転校生の噂は、金曜の放課後にはもう広まっていた。
「来週から二年三組に転校生が来るらしい」という情報は、誰が最初に言い出したのかも分からないまま教室を一周して、月曜の朝には全員が知っている状態になっていた。
高校二年生の六月に転校生。
それだけで、教室の空気は少し浮いていた。
悠真が教室に入ると、すでに何人かがざわついていた。
「女子らしいよ」
「どこから来たの?」
「東京って聞いた」
窓際のグループが話し合っている。恒一はすでに輪の中にいて、聞き役に回りながら相槌を打っていた。
悠真は自分の席に鞄を置いた。
紗奈はまだ来ていない。
珍しい、と思いながらスマホを確認した。通知はなかった。
席についてノートを開いていると、五分後に紗奈が入ってきた。息が少し乱れている。走ってきたのかもしれない。
「遅かった」と悠真が言うと、
「ちょっと用事があって」と紗奈は短く返した。
それ以上は聞かなかった。紗奈が話したくない時に聞くのは、昔から野暮だと決めていたから。
紗奈は席につくなり、教室の空気に気づいたようだった。
「……転校生の話?」
「らしい」
「東京から来るって本当?」
「俺も今聞いた」
紗奈はふうん、と言って教科書を出した。それ以上、特に反応しなかった。
悠真も同じだった。
転校生が来ようが来まいが、自分たちの日常は変わらない。そういう感覚が、なんとなく二人の間には共有されていた。
少なくとも──その朝は、そう思っていた。
転校生が教室に入ってきたのは、一時間目が始まる直前だった。
担任の城島先生が戸口に立って、「入っていいよ」と言った。
橘玲奈は、静かに入ってきた。
派手ではなかった。かといって地味でもなかった。
セーラー服の第二ボタンまでを几帳面に留めて、髪は耳の下あたりで一つに結んでいた。背が高い。歩き方に無駄がない。
教室がすっと静かになった。
玲奈は黒板の前に立って、チョークで自分の名前を書いた。
橘 玲奈
字が綺麗だった。
「橘玲奈です。よろしくお願いします」
声は落ち着いていた。緊張しているのか、していないのか、表情からは読めなかった。
誰かが「どこから来たの?」と聞いた。
「東京です」と玲奈は答えた。
「なんで転校したの?」
「親の仕事の都合で」
簡潔だった。でも嫌な感じがしない答え方だった。
城島先生が席を指定した。
悠真の斜め前、一列分空いた窓際の席。
玲奈は迷わずそこに歩いていき、静かに座った。
悠真は、その横顔を一瞬だけ見た。
見た、それだけだった。
昼休み。
いつも通り、悠真と紗奈は屋上への階段の踊り場に弁当を広げていた。
正確には屋上ではなく、屋上に続く階段の最上段。鍵のかかった扉の前の、三畳ほどのスペース。誰も来ないが、外の光だけは入ってくる。二年生になってから自然と二人の定位置になった場所だった。
「転校生、感じよかったね」と紗奈が言った。
「そう?」
「うん。あの挨拶の仕方、緊張してたと思うけどちゃんとしてた」
「よく見てるな」
「同じ女子だから気になる」
悠真は弁当の卵焼きを箸で半分に割りながら言った。
「恒一がもう話しかけてたよ」
「知ってる。見てた」
「あいつ、早いよな」
「悪い意味じゃないと思うけど」と紗奈は少し笑った。「恒一くんって、ああいう時の空気の作り方うまいよね。転校生が孤立しないようにって気を使ってるんだと思う」
「そうかな」
「そうだよ。根はちゃんとしてる人だから」
悠真は何も言わなかった。
恒一のことを紗奈がそういうふうに評するのを聞くたびに、悠真は少しだけ複雑な気持ちになる。
なぜかは、分からない。
いや、なんとなくは分かる。でも考えたくないから、分からないことにしている。
そういうことが、最近少し増えてきた。
「お弁当、今日は何?」と話を変えた。
「鮭と卵焼きと、あとほうれん草」
「地味だな」
「地味じゃない、バランスがいいの」
「見た目が地味」
「悠真のお弁当と大差ないじゃない」
悠真は自分の弁当箱を見た。卵焼き、ウインナー、ごはん。
「確かに」
紗奈が笑った。今度はちゃんと声が出る笑い方で。
その笑い方を、悠真は好きだと思った。
また、好き、という言葉が出てきた。
(だから考えるな)
心の中だけで、自分に言い聞かせた。
午後の授業が終わった後、悠真が廊下に出ると、玲奈が一人で昇降口の方向へ歩いていた。
周囲に誰もいない。
朝はあれだけざわついていたのに、放課後になれば転校生への興味も一日でそれなりに落ち着く。それが高校という場所だった。
悠真は特に何も考えず、声をかけた。
「橘さん、帰り?」
玲奈は振り返った。
一拍、間があった。
「そうです」
「部活とか、もう決めた?」
「まだです。見学してみようかとは思ってるけど」
「何か興味ある?」
「……特には」
短い返答だったが、拒絶している感じではなかった。ただ、慎重な感じがした。新しい場所で、誰にどう接するかをまだ測っている。そういう慎重さだった。
「俺は写真部なんだけど」と悠真は言った。
「活動ゆるいから、のんびりしたいなら悪くないと思う」
「写真、ですか」
「下手だけど好きで」
玲奈は少し表情を変えた。変えた、というより──わずかに柔らかくなった。
「朝比奈くん、でしたっけ」
「悠真でいい」
「……じゃあ、悠真くん」
玲奈は窓の外を一度見て、また悠真の方を向いた。
「写真部、見学してもいいですか」
「もちろん。明日、放課後」
「分かりました」
そう言って、玲奈は歩き出した。
悠真も昇降口へ向かいながら、特に何かを考えていたわけではなかった。
転校生が一人でいたから、話しかけた。それだけのことだった。
昇降口で、紗奈が待っていた。
いつも通り、靴を履き替えながらスマホを見ている。悠真が近づくと顔を上げた。
「遅い」
「ちょっと話してた」
「誰と?」
「転校生」
紗奈の手が一瞬止まった。
ほんの少しの間だった。スマホをしまいながら、「ふうん」と言った。
「どんな人だった?」
「落ち着いてる感じ。東京から来たのに、全然浮ついてない」
「そっか」
それだけだった。
二人は並んで歩き出した。六月の夕方。西の空がオレンジに染まり始めている。
「写真部の見学、明日来るかもしれない」
「橘さんが?」
「そう」
「へえ」
紗奈の声は、いつも通りだった。
表情も、いつも通りだった。
ただ悠真は、なんとなく気になった。
紗奈の「ふうん」が、いつもより少しだけ短かった気がして。
でもそれは、気のせいかもしれなかった。
気のせいだと思うことにした。
帰り道は、いつも通りだった。
他愛ない話をして、コンビニに寄って、分かれ道で「じゃあ明日」と言って別れた。
悠真は家に帰りながら、今日のことをぼんやり振り返った。
転校生が来た。話しかけた。明日、見学に来るかもしれない。
それだけのことだった。
それだけのことのはずなのに──分かれた後、紗奈のことをずっと考えていた。
紗奈の「ふうん」が、頭の中で何度も繰り返された。
(気のせいだ)
玄関のドアを開けながら、悠真はもう一度、自分に言い聞かせた。
ただ──気のせいだと言い聞かせなければならない時点で、それはもう気のせいではないのかもしれない、とも思った。
考えるのをやめた。
今日も、それでいい。
「来週から二年三組に転校生が来るらしい」という情報は、誰が最初に言い出したのかも分からないまま教室を一周して、月曜の朝には全員が知っている状態になっていた。
高校二年生の六月に転校生。
それだけで、教室の空気は少し浮いていた。
悠真が教室に入ると、すでに何人かがざわついていた。
「女子らしいよ」
「どこから来たの?」
「東京って聞いた」
窓際のグループが話し合っている。恒一はすでに輪の中にいて、聞き役に回りながら相槌を打っていた。
悠真は自分の席に鞄を置いた。
紗奈はまだ来ていない。
珍しい、と思いながらスマホを確認した。通知はなかった。
席についてノートを開いていると、五分後に紗奈が入ってきた。息が少し乱れている。走ってきたのかもしれない。
「遅かった」と悠真が言うと、
「ちょっと用事があって」と紗奈は短く返した。
それ以上は聞かなかった。紗奈が話したくない時に聞くのは、昔から野暮だと決めていたから。
紗奈は席につくなり、教室の空気に気づいたようだった。
「……転校生の話?」
「らしい」
「東京から来るって本当?」
「俺も今聞いた」
紗奈はふうん、と言って教科書を出した。それ以上、特に反応しなかった。
悠真も同じだった。
転校生が来ようが来まいが、自分たちの日常は変わらない。そういう感覚が、なんとなく二人の間には共有されていた。
少なくとも──その朝は、そう思っていた。
転校生が教室に入ってきたのは、一時間目が始まる直前だった。
担任の城島先生が戸口に立って、「入っていいよ」と言った。
橘玲奈は、静かに入ってきた。
派手ではなかった。かといって地味でもなかった。
セーラー服の第二ボタンまでを几帳面に留めて、髪は耳の下あたりで一つに結んでいた。背が高い。歩き方に無駄がない。
教室がすっと静かになった。
玲奈は黒板の前に立って、チョークで自分の名前を書いた。
橘 玲奈
字が綺麗だった。
「橘玲奈です。よろしくお願いします」
声は落ち着いていた。緊張しているのか、していないのか、表情からは読めなかった。
誰かが「どこから来たの?」と聞いた。
「東京です」と玲奈は答えた。
「なんで転校したの?」
「親の仕事の都合で」
簡潔だった。でも嫌な感じがしない答え方だった。
城島先生が席を指定した。
悠真の斜め前、一列分空いた窓際の席。
玲奈は迷わずそこに歩いていき、静かに座った。
悠真は、その横顔を一瞬だけ見た。
見た、それだけだった。
昼休み。
いつも通り、悠真と紗奈は屋上への階段の踊り場に弁当を広げていた。
正確には屋上ではなく、屋上に続く階段の最上段。鍵のかかった扉の前の、三畳ほどのスペース。誰も来ないが、外の光だけは入ってくる。二年生になってから自然と二人の定位置になった場所だった。
「転校生、感じよかったね」と紗奈が言った。
「そう?」
「うん。あの挨拶の仕方、緊張してたと思うけどちゃんとしてた」
「よく見てるな」
「同じ女子だから気になる」
悠真は弁当の卵焼きを箸で半分に割りながら言った。
「恒一がもう話しかけてたよ」
「知ってる。見てた」
「あいつ、早いよな」
「悪い意味じゃないと思うけど」と紗奈は少し笑った。「恒一くんって、ああいう時の空気の作り方うまいよね。転校生が孤立しないようにって気を使ってるんだと思う」
「そうかな」
「そうだよ。根はちゃんとしてる人だから」
悠真は何も言わなかった。
恒一のことを紗奈がそういうふうに評するのを聞くたびに、悠真は少しだけ複雑な気持ちになる。
なぜかは、分からない。
いや、なんとなくは分かる。でも考えたくないから、分からないことにしている。
そういうことが、最近少し増えてきた。
「お弁当、今日は何?」と話を変えた。
「鮭と卵焼きと、あとほうれん草」
「地味だな」
「地味じゃない、バランスがいいの」
「見た目が地味」
「悠真のお弁当と大差ないじゃない」
悠真は自分の弁当箱を見た。卵焼き、ウインナー、ごはん。
「確かに」
紗奈が笑った。今度はちゃんと声が出る笑い方で。
その笑い方を、悠真は好きだと思った。
また、好き、という言葉が出てきた。
(だから考えるな)
心の中だけで、自分に言い聞かせた。
午後の授業が終わった後、悠真が廊下に出ると、玲奈が一人で昇降口の方向へ歩いていた。
周囲に誰もいない。
朝はあれだけざわついていたのに、放課後になれば転校生への興味も一日でそれなりに落ち着く。それが高校という場所だった。
悠真は特に何も考えず、声をかけた。
「橘さん、帰り?」
玲奈は振り返った。
一拍、間があった。
「そうです」
「部活とか、もう決めた?」
「まだです。見学してみようかとは思ってるけど」
「何か興味ある?」
「……特には」
短い返答だったが、拒絶している感じではなかった。ただ、慎重な感じがした。新しい場所で、誰にどう接するかをまだ測っている。そういう慎重さだった。
「俺は写真部なんだけど」と悠真は言った。
「活動ゆるいから、のんびりしたいなら悪くないと思う」
「写真、ですか」
「下手だけど好きで」
玲奈は少し表情を変えた。変えた、というより──わずかに柔らかくなった。
「朝比奈くん、でしたっけ」
「悠真でいい」
「……じゃあ、悠真くん」
玲奈は窓の外を一度見て、また悠真の方を向いた。
「写真部、見学してもいいですか」
「もちろん。明日、放課後」
「分かりました」
そう言って、玲奈は歩き出した。
悠真も昇降口へ向かいながら、特に何かを考えていたわけではなかった。
転校生が一人でいたから、話しかけた。それだけのことだった。
昇降口で、紗奈が待っていた。
いつも通り、靴を履き替えながらスマホを見ている。悠真が近づくと顔を上げた。
「遅い」
「ちょっと話してた」
「誰と?」
「転校生」
紗奈の手が一瞬止まった。
ほんの少しの間だった。スマホをしまいながら、「ふうん」と言った。
「どんな人だった?」
「落ち着いてる感じ。東京から来たのに、全然浮ついてない」
「そっか」
それだけだった。
二人は並んで歩き出した。六月の夕方。西の空がオレンジに染まり始めている。
「写真部の見学、明日来るかもしれない」
「橘さんが?」
「そう」
「へえ」
紗奈の声は、いつも通りだった。
表情も、いつも通りだった。
ただ悠真は、なんとなく気になった。
紗奈の「ふうん」が、いつもより少しだけ短かった気がして。
でもそれは、気のせいかもしれなかった。
気のせいだと思うことにした。
帰り道は、いつも通りだった。
他愛ない話をして、コンビニに寄って、分かれ道で「じゃあ明日」と言って別れた。
悠真は家に帰りながら、今日のことをぼんやり振り返った。
転校生が来た。話しかけた。明日、見学に来るかもしれない。
それだけのことだった。
それだけのことのはずなのに──分かれた後、紗奈のことをずっと考えていた。
紗奈の「ふうん」が、頭の中で何度も繰り返された。
(気のせいだ)
玄関のドアを開けながら、悠真はもう一度、自分に言い聞かせた。
ただ──気のせいだと言い聞かせなければならない時点で、それはもう気のせいではないのかもしれない、とも思った。
考えるのをやめた。
今日も、それでいい。



