黒瀬は、その言葉をなぜか少しだけ満足そうに受け止めた。
しかも彼は、当然のように橘の隣へ並ぶ。距離の取り方だけは妙に自然で、駅前に立つ三人組として見れば違和感はない。
三人横並び。
誰が許可した。
「えっと……これ、三人で行く感じ?」
隣の男が、スマホを片手に持ったまま橘と黒瀬を見比べる。まず出てきたのは、ごく普通の困惑だった。
「違う。勝手に増殖した」
「関係者だよ」
黒瀬が静かに訂正する。
「何の関係者?」
「全部」
「不審者の間違いな」
橘が即座に切ると、男は数秒黙った。
まだ状況は飲み込めていない。けれど、その目だけは次第に別の色に変わっていく。
困惑から、好奇心へ。
目の前の異常が、自分に危害を加えるものではなく、あとで誰かに話せるネタだと判断した顔だった。
「……え、マジで本物じゃん。動画より圧ある。これ友達に言ったら絶対ウケるわ」
その瞬間、黒瀬の視線が男へ向く。
音が一つ消えた気がした。
駅前の雑踏は変わらず鳴っている。電車は来るし、誰かは笑うし、スマホの通知も鳴る。けれど黒瀬の目だけが、そこから男の声を切り抜いた。
さっきまで橘しか見ていなかったくせに、ようやく男の存在を認識したらしい。
ただし、人間としてではない。
たぶん黒瀬の中では今、男は「橘の隣に立つ誰か」ではなく、「猫男ネタで飯を奢る装置」くらいに分類されている。
「君は、めるとどこへ行くの」
「普通に飲みに……」
「普通に」
黒瀬は、その言葉だけをゆっくりと反復した。
駅前の光が彼の横顔に薄くかかる。黙っていれば人目を引く程度には整っている。
黙っていれば。
「普通って、何を基準に言ってるのかな。今日のめるの体調、活動量、睡眠時間、昼食の摂取内容、胃の状態。そのあたりを考慮したうえでの普通?」
「いや、何の話?」
「考慮していないよね」
「決めつけ早っ」
橘はフラペチーノのカップを持ったまま、だるそうに口を挟んだ。
「じぇに、今日も面倒くさいね。帰れば?」
「帰らない。今の君は、僕を餌にして外へ連れていかれようとしている」
黒瀬の視線が、ちらりと男のスマホへ落ちる。
「それは、見過ごせない」
「餌って言い方やめろ。あんたの奇行で飯代浮かせようとしてるだけだから」
黒瀬は、ほんの少しだけ目を細めた。
「僕は、君の飲み会の前座じゃない」
いつになくまともな言い方だった。
怒っても拗ねてもいない。ただ、薄く静かに言い切る。黒瀬はこういう時だけ、腹が立つほど声がいい。
「じゃあ主菜?」
「違う。僕を入口にして、君へ近づかれるのが嫌なんだよ」
「言い方が湿りすぎ。加湿器なら出禁だわ」
「今は軽く言ったつもりだったんだけど」
「それでこの湿度なら災害なんだよ。駅前でカビ育てる気?」
男が横で小さく息を漏らした。
「いや、今のはちょっと分かる。俺、猫男の話聞きに来てる側だし」
「自覚ある俗物は嫌いじゃないよ」
「褒められてる気がしない」
「褒めてない」
黒瀬は男を一瞥した。
それだけで、男の笑いが少し引っ込む。
「費用が理由なら僕が払うよ。めるが飯代を浮かせたいなら、僕だけでいい」
「そういう話じゃないんだよ。奢ればいいと思ってるところがもうダメ」
「じゃあ、何が足りない?」
「軽さ」
「……軽さ」
黒瀬はその単語を、初めて聞く学術用語みたいに反復した。
「そう。じぇには全部重い。言葉も視線も愛も発想も、ついでに空気も重い。胃もたれする」
「僕は唐揚げも頼めるよ。レモンも勝手にはかけない」
「張り合うとこ、そこ?」
「小皿も配る」
「じわじわ居酒屋スキルで攻めてくんの草」
男が横で小さく笑った。
「まぁ、そこまで言われたら一周まわってちょっと偉いわ。普通にできない男も多いし」
黒瀬は男には構わず、橘だけを見て続けた。
「話さないこともできる」
「できてないじゃん」
「必要なら、発話頻度を一分あたり三十六パーセントまで落とす。視線も三秒以内に区切る」
「急に設定画面開くなよ。今ちょっと人間寄りだったのに秒で機械に戻ったわ」
「君のための最適化だよ」
「それが重いんだって」
男が堪えきれずに吹き出した。
黒瀬が男を見る。
「今、笑ったね。めるの言葉で」
「え? 普通に面白くて」
「君の立ち位置じゃない」
「立ち位置って何?」
「めるの言葉に反応して笑う位置」
「怖っ」
男の顔からわずかに余裕が消えた。
目の前の異常が自分にも向いてくると分かった顔だった。
橘は片手を上げる。
「はい終了ー。駅前で治安の悪さに貢献するな。じぇには黙る。そっちは引かない。私は飯を食う。これで全員幸せ」
「僕は幸せじゃない」
「じゃあ我慢して。社会ってそういうものだから」
「社会の方が間違ってる場合は?」
「今その議論始めたらマジで置いてく」
黒瀬は黙った。置いていく、という言葉だけは効くらしい。
もちろん、黙ったところで存在感まで消えるわけではないが。
「で、飲み行くんでしょ。じぇには帰るか、せめて別の方向に歩きなよ」
「別の方向、という概念が難しいね。君が進む方向が、今の僕の目的地だから」
「最悪のナビだな」
黒瀬は当然のように歩き出した。
橘の横ではなく、半歩後ろ。
距離だけなら控えめだが、気配がまるで控えめではない。
男は橘の隣にいるが、さっきより明らかに歩幅が小さくなっている。
軽い男が、黒瀬の重力に巻き込まれ始めていた。
駅前の通りは、夜に向かって少しずつ色を濃くしている。
看板の光が濡れたアスファルトに滲み、通行人の靴音が薄く重なる。コンビニから漏れる揚げ物の匂い、居酒屋の呼び込み、どこかで笑う学生の声。
橘にとってはいつもの夜だった。
軽くて、うるさくて、適当で、明日にはほとんど残らない夜。
だが、黒瀬だけは静かなままだ。
彼は周囲の音を聞いているようで聞いていない。男の声。通知音。呼び込み。笑い声。
橘のスマホが震えるたび、目だけがわずかに動く。
まるで、世界の中から橘に届く音だけを選別しているみたいに。
男が小声で聞く。
「なあ、橘さん。あの人、当たり前みたいについてきてるけど、いいの?」
「よくはないけど、言って止まるなら今ごろ猫に求婚してない」
「説得力えぐ」
橘はちらりと後ろを見た。
黒瀬は聞こえているはずなのに何も言わなかった。
ただ、静かにこちらを見ている。
「じぇに、聞こえてるなら何か言えば?」
「今は発話頻度を下げている。君が軽さを求めたから」
「求めた軽さと違うんだよ。無言の圧は逆効果だわ」
「じゃあ、話す」
「それはもっと重い」
「難しいね」
「今気づいた?」
黒瀬は今度こそ何も言わなかった。
ただ、男が笑いを堪えきれずに短く息を漏らした瞬間だけ、目を伏せる。
橘はそれに気づいたがあえて触れなかった。
黒瀬の感情は、触れた途端に水をやった雑草みたいに増える。
居酒屋は、駅から少し歩いた雑居ビルの二階にあった。
看板は安っぽいが、唐揚げの写真だけは美味そうである。
橘はそれを見て少しだけ気分が上がった。
「唐揚げあるじゃん。はい勝ち」
「まだ入ってもないのに?」
「唐揚げがある店は、最低限の倫理を持ってる」
黒瀬が後ろで小さく反応した。
「倫理」
「あんたは反応すんな。唐揚げ側の倫理だから」
階段を上がると、油と焼き鳥と安いアルコールの匂いが混ざって流れてきた。
ほどよくうるさく、ほどよく暗い。大学生が何かを忘れるにはちょうどいい店だった。
暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませー。ご予約の方ですか?」
店員が聞いた。
男が口を開くより早く、黒瀬が一歩前に出る。
「予約はしていないけど、彼女は油で死にます」
店員の笑顔が、その場で固まった。
橘は天井を仰ぎ見る。
今日も終わったな、という雑な確信が、二度目の更新を迎えた。
