聖域が構築された翌日。
橘めるにとって、昨夜の出来事は「ちょっとうるさかった」程度の分類に収まっていた。
一晩寝た男に監禁まがいの愛を叫ばれようと、彼女の生活における優先順位は高くない。今は昼飯を何にするかの方がよほど切実である。
大学に来れば、講義も学食も空きコマも、いつも通り勝手に流れていく。
昼下がりの無響大学は、今日も何事もなく、どこにでもある普通の大学として機能している。
2限目を終えた学生たちが廊下へ流れ、購買のパンを片手にスマホを見る者、レポートの愚痴を垂れ流す者、次の講義をサボる相談をする者が好き勝手に散っていく。
掲示板の前ではサークル勧誘のビラが何枚も重なり、誰かが勝手に書いた落書きの上から、また別の誰かが「単位ください」と書いている。
階段の踊り場には「ここ電波入るから」と謎の理由で居座る集団が。
大学とは、意味の薄い人間と情報がやたら密集している場所だ。
「次の講義だっる。ピ逃げするわ」
「チクるぞ」
「密告文化やめろよ」
そんなくだらない会話が飛び交う中、橘もまた、そのよくいる学生の一人だった。
講義は気分で出るし、課題は締切の直前に思い出す。男子の話は適当に流し、女子とは軽口を叩き、空きコマはだいたいどこかで時間を溶かす。
深く関わらず、深く考えない。それでいて、特に困ることもない。
それが橘の大学生活だ。
橘は同じサークルの友人、つきのと並んで学食へ向かう。サークルでも講義でもなんとなく近くにいることが多い。
「めるちゃんは次出る?」
「とりま講義室前までは行くわ。なんか出席した気分になるし」
「出る気ゼロのやつの言い方なんよ。出席の概念に失礼」
「概念って傷つくことあんの?」
「めるちゃんの出席率見たら泣くと思う」
学食の入口には、今日もそれなりの列ができていた。
食券機の前で悩む学生、その後ろで無言の圧を放つ学生、横で「今日の唐揚げ当たりらしいぞ」と根拠のない噂を流す学生。
誰も彼も好き勝手だが、不思議と流れは成立している。
橘は食券機の前で腕を組んだ。
「鮭か唐揚げか……いやでも唐揚げ重いんだよな」
「後ろ詰まってるよ。めるちゃん早く」
「ちょい待ち、こういうのは真剣勝負だから。午後の私を左右する重大分岐なんだよ」
「人生のスケールちっさ」
結局鮭を選んだ。数分も悩んで、理由は「なんとなく」。人生の重要な決定事項も8割はなんとなくで決まる。
席に着いて箸を割ったとき、向かいに座るつきのがスマホを見て「あ」と声を上げる。
「ごめ、ゼミの連絡来た。ちょい向こう行くわ」
「マジ? 秒でぼっち確定じゃん」
つきのはすぐには答えず、橘の背後を一瞬だけ見た。
「……あー。大丈夫、すぐ埋まる」
「は?」
それだけ言い残して、つきのはあっさり人混みに消えた。
人の縁の軽さに定評のある大学だ。
橘は不服ながらも「まぁいいや」とつぶやき、鮭の皮を剥がそうとしたその時。
つきのが去ってからほとんど間を置かずに、椅子が引かれる音がした。
「……ん?」
──タイミングが、少しだけ良すぎた。
「ここにいたんだ」
顔を上げると、見覚えのある男がいた。
黒瀬じぇにだ。
彼はそのまま橘の目の前に座った。まるで最初からそこに座る予定だったみたいな顔で、自然に。
首元には、場違いな鎖デザインのチョーカー。無駄に整った顔面と、妙に安定した立ち振る舞い。
そして、トレーがない。
学食に来て、飯を持っていない。
昨日、意味不明なポエムを吐いて発狂していた男とは思えないくらい、大学生活への擬態精度だけは高い。
「どした? 昨日の発狂の続き?」
橘が言うと黒瀬はにこっと笑った。爽やか風味の笑顔は、やたら完成度が高くて腹立たしい。
「隣、いいかな」
「対面で言うなよ」
「そうだね」
会話が成立しているかは怪しいが、今に始まったことでもない。
「……今日も来ると思ってたよ、める」
「腹減ってたからね」
黒瀬は一瞬だけ黙った。
橘の返答を、どうにか自分に都合のいい意味へ変換しようとしているらしい。
「で、何の用。私を消しに来たのかな?」
「消す? そんなもったいないことしないよ。君はずっと、僕の視界の中にいればいい」
「言い方こっわ」
黒瀬の視線は橘から外れない。
話しているようで、どこか観測している。
「それ、鮭なんだね」
「見りゃわかるだろ」
「うん。見て分かったことを口に出すのが、日常会話の初手だって読んだ」
「なんか変な恋愛コラムでも読んだ?」
「選択としては妥当だと思う。今日の君の状態なら、脂質はそのくらいでいい」
橘は一瞬だけ箸を止めた。
「どういう基準?」
「今日の活動量と、さっきの歩幅。それと、まだ本調子じゃないことも含めて」
「やたら細かくてきも。健康診断かよ」
「でも今の、会話としては滑り出し悪くなかったよね? 拒絶から日常会話に移行、かなり自然にできたと思うんだけど」
「拒絶から始まってる時点で事故ってんだよ」
橘は鮭をほぐしながら黒瀬の顔を一瞬だけ見た。
(顔だけならイージーモードだったのにな、こいつ)
相変わらず、無駄に整っている。睫毛は長いし、鼻筋は通っているし、寝癖ひとつない。
大学のパンフレットに『理知的な学生代表』として載っていても違和感がない。問題は、彼の頭の中身がパンフレットに掲載できないものであること。
「特に用ないなら別の席に行けば? 飯も食わずに何してんのさ」
「ここが一番、効率がいい」
「なんの?」
「……君との会話。今なら、まだ続きとして話せるから。時間が空くとまた、ただの他人になるだろ」
ほんの少し、間があった。
「さっきから会話成立してないけどな」
「そうだね」
こっちは即答だった。それで会話は終わったはずなのに、黒瀬は納得したような顔で頷く。
2人の間に微妙な雰囲気が流れる中、黒瀬はただ、橘の動きを視線で追っているだけ。
鮭はうまい。
視線はうざい。
おおむねそういう昼休みだ。
橘が鮭の皮を箸でつまむと、黒瀬の視線がわずかに下がった。
「それ、残すなら僕が食べるよ。同じもの食べた方が、少しは共有できるし」
「昼飯の残骸で距離詰めようとすんな」
何を、とは聞かなかった。橘は即座に、いつもなら残すはずの鮭の皮を口にほおりこんだ。
「……食べるんだ。今日はそういう日なんだね」
「あんたに渡すくらいなら食うわ」
単純に、食べかけを渡すのは気持ち悪い。
黒瀬は観察するみたいな、値踏みするみたいな、静かな視線だけを向けて沈黙する。
学食のざわめきが、二人の間だけ少し遠くなった。
橘が「なに」と言うより先に、黒瀬が低く口を開いた。
「──昨日のこと、忘れてないよね」
