黒瀬によれば、これは純愛らしい。

 
 唐突で、躊躇いのない切り出しだった。橘はコップを置いて首を傾げる。

「昨日のどれ?」

「どれ」

 黒瀬が小さく反復する。その声はさっきよりもほんの少し低くて冷たさがあった。
 学食のざわめきに紛れていたはずの声が、今は妙に輪郭を持って耳に残る。

「全部だよ。僕が君に話したことも、君が出ていったことも、その後のことも」

「あー、あれか」

 橘は雑に頷いた。
 聖域こと黒瀬の自宅で起きた一悶着。覚えているが、特別な出来事として胸の中にしまっておくほどのものでもない。

「なんか重かったやつね。朝から湿度高すぎて逆にウケたわ。利用規約みたいな愛を読み上げてたね」

 黒瀬はすぐには返さなかった。感情の読めない視線からわずかな温度の低さが滲む。
 学生たちの笑い声が響く中で、黒瀬だけが纏う空気は妙に重い。

「君にとって、あれはその程度なんだね」

「1回寝ただけで契約だの一生だの言い出したら、そりゃ重いだろ。こっちは同意してないし」

「したよ」

「してねぇよ。なんで勝手に承認済みにしたんだよ」

「君が覚えてないだけ。君が軽く流した言葉も、笑った顔も、帰る時に振った手も、僕の中には全部残ってるんだ。あれを取り消すことはできないんだよ」

「ワンクリック詐欺じゃん」

「詐欺じゃない。解約窓口がないだけだよ」

 冗談のつもりはないらしい。
 黒瀬は本当に、分類を訂正しただけと言った感じで淡々としていた。

「余計に悪質だわ。あんたさ、ああいうのやるならもうちょい段階踏め。初手から終身契約は飛ばしすぎでしょ」

「段階なら踏んだよ。確認、承認、保存まで全部終わってる」

「全部あんた側じゃん」

「僕の中では、処理が止まる理由がなかった」

「恋愛でワンオペ決裁すんな」

 橘は目も合わせず、だるそうに鮭をつついた。

「てか、朝イチで聞く量じゃないんだよあれ。胃もたれしたわ」

「……君は、僕の一番大事な瞬間を、食後の不調みたいに扱うんだね」

「食前だったから余計きつい」

 黒瀬の視線が、少しだけ冷えた。

「……そうやって、また軽くする」

 不服そうな声に、橘が少しだけ顔を上げた。

「え、何。まだちょいキレてる?」

「……キレてないよ。記録してるだけ」

「あっそ。キレながらログ取ってんじゃん」

 全く信じていない橘の返事。
 それでも、黒瀬はそれ以上は言わなかった。感情を飲み込むみたいに、静かに視線を落としただけだ。

 橘は最後の一口を食べ終え、トレーを持ち上げる。

「じゃ、もう行くけどついて来んなよ」

「考えておく」

「却下しろって言ってんの」

 橘が立ち上がると、黒瀬は追ってこなかった。ただ、橘が離れていくタイミングに合わせてほんの少しだけ首を傾げた。

「……逃げても、意味ないのに」

 そのまま、黒瀬もゆっくり立ち上がる。

「……次の講義、同じだし」

 ◇◇

 講義中の黒瀬は、一見すると普通だった。

 教授の話を聞き、指名されれば間を置かずに正答する。その受け答えだけ見れば、ただ成績のいい静かな学生だ。

 しかし、ノートの中身だけが少し違う。

 日付、時刻、座席位置。
 橘の行動ログが几帳面な文字で整然と並んでいる。

 ──13:02 欠伸(右手で口元を隠す)
 ──13:07 ペン回し3回(成功率66%)
 ──13:11 隣席の男子を無視
 ──評価 : 良い判断

 ──13:14 教授の冗談に無反応
 ──評価 : 不要な愛想なし

 講義内容は一行も書かれていない。
 そのくせ、黒板の要点も教授の発言もしっかり把握して、試験は高得点を取る。

 周囲から見れば、彼もまた『少し静かなだけの学生』に過ぎない。
 ただ一つ違うのは──

 彼の世界の中心が、橘めるただ一人で構成されているということだけ。

 講義中、黒瀬はペンを止めると、ゆっくりと顔を上げた。
 教室の少し前で、橘は退屈そうに頬杖をついている。

 ピンクベージュの髪。目元の雑なラメが光を拾って妙に目立つ。
 顔立ちは平均以上。整っているのに作り込まれていない。
 総合評価──上位個体。

「……今日も、ちゃんと存在してる」

 ──初めて見たあの日と、同じ顔で。

 普通の人間は、黒瀬と関わると途中で視線を逸らすか、笑って誤魔化すか、そのどちらかだった。
 でも橘は違う。
 最後まで聞いて、「きっしょ」で終わる。
 それなのに会話は普通に続くし、次の日も同じ場所にいる。

 1度寝たから始まったわけではない。もっと前から決まっていたことだ。

 黒瀬は小さく頷くと、またノートへ視線を落とした。

 ──13:18 対象、退屈
 ──今日も、目を離す理由がない。

 その一行だけを書き足して、彼は満足そうにペンを置いた。

 ◇◇

 空きコマ。
 学食での鮭攻防戦と3限の講義を終えた橘は、大学構内のベンチで時間を溶かしていた。

 空を見上げれば、雲がやる気なく流れている。あの雲くらい、何も考えずにふわふわと生きていきたい。
 黒瀬という男は思考の粘度が異常に高いのだ。こういう平和な時間くらい、脳を使わず平穏に生きたいと思う。

 そんなふうに考えていると、ふいに足元に何かがすり寄ってきた。

 見下ろすと、茶トラの野良猫がいた。雑に伸ばした短毛で、眠たげな目をした猫。

「あ、またあんたか。かわいー!」

 よくこの大学周辺に出没する猫だ。
 橘はしゃがみ込み、ほとんど無意識の動きで猫の頭を撫でた。猫は喉を鳴らし、橘の足元を陣地と定めた。

「餌がない日でも来んの律儀だね。あんた、将来有望だよ」

 この猫だけは、大学生活における唯一の癒しかもしれない。橘はそんなふうに感心しながら背中を撫でる。


 ──橘と猫の戯れを、少し離れた場所から見ている人間がいた。
 黒瀬だ。

 物陰に半分だけ身を隠しながら、彼は無言で橘と猫の距離を観察する。
 猫は当然のように橘の足元にいる。橘も当然のように撫でている。拒絶も警戒もない。

 昨夜、確かに距離はゼロになった。
 けれど今日の橘は、昨日と何ひとつ変わらない顔で鮭を食べ、黒瀬に「来んな」と言った。

 触れたことがあるのに、日常には入れていない。
 黒瀬にとってその矛盾はひどく不快だった。

「……そっちは、いいんだ。言葉も通じないのに」

 黒瀬の視線が橘の手元に落ちた。指先が雑に、しかし柔らかく猫に触れている。
 猫は何もしなくても、愛を語らなくとも、そこにいるだけで触れてもらえる。

「なんでだろうね」

 触れたいのではない。いや、触れたいに決まっている。
 だがそれ以上に欲しいのは、橘が何も考えずに受け入れる距離だ。


 橘は、猫の額を撫でながらふと視線を上げた。すると、物陰からじっとこちらを見る不審者と目が合った。

「……あんた、何してんの」

「その子がどうして許されてるのか、考えてる」

「何の話?」

「その子は近づいても拒絶されない。触れても逃げられない。君の膝に前足を乗せても許されてる」

「理由は猫だから以外にないだろ。あと、猫は人間みたいに喋らないから可愛い」

「……そうか。わかった」

 黒瀬はメモ帳に何かを書き込んだ。

「発話量、存在感、接近速度……許可条件の抽出」

「猫から何を履修してんだよ」

 黒瀬はそこでメモ帳を閉じた。
 もう必要な情報は揃った、という顔で静かに踵を返した。