黒瀬によれば、これは純愛らしい。

 
 橘は足元にいた猫を、そのまま抱き上げた。
 猫は一瞬だけ面倒そうな顔をしたが、すぐに諦め、橘の膝の上で丸くなった。

 その瞬間、黒瀬の表情が露骨に固まる。
 視線が猫に固定された。
 猫から、橘の膝と手に視線が移り、そしてもう一度、猫。

 まるで世界の重要な権利関係が、今この瞬間に書き換えられたみたいな顔だった。

「……そこ、僕が一度も到達していない距離だ」

「膝?」

「膝。接触面積、滞在時間、体温共有。全部、僕より上だ」

「猫に完敗してんじゃん。彼氏面する前に猫以下から始めなよ」

「……彼氏面じゃない」

「じゃあ何面? 猫に嫉妬してる通行人面?」

 黒瀬は黙った。
 黙ったが、視線は猫から離れない。

 猫は何も知らない顔で橘の膝に収まり、前足をゆるく畳んでいる。
 完全に勝者の姿勢だった。

「……その位置の体温ログ、あとで取らせて」

「取らせねぇよ。猫にも私にも」

「直接じゃなくていい。推定値でいいんだ。滞在時間と接触面積が分かれば、君がその子に与えている安心の温度はある程度算出できる」

「膝のぬくもりを数式にすんなし。キモすぎて草も生えない」

「僕はただ、君が拒絶しない距離を知りたいだけだよ」

「じゃあまず植え込みから出てくるのやめたら? 猫ですら正面から来るよ」

 黒瀬は少しだけ沈黙した。本人としては真剣に考えているらしい。

「……次から検討する」

「検討じゃなくて反省すべき」

 橘は猫の背中を撫でた。
 猫は喉を鳴らす。

 その音に、黒瀬の目がさらに少しだけ暗くなった。

「喉、鳴ってるね」

「それな、かわいいよね。あんたも鳴いてみる?」

「僕が同じ音を出したら、君は撫でるの?」

「通報する。あと録画する。タイトルは『猫に負けた男、ついに喉を鳴らす』」

 黒瀬は本当に、自分の喉元に指を当てかけたので、橘は即座に止めた。

「おい、絶対やんなよ。犬の件で学べ」

「低周波なら、近づけるかもしれない」

「学習能力が猫以下。今日くらいは普通におにぎり食っとけ、マジで」

 黒瀬は少しだけ目を伏せた。
 その仕草だけは妙に綺麗だった。

 橘はそれを見て、ほんの少しだけ笑う。

「まあでも、猫に負けてる自覚あるだけマシかもね」

「負けてない。比較中だ」

「はいはい。じゃあ比較対象に挨拶しときな。この前、猫にめちゃくちゃ迷惑かけてたし」

「……挨拶すれば、少しは許可されるかな」

「猫が許すかは知らんけど、私の評価は一ミリくらい上がるかも」

 黒瀬はそこで、ようやく猫から橘へ視線を戻した。

「一ミリ」

「今のあんたには充分でしょ。猫以下なんだから贅沢言うな」

 黒瀬は、妙に真剣な顔で頷いた。

「分かった」

 黒瀬はゆっくりしゃがみ込んだ。橘の正面ではなく、少し斜め前に。
 膝に手を伸ばせば届きそうで、けれど橘本人には触れない距離。
 猫と目線を合わせるようにして、黒瀬はそこで慎重に止まった。

 彼の中では、おそらくこれは謝罪ではない。
 交渉でもない。

 橘が拒絶しない距離を、猫という先行事例から学ぶための儀式である。

「君は、審査を通過した先行事例だ」

 黒瀬はやけに真面目だった。

「あの日の僕は、君をただの中継点として見ていた。でも、それは間違いだった。君は観測対象じゃなくて、到達例だ。僕より先に、めるのそばに自然に存在している」

「猫に弟子入りしてんじゃん。授業料、鮭皮?」

「必要なら用意する」

「重たっ。猫の昼休み潰すな」

 黒瀬は真剣な顔で、猫に向かってわずかに頭を下げた。

 猫は何も考えていない顔で、もう一度欠伸をした。

「では、先行事例への接触確認を──」

 黒瀬の指先が、猫へ近づく。

 その瞬間。
 猫は怒るでもなく、威嚇するでもなく、橘の膝からするりと降りた。

 そして黒瀬の手が届かない位置まで移動し、自販機の陰で何事もなかったように丸くなる。

「……」

 黒瀬の指先だけが、空中に残った。

 橘は数秒耐えた。
 しかし普通に無理だった。

「っ、ふ……あはは! 一番静かに拒否られてんじゃん。猫、人間より賢い」

「拒絶ではない。これは接触可能範囲の再定義だね」

「拒絶だよ。猫に避難訓練させんな」

 黒瀬は、猫ではなく橘の膝を見た。

 ついさっきまで猫が丸くなっていた場所が、今は空いている。その事実だけが、黒瀬の中で必要以上に光を帯びた。

「……空いたね」

「言うと思った」

「この場合、予約枠が解放されたと考えるのが自然だと思う」

「猫のキャンセルが出たからって、飛び込み客入れないから」

「キャンセル待ちは?」

「受付終了でーす。次回も未定」

「……待てばいい?」

「真に受けんな。そういうとこだぞ」

 その一連のやり取りを、通路側からつきのが見ていた。
 彼女は購買のパンを片手に、足を止めたまま動けない。

 猫、橘、黒瀬、鮭おにぎり。
 昼休みの大学に並んでいい要素ではなかった。

「……めるちゃん達、何してんの?」

「膝のキャンセル待ち」

「最悪の説明ありがとう。今どこから通報すればいいか迷ってる」

 つきのは猫と黒瀬を交互に見た。

 引いてはいるが、逃げるほどでもない。
 無響大学で生きていると、こういう異常な光景にも、ほんの少しだけ足を止める余裕が生まれてしまう。

「黒瀬くん、猫にも距離置かれてるの?」

「距離ではない。段階管理してるだけ」

「便利な言葉だね」

「便利だから使ってる」

「ついに開き直ったね」

 橘は自販機の陰で丸くなる猫に向かって、軽く手を振った。

「はい、猫さん休憩入りましたー。本日の勤務終了のお知らせ」

「次の接触可能時間は?」

「ブラック企業みたいな聞き方すんな」

 黒瀬は少しだけ考え、それから鮭おにぎりの残りを見た。
 包装の角を丁寧に折りたたむ。その手つきはやはり綺麗だった。食べ終わった包装紙すら丁寧に扱うのは、後で保管するからだろうか。

「でも今日は、進展があった」

「猫に静かに避けられて?」

「めるから直接、食物を受け取った。これは大きいよ」

「さっきの餌がどうかした?」

「今までの僕は、君を外側から観測するだけだった。でも今日は違う。君の手から渡されたものが、僕の内側に入ったんだ」

「おにぎり一個で人生進みすぎてウケる」

「しかも鮭だ。猫と同系列」

「猫をライバル視したり仲間扱いしたり忙しいな」

 橘は立ち上がる。
 スマホを確認し、通知をいくつか流し見した。

 その小さな電子音に、黒瀬の視線がわずかに反応する。
 猫ポエムがバズり、世界が橘へ群がったあの日から、黒瀬にとって通知音は少しだけ嫌なものになっていた。

 だが、今日の橘は黒瀬に構わない。そこまで拾うと面倒だからだ。

「じゃ、私行くわ。猫に変なポエム聞かせんなよ。あとそのブレスレット、後で外すから。猫の首にじぇにの感情背負わせるのかわいそうだし」

「……外すの?」

 黒瀬の顔が、少しだけ沈む。

 さっきまで系列だの外部胃袋だの言っていた男が、急に捨てられかけた犬みたいな顔をする。

 黒瀬にとって、そのブレスレットはもう単なる追跡装置ではない。橘と猫と自分を無理やり繋ぐ小さなハブだった。
 だからこそ、外されるという言葉に少しだけ落ち込む。

 橘はそれを見て、面倒くさそうに息を吐いた。

「代わりに鈴でもつけとけば? 普通の、ちゃんと軽いやつ。猫が嫌がんなければね」

「……めるの許可。僕が選んでいいの?」

「猫が嫌がんなければ、な」

 黒瀬は少しだけ嬉しそうに頷いた。
 猫の首輪ひとつでここまで人生に光を見いだせる男も珍しい。

 つきのが小声で言う。

「めるちゃん、今ちょっと優しかったね」

「うるさ。猫に対してだけな」

「黒瀬くんにも効いてるけど」

「副作用じゃん」

 橘はつきのと並んで歩き出した。

 黒瀬を置いていくこと自体は、この数日と変わらない。
 ただ、今日は置いていった先でまた何か始めるのだろうと、橘は少しだけ思った。

 背後では、黒瀬が自販機裏の猫に向かって真剣な声で話しかけている。

「君の好みを把握したい。鈴の音量、重さ、色、素材。全部、君の拒絶反応を見ながら調整する。めるが許可したからといって、君の自由意志を無視するつもりはないよ」

「にゃあ」

「今のは承認?」

「絶対違ぇよ」

「では保留だね。次回までに三案用意しておく」

「猫にプレゼンすんな!」

 橘は振り向かずに笑った。

 その笑いは、黒瀬を受け入れた笑いではない。
 かといって、完全に切り捨てた笑いでもなかった。

 どうしようもなく面倒で、近寄られると厄介で、しかし見かけたら反応してしまう。
 黒瀬は橘の日常の中で、そういう非常に迷惑な位置を取り始めていた。

 本人に言えば、愛だの運命だのに変換されるので、絶対に言わないが。

 その日の夕方。
 無響大学・非公式掲示板には、新しいスレが立った。

 ────────
【現地】猫男、猫に首輪プレゼン開始【自販機裏】
 ────────

 1:名無しの無響生
 猫男、猫に「鈴の音量は君の拒絶反応を見て調整する」とか言ってる

 2:名無しの無響生
 猫相手に商談すな

 3:名無しの無響生
 猫「にゃあ」
 猫男「承認ではなく保留だね。次回までに三案用意しておく」

 4:名無しの無響生
 猫にプレゼンしてて大草原

 5:名無しの無響生
 今日、橘めるが猫と猫男に鮭分配してたらしい

 6:名無しの無響生
 餌付けやめろ
 増えるぞ

 7:名無しの無響生
 もう増えてるだろ
 自販機裏に棲みついてる

 8:名無しの無響生
 今日の名言
「カロリーの移動は、愛の移動」

 9:名無しの無響生
 栄養学「やめて」

 10:名無しの無響生
 猫→保護
 鮭→供養
 猫男→学生課
 橘める→餌やり禁止

 11:名無しの無響生
 昨日、猫が女子寮裏にいた時、猫男もセットで警備員に追われててクソワロタ

 12:名無しの無響生
 猫にGPSつけた結果、自分が不審者として検出されるの草
 ────────

 黒瀬本人だけは、それをまた新しい祝福だと受け取った。

 この日から、橘にとって黒瀬じぇには「聖域を出たら頭から消える男」ではなくなった。見かけたら笑えるし、放っておくと植え込みから出てくる男になった。
 人としてはだいぶ終わっているが、コンテンツとしてはわりと強い。

 猫は何も背負っていない。
 ただ、鮭と昼寝が好きなだけである。