コートではキスしないでください。

部日誌を書いて職員室へ行くと、廊下に声が響いた。
入口で足を止めて、こっそりのぞく。
「晴人」と言っている声が聞こえたから。聞き耳を立てるつもりなんてなかったけど、その声はだれもいない廊下に響いていて、勝手に耳に入ってくる。

「なんで練習に参加させないんですか!」
あれは…千秋?
真っすぐ伸びた背中に、日焼けした長い手足。
コーチの真正面に立って、声を荒らげている。
ここからはいつも見ている背中しか見えないが、見間違いようがない。
「参加させないんじゃない。あいつは自主的にマネージャーやってるんだよ。部員のことを考えてのことだろう」
やっぱり俺のことだった。冷水を浴びせられたように、一瞬で指の先が冷たくなる。
そう…だよな。他のみんなは頑張っているのに、練習しない俺はサボりみたいなものだから。
「そんなわけない!」
一瞬、心の中を読まれたのかと肩をすくめた。今まで聞いたことのない千秋の怒声が、俺の心を重くする。
あまりの迫力に怖くなり、指先が白くなるほど日誌を握りしめた。
コーチがなだめるように「おい、長野」と言って、一つため息をつく。
「俺はあいつにマネージャーをやれとはひと言も言ってない。自分の実力を理解して、テニスに見切りをつけただけだ。…そのうち、辞めるんじゃないか?」
ショックで頭をなぐられたようだった。
あまりに勝手な言いように、さっきまでの怖さとは違う震えがふつふつと湧いてくる。これ以上ここにいたくない。
じりじりと後ずさり、駆け出そうとしたときだった。
「晴人は!……力は弱いけど、すごく丁寧なプレイをします。リラックスして肩の力を抜いてやれば、俺のサーブだってきれいに打ち返すんです!」
俺は息を呑む。
「…そういえば、そうだったな」
「ちゃんと見てれば分かるはずなのに!あいつはテニスが好きで仕方ないって顔してる。あんなに楽しそうにボール打ってるやつが辞めるわけない!」

その瞬間、灰色だった自分の世界が鮮やかに変わった気がした。
冷え切っていた心臓から、痛みを伴って熱が巡る。
苦しくなるほどのその痛みを、今はずっと感じていたい。
部員に迷惑をかけたくない。嫌われたくない。大好きなテニスから離れたくない。俺だってボールを追いかけたい。
そうだ、いつも楽しくて仕方なかった。
どうして千秋には分かってしまったんだろう。
なんでもないことのように感情を押し殺して、どんなに冷たい目で見られても、平気なふりをしていたのに。
俺がいつも千秋を見ているのと同じように、千秋も俺を見てくれていた?
自分の体を抱きしめるように、ギュッと肩を掴む。じわっと染み出してきた涙がいとも簡単にこぼれて、それは後から後からとめどなく頬を流れていった。
その熱い涙と一緒に、今まで堪えていた苦しさや悔しさまで、さらさらと砂のように流れていく気がする。
そうして泣きたいだけ泣いて、からっぽになった心に、初めての想いが芽生えていた。