──それから10分ほど経った頃だろうか。
橘の視界の端で、嫌な予感しかしない動きがあったのは。
橘は反射的に振り向いた。
黒瀬だった。
しかも、頭には百円ショップで買ったような、安っぽい猫耳カチューシャをつけていた。
「……は?」
「……」
「いや黙ればいいって話じゃないから」
真顔だ。表情筋が完全に死んでいる。
黒のパーカーに猫耳という、どう考えても噛み合っていない格好だった。
「検証だよ」
「来んな」
「猫で反応が変わるなら、僕でも再現できるはずだ。発話量と存在感も調整した」
「できてねぇよ。ホラーだよ。あと見た目が一番うるせぇ」
黒瀬がスッと距離を詰める。無駄に速い。
目の前では本物の猫が「なんだこいつ」といった顔で毛繕いをしている。差は明白だった。
「……違うな」
黒瀬は猫耳を触り、真剣な面持ちで顎に手を当てた。
「耳だけじゃ足りない」
「あー……まさか猫の真似しようとしてる? 無理だからやめとけ」
「今は、ね」
「未来も無理だよ。これ以上地獄を増やすな」
橘は呆れと拒絶半々に吐き捨て、しゃがんだまま猫の頭を撫でる。
黒瀬は一瞬だけ考え込み、視線を落とした。
橘に触れている猫に対し、自分は一歩近づいただけで拒絶される。その違いを、ほとんど執念に近い集中で見ていた。
「……そうか。形を真似ても意味がない。必要なのは、『自然にそこにいること』か」
「いや猫だからだよ」
「接近の許可条件が僕にないんじゃない。猫に付与されてるんだ」
「話聞けよ」
橘は咄嗟に立ち上がった。
この狂気に関わっていたら、人間としての正常な部分まで猫耳に食われそうだ。
「待って。なら次は、形じゃなく挙動を寄せる。君の横を猫のように音を消して歩くんだ」
「足音消せても存在がうるせぇから」
橘はいつもよりわずかに早足で歩き出した。
が、背後に気配が着いてくる。足音はほとんどないのに、振り返らなくても誰かわかる気配の強さ。消せていないのは音ではなく存在そのものだ。
ふと視線だけ後ろに流すと、黒瀬が一定距離を保ちながら追尾していた。
しかも、
(まだ付けてんのかよ……)
頭には、安っぽい猫耳カチューシャが健在。
外すタイミングを完全に見失っているのか、そもそも外す発想がないのか。どっちにしろ最悪である。
「……あ、今の、君との同調率は悪くないかも。歩幅のズレは修正できる」
「考察きっしょ」
「猫はね、近づかない。追い越さない。急がない。ただ、隣に存在するんだ。距離を詰めなくてもそこにいられるから」
「ストーキングしながらそれ言ってんの草」
隣と言いつつ、普通に後ろから着いてくる黒瀬。理論と実践が噛み合っていないのが一番怖い。
通りすがりの学生たちが明らかに距離を取り、ヒソヒソと話し始める。
「……あれ黒瀬じゃね?」
「なんで猫耳?」
「橘の後ろついてってる」
「新しいペットだろ」
そんな声が風に乗って流れてくる。
橘は「だる」と言いつつ、彼らに視線も向けず歩き続ける。他人のこういった反応も見慣れたもので、いちいち拾っていたらキリがない。
(鮭、食い足りねぇな。でも夜はさすがに肉か。……てかあいつ、どこまで来る気だよ)
黒瀬はまだ追ってくるが、こちらを捕まえに来るわけでもない。『猫耳をつけたまま真剣に歩幅を合わせてくる男』という謎の構図だ。
橘はじわじわと面白くなってきた。
ふと、橘は思いついたように立ち止まる。
「あ、じゃあさ!」
「うん」
黒瀬の反応が異常に速いところだけは、少し猫っぽい。
「私の彼氏になりたいんなら、犬の真似くらいしてみなよ。今、周りに人いる前で」
ただの軽口だった。
さすがのこいつでも無理だろう、という雑な煽り。
──の、はずだった。
「わん」
即答だった。
しかもそのまま、黒瀬はその場にしゃがみ込んだ。綺麗に迷いなく、完璧な「お座り」の姿勢で。
「……は?」
周囲の視線が一斉に突き刺さる。何人かの学生が足を止めた。
「……え、なにあれ」
「犬?」
「猫耳なのに……?」
嘲笑にも好奇の視線にも、黒瀬は一切躊躇わない。ただ、橘だけを見ている。
「わんわん!」
しかも声がデカくなり、勢いを増してきた。
橘は数秒、完全に黙り込む。
(……止まれよ、普通。恥ずかしくないの?)
止まらない。むしろじっと橘を見て、何かを待っている。
(……なんか、完成度高くね?)
目が合った瞬間、橘は急に笑いが込み上げて、たまらず口元を押さえた。
「……っ、やば」
「……似合ってる?」
「いや全然。客観的にはただの恐怖映像だけど、ネタとしては最高」
顔面だけなら上位の男が猫耳をつけ、犬の真似をするという属性の大渋滞。
猫なのに犬。意味がわからない。
橘はついに耐えられなくなった。
「っはは、あはははは! やば……っ!」
「わん! わん!」
またしても即答。姿勢はそのまま。
黒瀬が迷いのない動きで手を差し出した。
「……え、これお手待ち?」
「この方が、接触の成功率が高い」
「なんでやると思った? 思考そこまで来てんの怖っ」
「わんわん!」
「やめろってマジで……っ! 犬としての圧だけ上げんな!」
橘はもう立っていられなくなり、その場にしゃがみ込んだ。しかし笑いすぎて震えながらも、その手には触れない。
黒瀬の手は、行き場を失ったまま宙に浮いている。
それでも黒瀬は姿勢を崩さない。背筋はまっすぐで、膝の位置も妙に安定している。
「……謎にお座りの完成度高いな。待てもできるのかよ」
「わん!」
「っ、あはははは! 褒めてねぇって……! 無理、やば……っ!」
周囲の学生も完全に巻き込まれていた。
「動画撮っていいやつ?」
「ダメだろ」
「でも本人めっちゃ本気じゃん」
「本気だからダメなんだよ」
誰も止めない。
黒瀬は真剣、橘は笑っている。
その足元では、本物の猫が何事もなかったかのように喉を鳴らした。
触れられているのは猫だけ。黒瀬の手は、空中に差し出されたままだ。
橘はひとしきり笑ったあと、涙目のまま手を振る。
「もーマジ無理、腹痛い……っ、じゃ、そろそろ行くから、ぷっ……くく」
そのまま橘は息が乱れた状態で背を向け、歩き出した。猫は当然のように後ろをついていく。
周囲の学生たちはまだヒソヒソと話しながら、遠巻きに好奇の視線を向けていた。
橘は笑いすぎて痛む腹を押さえながら、猫を引き連れて構内の外れへ向かう。
建物の裏手に回った途端、一気に人の気配が薄くなる。講義棟の喧騒は壁一枚向こうへ押しやられ、代わりに風の音だけが残った。
1台だけぽつんと置かれた自販機の横に、色褪せたベンチが2つ。
橘はベンチに腰を下ろし、ようやく一息ついた。
「……はー、マジ無理。えぐかったわ」
足元では、茶トラが何事もなかったように前足を揃えて座っている。
こっちは可愛い。さっきのは可愛くない。方向性の違いだ。
橘が屈んで頭を撫でると、猫は当然のように喉を鳴らした。
「あんただけだよ、この大学でまともなの」
その時だった。
「……まだ笑ってる?」
「わっ!?」
背後から落ちてきた声に、橘の肩が跳ねる。
反射的に振り向くと、背後に黒瀬が立っていた。さすがにもう猫耳は外していたが、外す判断は遅すぎる。
「ちょ、ビビらせんなよ。何、第2ラウンド?」
「違う。確認したいことがある」
黒瀬はすぐには近づかなかった。
夕陽を背にしたまま一定の距離で止まっていた。
「君は、ああやって誰にでも笑うの?」
「面白ければ誰にでも笑うけど」
「……そう」
黒瀬はそれきり黙った。何かを計算するみたいに、じっと橘を見ている。
「条件が見えた」
「なんの?」
「君が逃げない形」
風が一瞬だけ止む。
橘はそこでようやく、黒瀬の方をちゃんと見た。彼の表情も立ち方も、先ほどとは打って変わって不気味なくらいに落ち着いている。
「絶対ろくでもないやつじゃん」
「そうでもないよ。今のところは、まだ」
黒瀬はわずかに口角を上げる。それは笑顔に見えなくもなかったが、目がまったく笑っていなかった。
「でも、今日の反応は悪くなかった」
「そりゃ笑うだろ。猫耳でわんわん言うイケメンなんて大学にいねぇよ」
「いたよ」
「あんただけな」
黒瀬はそれ以上は何も言わず、ゆっくりと一歩だけ下がった。必要な話は終えたようだった。
「……じゃあ、また」
黒瀬はそのまま踵を返して去っていく。
残された橘は足元の猫を見下ろし、だるそうに息を吐いた。
「なにあれ。予告型の不審者とか新ジャンルすぎんだろ」
とはいえ、何が起こるかまでを考えるのはカロリーの無駄である。
橘は猫の頭を撫でた。
「唯一の癒し枠に感謝だなー」
茶トラは喉を鳴らした。
◇◇
その日の夜。
黒瀬は聖域こと自室でノートを広げていた。
机の端には、使い道を無くした猫耳カチューシャが放置されている。
ページには今日の記録が並んでいた。
──対象、猫への接触距離ゼロ
──対象、自分への接触距離プラス2歩
──猫、同行を許可される
──自分、同行を拒否される
──対象、猫に対し無意識の笑み
──自分に対しては「来んな」
比べるまでもない、明白な結果だった。比較というよりも一方的な事実の列挙に近い。
黒瀬はペン先を止める。
「……猫は、拒絶されない」
理由は単純だ。
猫だから。ただ、それだけ。
その雑すぎる答えを、黒瀬はしばらく受け入れられなかった。
けれど受け入れられないからこそ、そこには条件がある。
(……こっちは猫耳までつけたのに)
不公平だ、と一瞬だけ思ったがすぐに切り捨てた。
必要なのは、猫そのものになることではない。
あの位置に自分の視線を置くことだ。
黒瀬は目を閉じる。
──橘の足元。
──あの距離。
──触れても拒絶されない領域。
「干渉は最小でいい。直接がダメなら、間接で」
必要なのは侵入ではなく、『そこにいること』の拡張。
「……いいよ。君が拒絶しないものなら、僕の代わりに君のそばへ置ける」
ノートを閉じる。乾いた紙の音だけが、静かな部屋に小さく響いた。
「待ってて、める」
黒瀬は、誰に聞かせるでもなく静かに呟く。
「今度はもっと自然に、もっと君が拒絶しない形で──君のすぐそばに行けるから」
