀬にとっては祝福に近いものだった。
 世界が自分たちを見た音。
 世界が橘めるに気づいた音。

 けれど、通知の向こうにいるのは黒瀬ではない。
 橘の笑い声を、外側から拾いに来る知らない誰かだ。

「あんたの話聞きたいって人から飲みに誘われてるし、奢ってもらえるなら普通にラッキー」

「……僕の話をするために、僕じゃない男と食事をするの?」

「飯代浮くならネタにするっしょ」

「僕は、君の外部接続用コンテンツじゃない」

「急に横文字でキレんな。じゃあ何、使用許諾いるの?」

「いる」

「草」

 黒瀬は一瞬だけ黙った。口元は笑っているが目だけは笑っていない。

「……君に届く音、増えたね。僕が世界に晒されたら、君まで世界に見つかった」

「言い方重っ。つーか、こうなったのもあんたの自業自得だからね?」

 橘はスマホをポケットに突っ込み、改めて掲示板の写真を見る。
 だが黒瀬は、掲示板に貼られたスクショではなく、その横に書き込まれた落書きの方を見ていた。

『顔だけは良いの腹立つな』

「……でも、顔は良いって言われてたね。君もそう思う?」

「は? 全文読め、悪口だよ」

 橘は流し目で一瞬だけ黒瀬の顔を見た。確かに、腹立つくらいには整っている。

「まぁ、顔だけなら……あ、失言。中身は全損してるから総合評価マイナス」

「顔だけなら」

「悪質な切り抜きおつ。都合のいい耳に校正入れろ」

 なぜか嬉しそうな黒瀬の顔はやはり普通に様になっていて、橘はなんとなく腹が立ち、空き容器の入った袋をぐしゃりと握りつぶした。

 その時、また橘のスマホが鳴る。
 軽い通知音が、掲示板前のざわめきの中で不思議とはっきり響く。

「……うるさいな」

「──」

 急に温度の低い声がして、橘はスマホをマナーモードにした。
 怖かったわけではない。ただ、黒瀬の言い方が少しだけ引っかかった。

「こわ。通知くらいで病むなって」

「病んでない。減らせばいいと思っただけ」

「マジで余計なことはすんなよ。あんたの『減らす』って、だいたい私の人権も一緒に減るから」

 黒瀬は答えなかったが、代わりに目を伏せた。

 昨日は猫に愛を語り、今日は通知音に反応している男。方向は違うのに、面倒くささだけは変わらない。
 橘はため息をついて、自販機の裏を指さした。

「とりまあっちに猫いるから、詫び入れてきな。優しいよあの子」

「……猫に謝れば君からの評価が上がる。わかった。謝罪しに行くよ」

「よし、マジで頭下げてたら写メ撮るわ」

 そう言いつつ、笑いながら去っていく橘。

 黒瀬は後を追わず、数秒だけ、掲示板に貼られた自分の写真を見つめる。
 少なくともこの瞬間までは、彼にとってはすべてが祝福だったのだ。

 その後、黒瀬は本当に自販機裏の茶トラの前まで行き、普通にしゃがみ込んだ。
 黒瀬の中では、その猫はもはや橘に繋がる外部端末であり、少しだけ彼女そのものでもあった。

「昨日は、君を通してめるに触れようとした。中継負荷をかけすぎたことは認める。……謝罪する」

 欠伸をする猫を眺めながら、黒瀬はしばらく待った。
 そして、許可を得たつもりで、そっと手を伸ばす。

「では、接触確認を──」

 その瞬間、猫の前足が、黒瀬の指先をぺしっと押さえた。

「……」

 黒瀬の手が、空中で止まる。

「なるほど。拒絶ではなく、一時停止か」

 猫は何も考えていない顔で、もう一度欠伸をした。

「了解。段階管理はめる本体より厳密なんだね」

 その様子を通りすがりの学生が撮っていたことに、黒瀬だけが気づかなかった。

 そのとき、遠ざかっていく橘のスマホが、ポケットの中でまた小さく鳴る。
 ピコン。

 黒瀬は顔を上げ、目だけでその音を追った。
 さっきまで祝福だった音が、ほんの少しだけ別のものに変わる。

「……やっぱり、少しうるさいな」

 誰にも聞こえない声でつぶやく。

 そしてその夜から、橘のスマホは少しだけ騒がしくなった。