居酒屋の入口という場所は本来もっと雑でいい。予約の有無を確認する。人数を聞く。空いた席へ案内する。
それだけで成立するはずの空間に、黒瀬は来店一秒で胃粘膜の話を持ち込んだ。
「死なねぇよ」
橘は即座に否定した。人間、勝手に死因を揚げ物にされると声も出る。
「じぇに、店員さんを困らせんな。ここ病院じゃないから」
「めるは昨日、胃が重いって言ってた」
「唐揚げ食べすぎたかも、とは言ったよ」
「同義だね」
「全然違う。なんで唐揚げを殺人犯にすんの?」
男が横で乾いた笑いを漏らした。
「え、何これ。入店から強いな」
「恐ろしいことにまだ入口なんだよね」
店員は笑顔を貼りつけたまま、完全に処理能力を超えた顔をしていた。
たぶん接客マニュアルのどこを探しても、「お客様が連れの女性の油死を予言した場合」の項目はない。
黒瀬はその沈黙を了承と判断したらしい。真顔で続ける。
「できれば彼女には常温の水をお願いします。冷水は胃への負担が大きいので。あと、席は壁側にしてください。背後に人がいると、外部刺激が増える」
「後ろに人いたくらいで死ぬなら駅前でとっくに絶滅してるっつの」
「通路側に男性が座る配置も避けてください。めるの視線が流れる」
「私を川だと思ってる?」
店員は一瞬だけ天井を見た。
たぶん神に判断を仰いだのだろう。だが居酒屋の神は忙しい。揚げ物と生ビールで手一杯である。
「えっと……三名様でよろしいですか?」
「違います」
橘と男の声が重なった。
「二名と、勝手に発生した加湿器です」
「三名です」
黒瀬が静かに訂正する。
「僕は関係者だよ」
「えっと……何の関係者様でしょうか……?」
「全部」
「それさっきも聞いた。ネタの使い回しおつ。その万能パス没収ね」
結局、店員の判断で、橘と男は奥の二人席へ案内され、黒瀬は通路を挟んだ斜め後ろのカウンター席へ座らされた。
店員は良い判断をした。
橘たちの席から見ると、黒瀬は視界の端に入るか入らないかくらいの位置である。
普通なら他人として処理できる距離だ。普通なら。
黒瀬の場合、視線だけはしっかり届いた。
Wi-Fiより接続が強い。パスワードを教えた覚えはない。
橘は席につくなりメニューを開いた。
「唐揚げ、ポテト、だし巻き。あと焼き鳥適当でよろ」
「決めるの早っ。メニュー開いた意味あった?」
「唐揚げがある店で迷う時間は人生の損失だし」
「名言っぽいのに中身が油」
男はまだ半分笑っていた。
目の前の異常をギリギリ「面白い話」として処理しようとしている。
そこへ店員が水を持ってきた。
「こちら、常温のお水です」
「じぇに」
橘はカウンター席を睨んだ。
黒瀬は静かに頷く。
「胃への負担を考慮した」
「私の飲み会、初手から医療監修入ってんだけど」
橘はタッチパネルに指を伸ばした。
すると斜め後ろから、さっそく黒瀬の声が飛んでくる。
「める。最初はサラダがいい。唐揚げの前に胃に緩衝材を入れて」
「唐揚げは序盤の士気を上げるために必要だから先だわ」
「士気より胃粘膜」
「胃粘膜に恋すんな」
男がまた笑いかけて、黒瀬の視線に気づき、途中で口を閉じた。
順応が早い。この男、成績は知らないが危機察知だけは優秀である。
数分後、まずポテトが来た。
「来た。前哨戦」
橘が早速ポテトに手を伸ばすと、黒瀬の声が飛んでくる。
「熱いよ。そのままじゃ火傷する」
「食べ物って熱いうちに食うと嬉しいんだよ。人類の発見ね」
橘は忠告を無視してそのまま食べた。
「熱っ」
「言ったよ」
「言われた上で食ったんだよ。そこに意味がある」
「火傷している時点で負けてる」
「じゃあこのポテトは引き分け」
男が肩を震わせた。
「ポテトに勝敗発生するの初めて見た」
「じぇにと飯食うと、だいたい食べ物が戦場になる」
「嫌な特殊能力だな」
黒瀬は黙っていた。黙ってはいたが、橘の指先を見ている。
火傷したかどうかを確認しているのか、男と笑ったことを記録しているのか。
おそらく両方だ。
やがて唐揚げが来た。
皿の上に、大ぶりの唐揚げが六つ。
衣は立っていて、湯気が出ている。少し濃いめの匂いがして、横にはレモンが添えられていた。
橘は目を細める。
「来た。倫理」
「唐揚げを倫理の最終防衛ラインにするなよ」
男が軽く言いながら、自然な動作でレモンを手に取る。
そのときだった。
「──待って」
気づいた時には、黒瀬はカウンター席を離れていた。椅子を引く音さえ控えめだったのに、圧だけはやたらとある。
店員が止めるより先に、黒瀬は二人席の横へ立っていた。
恋愛の進展は遅いくせに、唐揚げへの介入だけは異様に速い。
男も橘も動きを止めた。
レモンだけが、唐揚げの上空で不自然に浮いている。
絵面が終わっていた。
「……何?」
男が聞く。
「それは不可逆だよ」
黒瀬は真剣だった。
「一度かけたレモンは、もう取り除けない。酸味も香りも油に馴染む。めるが選ぶ前に全体へ適用するのは、善意による不可逆操作に近い」
「唐揚げの上で憲法を開くな」
橘は額を押さえた。
ただ、言っていること自体は微妙に間違っていない。
黒瀬はこういう時だけ、正論の皮を被った面倒くささを出してくる。
「個別皿に絞るべきだ」
「唐揚げマナー講師、資格どこで取ったの」
「資格はいらない。必要なのは、めるの選択権を本人より先に守る意識だよ」
「守るって言いながら先に盗んでんだよな」
男はそっとレモンを小皿へ置いた。
「じゃあ、各自で……」
「学習早いじゃん。生き残れるよ」
「いや、かけたら裁かれそうで」
「裁かれるよ。黒瀬唐揚げ裁判所に」
橘が雑に言うと、男は困ったように笑った。
「判例ある?」
黒瀬は小さく頷いた。
「今、前例ができた。めるの唐揚げは、今後この基準で守られる」
「国境防衛みたいに言うな」
橘は小皿のレモンを取り、自分の唐揚げに普通に絞った。
黒瀬の動きが一瞬だけ固まる。
「……かけるんだ」
「普通にかける派だよ」
「なら、さっきの彼がかけても」
「違う。私はレモンかける派だけど、人に勝手に全体へかけられるのは別。私がかけるの」
黒瀬は席の横に立ったまま、納得したように頷いた。
「つまり、レモンの実行権はめる本人にある。本人の選択による不可逆なら許容できる」
「唐揚げに許可制を敷くな」
橘は唐揚げを一つ取ろうと手を伸ばす。
しかしその前に、黒瀬が皿を見た。
「右奥」
「は?」
「右奥がいい。衣の立ち方、油切れ、肉汁の保持。全体の中で一番状態がいい」
黒瀬は一つを指さした。
「める、これを食べて」
「じぇにが選んだと思うとなんかやだな。絶対呪いかかってる」
「でも、美味しいよ」
橘は数秒、黒瀬を見た。
面倒くさい。非常に面倒くさい。
なぜこの男は唐揚げを選ぶだけで、恋人の手術に立ち会う医者みたいな顔ができるのか。人類にはまだ分からないことだらけである。
しかし腹は減っていたので、橘は結局、言われた通り右奥の唐揚げを取った。
口に入れた瞬間、衣がざくっと鳴る。
中は熱く、肉汁がじゅわっと出た。塩気と油と、少し濃いめの味付け。レモンの酸味もしっかり噛み合っている。
冷たい飲み物が欲しくなる味だった。常温水では勝てない。黒瀬のせいである。
「……うま」
思わず素で声が出た。
別に黒瀬が揚げたわけでも、店を選んだわけでもない。
ただ皿の中から一個選んだだけだ。
こういうときだけは外さないから余計に厄介だった。そしてそう思った時点で、黒瀬にほんの少しだけ餌をやったような気分になる。
黒瀬の呼吸が一瞬止まった。
「今のは、僕が選んだ」
「唐揚げがうまいだけなんだけど」
「でも、僕が選んだ」
「功績を横領すんな。唐揚げに謝れ」
男も唐揚げを一つ取ったが、今度はレモンを見なかった。生存本能がちゃんと仕事をしている。
「でも普通にうまいな、これ」
「でしょ。唐揚げがある店に外れは少ないんだよ」
「唐揚げへの信頼が厚すぎる」
「人間は裏切るけど、揚げた肉はだいたい正直だからね」
黒瀬が静かに反応した。
「僕は裏切らないよ」
「確かに裏切らなそうだけど唐揚げに張り合うな。土俵が油だぞ」
「めるが信頼しているものなら比較対象になる」
「唐揚げは唐揚げ。あんたはあんた。分類からやり直せ」
黒瀬は真面目な顔で考え込む。
「……僕は、唐揚げにはなれない」
「今の気づきで尺取るな」
黒瀬はそこでようやくカウンター席へ戻った。
判決と選定だけ済ませた出張審査員みたいだった。
男がまた笑った。ただ、さっきよりも笑い方が固い。
面白いものを見に来たはずなのに、いつの間にか自分まで舞台に上げられている。
男はたぶん、そのことに気づきはじめていた。
「猫男の話を肴に飲みに来たのに、肴本人が裁判始めたんだけど」
「当たり回じゃん。食事付きライブだと思えばコスパいいでしょ」
「演目が怖すぎる。ホラージャンルだとは思わなかった」
黒瀬の視線が、男の上に止まった。
人を見る目というより、未登録の項目を確認する目に近い。
「君は、めるとよく食事をするの?」
「いや、今日初めてだけど」
「……そう」
それ以上、黒瀬は聞かなかった。
質問責めにされるより、一つの情報だけを取って黙る方が怖い。
たぶん今、男は黒瀬の中で分類された。
初回。軽い。猫男経由。会計候補。
脅威度は低いが、橘を笑わせた。
男が、気まずさを誤魔化すように水を飲む。
「なんか俺、いない方がよくない?」
「よくない。飯代のためにいて」
「理由ひどいな。奢るとは言ったけど、存在理由がレシート寄りじゃん」
黒瀬は男を見た。人を見る目ではなく、伝票に追加された項目を確認する目だった。
「そうだね。君は会計係だ」
「役職ついた?」
「めるが食べる。君が払う。僕が選ぶ。構造としては悪くない」
「俺、一応は人間として来たつもりだったんだけど」
「役割は人間性を否定しないよ」
「否定されてる側の違和感を信じたい」
続いて、だし巻き、焼き鳥がテーブルに運ばれてきて、ポテトは少しずつ減っていった。
橘は食べ、男は話し、黒瀬は斜め後ろから黙って観測する。
形だけならギリギリ飲み会として成立していた。
だが、黒瀬は完全には黙れない。
「める、その焼き鳥、串から直接行くとタレが落ちる。角度からして前回と同じ位置に落ちる可能性が高い」
「記憶力きっしょ。現物保管してるやつの発言じゃん」
「保管状態は良いよ」
「押収品を文化財みたいにすんな。早く返せ」
短いやり取りだったが、男には十分だったらしい。
彼は酒ではなく水を飲んだ。おそらく今、アルコールより冷静さが必要になっている。
「橘さん、これ毎回相手してるの?」
「相手してない。こいつが勝手に発生して、勝手に話して、勝手に保存してる」
「保存……?」
「じぇにの中では、私の雑な発言が全部記念日になる」
「全部ではないよ。今日は、君が僕の選んだ唐揚げを食べてうまいと言った日」
「増えてんじゃん、最悪」
その時だった。
ピコン。
橘のスマホが鳴り、光った画面を反射的に見る。
『今日どうなった?』
『飲み会まだいる?』
『動画あるなら見せて』
『飲み終わったら合流しよ』
橘にとってはただの通知だった。
飯のタネ。暇つぶし。適当に流せる会話の入口。
だが、黒瀬の目が止まった。
店内は相変わらずうるさい。隣の卓は笑っているし、厨房では油が跳ねているし、店員は注文を読み上げている。
その全部の中から、黒瀬は橘のスマホの音だけを拾っていた。
「……その音、少し嫌いになった」
