黒瀬によれば、これは純愛らしい。

 
 その部屋の空気は、例えるなら煮詰まりすぎたジャムだった。

 ローズとサンダルウッドの香りに、夜通し『遊んだ』後の気配が混ざっている。甘く、重く、肺の奥に貼りつく。

 薄暗い室内を見渡せば、そこはもう立派な『(たちばな)める聖域(サンクチュアリ)』だ。

 壁一面を埋め尽くす橘めるの写真。
 過去に彼女が紛失したはずのヘアゴム。
 着用済みの衣類。

 まるで美術館の展示品のようだが、ジャンルは現代アートというより押収品に近く、本人の許可など当然出ていない。

 窓は遮光カーテンで厳重に封印され、外界を拒絶。
 その中心で、黒瀬(くろせ)じぇには、獲物を狙う獣のような鋭い目つきで橘を睨んでいた。

 橘が玄関でサンダルを引っ掛けたその瞬間、背後から湿り気を帯びた声が突き刺さる。

「……める。どこに行こうとしてるの?」

 振り返らなくても分かる。無駄に整った顔面。無駄に様になる立ち姿。中身さえ伴っていれば、普通にモテる側の人間だ。

「黙って靴を履くなんて、らしくない。まさか、僕以外の誰かに会いに行くわけじゃないよね?」

 さっきまで爆睡していた黒瀬が驚異の索敵能力で橘の移動を察知し、いつの間にか背後に立っている。
 睡眠時間は3時間未満。執着だけで動いている。

「外は危ないよ」

 黒瀬は詰め寄ると、橘の腕をがしっと掴んだ。
 指先が震えているくせに妙に力が強く、振りほどくには少し面倒な圧がある。

「君の純粋さを汚そうとする不届き者が溢れてる。君を守れるのは僕だけだし、君のすべてを理解しているのも僕だけなんだ。だから、君の予定も、通知も、視界も、僕がちゃんと整えてあげる」

 黒瀬の声は甘かった。甘すぎて、もはや砂糖ではなく接着剤に近い。

「ねぇ……『約束』、したよね?」

 彼がドヤ顔で提示する約束とは、平たく言えば自由権の完全剥奪である。

 ・スマホの通知は全検閲
 ・訪問時間は1秒の遅延も許さない
 ・視界には常に『黒瀬じぇに』を映し出すこと
 ・異性との会話は最小限、かつ笑顔を見せるのは厳禁

 橘としては「へー、左様で」と聞き流した程度の世間話だったが、彼の中では血で署名済みの契約らしい。一体、いつ締結したのやら。

「大丈夫、怖がらなくていいよ。僕の言うことさえ聞いていれば、君は世界で一番幸せな女の子になれる。僕は君が僕を嫌いになっても、君を愛し続ける。ずっと、ずっと離さない。死ぬまで、ね」

 橘の体が微かに震えた。
 恐怖ではない。

(話長え……朝からテンションえぐすぎだろ、こいつ)

 あまりにも重すぎる愛のポエムと、彼の首に巻かれた鎖デザインのペアルック(予定)チョーカーの痛々しさに、腹筋が限界を迎えているだけだ。

 黒瀬は橘の震えを可憐な怯えと解釈し、悦に浸りながら彼女の頬を撫でる。解釈精度が致命的に低い。

「君の今日の予定、僕はちゃんと把握してるよ。13時、カフェ。15時、講義。18時、帰宅。完璧だ。──だから、その例外行動の説明、してくれるよね?」

 橘は「あー」とダルそうに声を漏らした。
 既にお腹が空いているし、昼は鮭にするか唐揚げにするかまだ決めきれていない。

「無理っすね。今からセフレと合流するんで。じゃ」

「…………は?」

 黒瀬の顔から一瞬で血の気が引いた。

「……今、なんて言った? 『セフレ』? ……いや待って、定義の問題だね。君と僕の関係は排他的だからその概念は成立しないはずで──」

 黒瀬は、そこで一度だけ口を閉じた。
 何かを計算している顔だ。いや、計算しようとして、全部の数式が同じ場所で燃えているような顔。

「……誰?」

 一瞬だけ理性が戻り、しかし即座に焼き切れる。

「誰だよ、そいつ。名前は? 連絡先は? 住所は? 今すぐ全部吐けよ。二度と君に触れることなんてできないように、僕が消しとくからさぁ!」

「すげぇキレてて草。鼓膜に慰謝料払えよ。まぁ、また気が向いたら来てやるからそこで待ってな」

 絶望に震える黒瀬の隙を突き、橘は玄関のドアノブに手をかけた。

「1回寝た程度で彼氏面すんなよ。童貞捨てただけの童貞が」

 彼から伸ばされた執着の手を闘牛士のごとく回避し、彼女は外の光の中へと踊り出る。

「待ってな、だって? 僕を置いて、他の男に抱かれに行くのを、ここで指をくわえて待ってろって言うの?  ……ふざけるなよ!」

 玄関先から響く、近所迷惑も甚だしいヒステリックな叫び。

「そんなに外に行きたいなら、足首に鎖でも繋いでおけばよかったかな。……止まれよ、める。外出許可、まだ出してない」

 橘はそんなことなど一切気にせず、振り返りもせずにひらひらと手を振った。

「元気だねぇ。賢者タイム、どこに置いてきた? とりま、散歩でもして頭冷やしなー。おつ!」

 ケラケラと響く軽快な笑い声と共に、彼女の背中は遠ざかっていく。

 ドアの閉まる音がやけに軽い。
 その軽薄な余韻を残した部屋で、黒瀬は立ち尽くしていた。

「問題、ない」

 息の継ぎ方だけが、急にわからなくなった。

「……問題じゃ、ない」

 ──遅れて、壊れた。
 黒瀬は糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちる。

 セフレ。
 たった三文字の毒が脳内で反響し、鋭利なガラス片となって心臓を細切れにする。彼の世界は静かに、かつ致命的に粉砕された。

 黒瀬はそのまま、動かない。
 遮光カーテンの隙間からわずかな光だけが差し込む。

「……はは」

 乾いた笑いがこぼれた。
 彼女のあまりにも残酷な、人間としての完全なる拒絶。

(……いや。違う)

 指先が、ゆっくりと動く。

(まだだ。ここで終わったら……僕は、ただの『捨てられた男』になる。そんな、無様な現実を認めるくらいなら……)

 彼は顔を上げた。
 それは、許容できない結論だった。

「……そんなわけないだろ。あは、ははははっ!」

 不意に肩が震え出し、狂ったように笑いがこぼれる。絶望を燃料にして、黒瀬の歪んだ防衛本能が凄まじい勢いで火を吹いた。

「君、わかってないな。あれは単なる肉体の交わりなんかじゃない。魂を溶かし、僕たちが一つの個体になるための不可逆的な『儀式』だったんだ!」

 その瞬間、事実は事実であることをやめた。彼にとって都合のいい神話へと書き換えられたのだ。

 すると黒瀬は、さっきまで取り乱していたのが嘘のように立ち上がった。
 泣き声も、怒鳴り声も、もうない。ただ、結論だけが残っていた。

 黒瀬は机に向かい、ノートPCを開く。

「……いいよ。そういう追いかけっこ、嫌いじゃない。逃げるなら、もっと分かりやすくしてよ。僕が見逃すはずないだろ?」

 その声は祈りではなく、完成された呪いだった。

 黒瀬は迷いのない手つきでキーボードを叩き始めた。
 橘の行動範囲を再定義し、新たな『聖域』を広げるために。

 ふいに指が止まった。
 彼はゆっくりと、壁一面の写真へ視線を向ける。

「……最初から、やることは変わってない」

 その言葉で、崩れた世界に名前がついた。

「作戦名──『聖域構築(サンクチュアリ)』」

【目的:橘めるの完全保存】
【進捗:100%(黒瀬理論)】



 その頃、当の橘はそんなことも知らず、今日の昼飯を何にするかぼんやり考えていた。

「鮭定食か、唐揚げ定食か……腹減ったなぁ」

 先程まで寝ていた男のことなど、聖域を出た時点で頭から消えていた。