ベストフレンズ

 六月の空は、やけに青かった。

 朝比奈悠真(あさひなゆうま)が目を覚ましたのは、スマホの目覚ましが鳴る三分前だった。いつものことだ。鳴る前に起きてしまう体内時計だけは、自分でも妙に几帳面だと思う。

 アラームをオフにして、天井を見上げる。

 白い天井。染みが一つ。それだけで何もない。

 (今日は……月曜)

 ため息をつく前に、体を起こした。ため息は、朝いちばんにつくものじゃない。それも、なんとなく決めているルールだった。

 洗面台で顔を洗いながら、鏡の中の自分を見る。

 特別イケてるわけでも、冴えないわけでもない顔。前髪が少し伸びた。切らないと、と三週間前から思っている。

 歯を磨きながらスマホを確認する。

 通知が一件。

紗奈(さな) 7:21
起きてる?

悠真は口の中に泡を溜めたまま、片手で返信した。

悠真 7:22
起きてる

悠真 7:22
知ってる

紗奈 7:23
レポート出した?

悠真は手を止めた。

 泡をそのままに、洗面台の縁を握る。

悠真 7:23
……出した

紗奈 7:23
嘘つかないで

どこで分かるんだ、と悠真は洗口を終えながら思った。文字だけのやり取りで、なんで分かるのか。十年以上の付き合いというのは、もはや念話に近い。

悠真 7:24
朝飯食いながら書く

紗奈 7:24
15分で来るから、急いで

返信する間もなく、スタンプが届いた。ハムスターが走っているスタンプ。

 悠真はそれを見て、一度だけ笑った。

 朝食は食パン一枚だった。レポート用紙をテーブルに広げ、左手でペンを動かしながら、右手でパンをちぎる。母親はもう仕事に出ていて、家には悠真一人だった。

 生物のレポート。テーマは「細胞分裂のしくみ」。

 写してきたノートを見ながら書き写す作業は、考えているのか考えていないのか、自分でも分からない。手だけが動いている。

 七時三十八分。

 インターフォンではなく、玄関のドアが直接開いた。

「悠真、鍵開いてた」

 紗奈だった。

 柊紗奈は玄関先に立って、悠真の食卓を一瞥した。散らばったレポート用紙と、半分残ったパンと、ペンを持ったまま固まっている幼なじみ。

「……やっぱり」

「入ってくるなよ」

「十年以上入ってるから今更でしょ」
 そう言いながら、紗奈は上がり込んできた。鞄を椅子にかけて、悠真の手元を覗き込む。

「どこまで書いた?」

「三分の一」

「何行?」

「六行」

「規定は二十行でしょ」

「分かってる」

 紗奈はため息をついた。呆れと諦めが混ざったような、しかしどこか慣れきった音だった。

 彼女は自分の鞄から一枚の紙を取り出した。

「はい」

 悠真は受け取る前に、その紙の上段を読んだ。

 自分の名前があった。

「……待って、なんで俺の名前が」

「書いてあげた」

「お前が?」

「二十分で書けるから、いつもの五倍のスピードで書いたの。見直しはしてないから、先生に疑われたら自分でなんとかして」

 悠真はしばらくその紙を見つめた。

 紗奈の文字ではなかった。悠真の文字に近い、少し雑なブロック体。真似て書いてくれたらしい。

「……なんで」

「なんでって、困ってるから」

「頼んでないけど」

「頼まれなくても分かる」

 紗奈はもうこちらを見ていなかった。鞄を確認しながら、独り言のように言う。

「毎週月曜の朝にレポートの話しないと気づかないの、学習しないよね。去年から言ってるのに」

 悠真は何も言わなかった。

 言えなかった、というより──言う言葉が見つからなかった。

 ありがとう、は違う気がした。いつも言いすぎて、もう軽くなってしまった言葉だから。

「行くよ」と紗奈が立ち上がった。

 悠真はレポートを鞄に突っ込んで、残りのパンを口に押し込んだ。

 六月の朝は湿っている。

 梅雨の合間の晴れだったが、空気にまだ水分が残っていて、歩くたびに肌に絡みついてくる。

 悠真と紗奈は並んで歩いた。

 どちらかが半歩前を歩くこともなく、かといって手を繋ぐわけでもなく、ただ肩の高さが揃うくらいの距離。十年以上かけて調整された間隔は、もう意識しなくても保てるようになっていた。

「昨日、何してた?」

 紗奈が先に言った。

「部活終わって、帰って、ゲーム」

「ゲームしてたならレポートする暇あったじゃない」

「ゲームしてる時間にレポートはできない」

「なんで」

「脳の使う場所が違う」

 紗奈は少しだけ笑った。鼻から息を抜くような笑い方。

「悠真のそういう謎の理論、昔から変わらないね」

「合理的だと思ってる」

「全然合理的じゃない」

 しばらく無言で歩いた。

 信号を一つ渡る。横断歩道の白線が、六月の光を反射して白すぎるくらい白かった。

 向かいから来た女子二人が、悠真たちを見て何かを囁き合っていた。気づかないふりをしたが、聞こえた。

 また朝比奈と柊さんだ。仲いいよね、あの二人。

 いつものことだった。

 悠真も紗奈も、そのことについては何も言わない。言う必要も、言いたいことも、特にない──と、少なくとも表向きはそういうことになっていた。

「今日の放課後、図書館行く?」と紗奈が聞いた。

「英語の課題あるんだっけ」

「提出来週だけど、早めにやっとこうと思って」

「俺も行く」

「ちゃんと自分でやって」

「一緒にやるじゃなくて?」

「一緒にいるけど、答えは教えない」

「厳しい」

「甘やかしすぎてるのは知ってる。でも英語の読解は自分でやった方が絶対いい。入試に出るから」

 悠真は黙って聞いていた。

 紗奈のそういう言い方──押しつけがましくなく、でもちゃんと相手のことを考えている言い方──が、昔から好きだった。

 好き、という言葉を、悠真はあまり深く考えないようにしていた。

 考え始めると、どこかに辿り着いてしまう気がして。

 校門が見えてきた頃、後ろから声がかかった。

「悠真ー! 紗奈ちゃん!」

 振り返ると、真島恒一が小走りで追いかけてきていた。ネクタイが曲がっている。鞄が片肩にずり落ちている。いつも通りだった。

「遅い」と悠真が言った。

「ごめんごめん、コンビニ寄ってた」と恒一は息を切らしながら追いついた。「二人は早いなー、朝から仲いいこと」

「そんなんじゃない」と悠真。

「そうだよ」と紗奈。

 二人の返しが重なった。

 恒一は面白そうに二人を交互に見て、何かを言いかけて——やめた。

 やめた、というのが悠真には分かった。恒一が何かを言いかけてやめる時の顔を、悠真はよく知っていたから。

「今日の一時間目、生物だろ」と恒一が話を変えた。「レポート出した?」

「出した」

「俺も! 昨日の夜ギリギリだったけど」

 悠真は何も言わなかった。

 鞄の中のレポートを、内側から感じながら。

 教室に入ると、窓際の席から朝の光が差し込んでいた。

 悠真は自分の席につき、鞄を置いた。

 紗奈は三席隣に座った。距離にして、二メートルくらい。遠くもなく、近くもない。

 紗奈は席についてすぐ、教科書を出して読み始めた。予習か、それとも復習か。どちらでもおかしくない。

 悠真はその横顔を、二秒だけ見た。

 二秒で、目を逸らした。

 それ以上見ていると──何かを、思ってしまうから。

 何を思うのかは、まだ自分でも分からな
い。

 ただ。

 (紗奈が隣にいると、落ち着く)

 そう思うことは、ずっと前から変わっていなかった。

 それが何なのかを、悠真はまだ、考えないことにしていた。

 一時間目のチャイムが鳴った。

 六月の朝は、今日も変わらずに始まった。