猫耳検証の翌日。
橘はつきのと並んで渡り廊下を歩いていたとき、掲示板のガラス面に映る人影に気が付いた。
できれば他人のフリをしたかったが、他人にしては昨日の記憶が強すぎた。
「……出た。予告型の不審者」
無駄に整った顔。場違いな鎖デザインのチョーカー。
そして、用件がなくても用件そのものみたいに立っている男。
黒瀬じぇにだ。
「え、誰? 昨日の猫耳の人?」
「そう。昨日猫耳で犬になったやつ」
「情報量どうなってんの」
つきのは引くでもなく止めるでもなく、ただ面白そうにその場に留まる。
黒瀬はつきのの存在を一切気にせず、橘だけを見ていた。
「……める」
「今度は何」
「昨日は少し、やりすぎた」
彼は神妙な面持ちで、わずかに頭を下げた。
謝罪の形ではあったが、反省というより、失敗した手順を修正しているような様子だ。
「……どしたの。急に」
「だからこれ、受け取って欲しい」
黒瀬は小さな箱を取り出した。
差し出す、というより、橘の手の届く距離で止める。受け取るかどうかを橘に選ばせているように見せる、絶妙な距離だった。
「何これ、爆弾? それとも謝罪の品?」
「爆発はしない」
「謝罪の方は否定しないんだ」
橘が眉をひそめながら、結局箱を受け取った。
開けると、中にはピンクゴールドの細いブレスレットが入っていた。派手すぎず、安っぽくもない。小さな装飾がついていて、手首に巻いても邪魔にならなそうな軽さだ。
「へー、これ? 普通に可愛い。あんたにしてはセンス良いじゃん」
橘は、ブレスレットを指でつまんで光にかざす。夕陽を受けて小さな飾りが少しだけ光った。
黒瀬はほんの少しだけ笑ったような顔をした。
「……似合ってる」
その発言だけ切り取れば、ただの贈り物みたいに聞こえる。相手が黒瀬でさえなければ普通に成立していたはずだ。
だからこそ、橘は一瞬だけ反応に困ってしまった。
「……ふーん。サンキュー。軽いしテキトーに使っとくよ。わりと気に入ったわ」
「そう、良かった」
黒瀬の声は静かだった。
喜んでいるようにも見えるし、確認を終えたようにも見える。
「じゃ、もういい? 次講義あるから」
「ああ」
橘は何事もなかったかのように、軽い足取りで歩き出す。
つきのは興味深そうに、橘の手元を横から覗き込んだ。
「今の何? 普通にプレゼント?」
「さあ。寝たことある不審者からの賄賂」
「言い方」
橘は貰ったブレスレットを指でくるくる回す。
「てかさ、これ猫に付けたら映えそうじゃね?」
「やめなよ普通に」
「あはは、冗談冗談」
その声は廊下の喧騒に紛れ、黒瀬のところまでは届かなかった。
そのまま軽快な笑い声だけを残し、橘たちは廊下の向こうへと消えていく。
黒瀬は追わなかった。
いつもなら少しでも長く橘の視界に残ろうとする男が、その日は一歩も動かなかった。
橘の姿が完全に見えなくなってから、彼はようやくスマホを取り出す。
迷いなく画面をタップした。
地図が起動し、虚空を這う電波が一つの点を捕捉する。
表示名は、『橘める』。
「見つけた」
黒瀬は静かに息を吐いた。平穏な喧騒の中で、彼だけがひどく静かだった。
「……今度は逃がさないから」
◇◇
その日の夜。
黒瀬は『聖域』こと自室でモニターに張り付いていた。
机の端には、使い道を失った猫耳カチューシャが放置されている。今朝までは見ても何も思わなかったが、今は少しだけ邪魔だった。
彼は呼吸を忘れたように、画面を見つめている。
地図上の青い光がありえない動きをしていた。講義棟の裏を抜け、植え込みの周囲を何度も回り、突然、塀沿いを細かく蛇行する。
【警告:対象の移動パターン、人間の挙動と不一致】
「……バグか?」
黒瀬は一瞬だけ眉をひそめた。
──いや、違う。
「そうか。試してるんだろ。僕がどこまで正確に追えるかを」
ありえないはずの確信に満たされ、わずかに口角が歪む。
橘はいつもそうだ。
軽く見せて、雑に扱って、そのくせ完全には切らない。逃げているようで、どこかで見つけられることを許している。
黒瀬の中では、すべてが都合よく繋がっていた。
「作戦名──『座標固定(GPSロック)』」
【目的:橘めるの常時追跡】
【成功率:100%(黒瀬理論)】
その時、ふいに座標が一点に止まった。
やっと捕まえた。
そう思ったのもつかの間、表示された地点を確認した瞬間、黒瀬の思考が凍りついた。
そこは、ピンクと紫のどぎついネオンが明滅する狭い路地の区画。
「……は? なん、で」
ラブホテル街だった。
脳裏に蘇る、強烈な毒。
『今からセフレと合流するんで』
見間違いだと思いたかった。
だが地図上の光は、確かにそこにある。
「──だめだ」
椅子が派手な音を立てて倒れた。黒瀬は立ち上がっていた。
「……ふざけるなよ。僕がいるのに。そんな不潔な場所に行く必要ないだろ」
呼吸が浅くなり、急激に指先が冷える。けれど頭の奥だけは異様に冴えていた。
黒瀬の手が、無意識に自分の首元へ伸びる。
鎖デザインのチョーカー。まだ片方だけの、未完成の対。
黒瀬は机の一番上の引き出しを開けた。
黒い布の敷かれた小箱の中に、鎖デザインのチョーカーが収められている。
──自分の首に巻いているものと同じ形。
橘に着けるためだけに、まだ使われずに残されていたものだった。
「……名前だけじゃ、輪郭が足りない」
これは拘束ではない。黒瀬の中では、彼女を世界の中で見失わないための印だった。
「君が君のまま、どこかへ行けてしまうなら……僕にだけ分かる証明がいる」
やけに丁寧な動作でチョーカーを手に取ると、小箱ごと、斜め掛けの薄いバッグに押し込んだ。
そしてそのまま、黒瀬は弾かれたように部屋を飛び出した。
「待ってて、める。今すぐ行く。今すぐ、連れ戻してあげるから!」
