コートではキスしないでください。

「カシュッ!」

力の抜き方が分からなくなったまま打ったボールは、不快な音を立てて、とんでもない方向に飛んでいった。
部員もコーチも、手を止めてボールの行く末を見守っている。
高いフェンスを飛び越え、コート外の鬱蒼とした草むらに落ちたようだ。
「はぁ」
うしろからため息が聞こえ、ますます肩が強張る。
俺のせいでリズムが崩れた。流れを止めた。
だれもはっきりとは口にしないが、邪険にされている空気を肌で感じる。
俯いて、だれとも目を合わせることなく列の最後に向かった。
「ドンマイ!」
そんな空気を切り裂くように千秋が肩をたたいてくる。こんな俺に声をかけてくれるのは、いつも千秋だけだった。
でも、今はそれが苦しくて、できれば放っておいてほしい。
こんな気持ちでテニスをしたくない。
俺は立ち止まり、振り返る。
「あとで拾いに行くから」
それだけ言い、列の最後には並ばず、振り返ってコートの反対側へ足を向けた。
いつものように、ボール拾いの部員に声をかけて交代する。俺の勝手な行動に、コーチは良いとも悪いとも言わない。与えられた自由がどうしようもなく辛かった。
左手にカゴを持ち、コーチのうしろのフェンス際で構えていると、コートの向こうから千秋の視線を感じる。
表情は分からないけど、なんとなく責められているような気がして俯いた。





少し先からカサカサと音がして、やけに楽しそうな千秋の声が聞こえた。
「あ!あったー」
「え?また?」
「ほら、晴人」
千秋の手のひらには薄汚れたテニスボールが乗っていて、見つけるたびに見せにくる。
「ずいぶん豊作だな」
自分が飛ばしたボールだけ探すはずが、こんなところで宝探しとは。
草むらにしゃがみこんでいると、尖った葉先がチクチクと顎を刺してきて、たまらず掻きむしった。
「ていうか、俺も飛ばしたことあるし」
あっけらかんと言う千秋に「ふっ」と笑って
「少なくとも5個は拾ったよ」
と返した。
1人で探すからいいと言ったのに。
この男の言葉は、行動は、やっぱり俺の心を軽くしてくれる。


夢中で探す千秋の腕やら首やらは、引っかかれたように赤くなっている。
「千秋、もうやめようよ。暗くなる」
コートに1日の終わりを告げるように黄昏が迫っている。部員はもうだれ1人残っていない。
「ほら、ここ、赤くなってる」
千秋の首に手を伸ばそうとすると、さっとその手を掴まれた。そのまま反対の手で、俺の顎をグイッと持ち上げる。
「晴人もここ、赤くなってる……」
それきり動かずに黙っているから「どうした?」と声をかけると、千秋はどちらの手も離して、電池を抜かれた機械人形のように俯いた。
「いや、行こう」


2人ともジャージだったから部室に急ぐ。
狭い部室だけど、2人で着替えられないわけじゃない。
中に入ってドアを閉め、Tシャツに手をかけると、千秋は急に気が変わったようで身を翻した。
「あー俺、もう一回手洗ってくるわ」
と振り返らないまま出ていく。
もう一回?と自分の手を鼻にもってきて顔を顰めた。
まだ青臭さが残ってる。
俺も着替えたらまた洗ってこよう。

「おまたせ」
千秋が出てくるのを待って鍵をかける。
この鍵はコーチに「管理しろ」と渡された。
選手でもマネージャーでもない宙ぶらりんな俺に、役割を持たせてくれたのだろう。
「鍵、ありがとう」
「どういたしまして?」
俺が首を傾げると千秋は
「最後のハテナいらない」
と言って「ははっ」と笑った。
「あのさ……」
2人で並んで歩きながら駅へ向かう。
暗くなり始めた駅前の通りには歩く人はほとんどいない。
「ん?なに?」
「前、俺のことパワースポットって言ってただろ?それって、他のやつにも効果あるのかな?」
「え?」
千秋が眉を顰めた。あんなふざけて言ったようなこと、本気にしてるみたいで引かれたかな。
「いや!なんらかのパワーが出てるならそれで怪我が治ったり、試合に勝てたりするのかなと思っただけ。そんなわけないよな」
「あはっ!」とごまかすように笑うが、千秋は表情を変えないまま俺の顔をのぞきこんできた。
「それさ、特定のだれかのこと言ってる?試合に勝たせたいやつがいるってこと?」
「え?違うよ!テニス部全体の話。そしたら俺、役に立つじゃん」
首を振って答える。なんか詰められてる気がするんだけど。
「…無理。俺にしか効かないから」
「千秋にだって効果ないでしょ」
「俺だけのパワースポットだから」
真剣な顔でそんなことを言われて、急に心臓がドキドキしてきた。嬉しいような複雑なような。
「お前が強いのはだれよりも努力してるからだよ。そんなの後ろから見てれば分かるし」
真っすぐに千秋の目を見る。
この天才様はだれよりも練習してる。筋トレもストレッチも走り込みも、他の部員が嫌がるメニューも真面目にやってるのは分かってた。俺と同じだから分かる。テニス、好きなんだろうな。
千秋が「ふっ」と柔らかく目尻を細めたから、空気が優しく染まった。
「晴人はだれかの役に立とうなんて考えなくていいんだよ。絶対見ててくれるやつはいるから」
心が、温かい。胸に手を当てると、まだ少し早い鼓動が伝わってきた。
千秋は強くて、優しくて、温かい。
「ありがとう、千秋」
とん、と後ろから肩をたたいた。