黒崎さんは絶対に笑って許さない


体育祭が近づいてきた秋のこと。

 地獄みたいに暑かった夏が終わったはずなのに、まだ普通に暑い。

「秋とは」

「概念」

 黒崎さんが即答する。

 私たちは体育館にいた。

 体育祭実行委員の集まり。

「なんで立候補したの……」

「してない」

「え?」

「推薦」

「あー……」

 納得しかない。

 “仕事できそう”という理由で押し付けられたのだろう。

 そして断らなかった。

 黒崎玲はそういう人だ。

「白石は?」

「巻き込まれた」

「弱い」

「黒崎さん基準で生きてないので!」

 周囲の実行委員たちが苦笑する。

 去年までなら。

 黒崎さんの近くはもっと張り詰めていた。

 今は普通に会話が成立する。

 それが少し不思議だった。

     ◆

「で、問題です」

 実行委員長がプリントを掲げた。

「今年、応援合戦どうしますか」

 空気が止まる。

 嫌な予感しかしない。

「去年さぁ……」

「三組と五組揉めたよね」

「あー……」

 去年、男子が一人を無理やり前に出して笑い者にした。

 結果、やはり揉めた。

 結構大きく。

「今年は“みんなで楽しく”をテーマに――」

「無理」

 黒崎さんだった。

 一瞬で空気が静まる。

「“みんなで”って言う時、だいたい誰か我慢してる」

 うわ出た。

 正論ストレート。

 先生が苦笑いする。

「黒崎さん、そういう言い方は――」

「じゃあ、“やりたくない人は断れる”を先に決めた方がいいです」

 黒崎さんは淡々と言う。

「毎年、“空気読め”で押し切ってるから揉めるんでしょ」

 実行委員たちが黙る。

 図星だった。

     ◆

 その日の放課後。

 グラウンドでは応援練習が始まっていた。

「はいもっと声出せー!」

 運動部の男子たちが盛り上がっている。

 その後ろで。

 一年の男子が、明らかに困った顔をしていた。

「お前も前出ろよ!」

「いや、その……」

 周囲が笑う。

 私は嫌な空気を感じた。

 すると。

「出たくないなら別に出なくてよくない?」

 黒崎さんだった。

「え?」

「体育祭って強制羞恥大会なの?」

 言葉が強い。

 でも正しい。

 男子たちが苦笑いする。

「いや、ノリ悪いじゃないですか」

「その“ノリ悪い”って便利だね」

 また始まった。

 黒崎節。

「嫌がってる相手に“空気読め”って言うの、普通にダサいよ」

 シン、と静かになる。

 すると。

「……別に無理に出なくていいんじゃね?」

 別の男子が言った。

 去年、黒崎さんに注意されていた二年の男子だった。

「やりたい奴だけでやればいいじゃん」

 周囲が少しざわつく。

 でも。

「まあ確かに」

「嫌なら裏方でもよくね?」

 ぽつぽつと声が続く。

 空気が変わる。

 黒崎さんはそれを見て、小さく目を細めた。

     ◆

 帰り道。

「最近さ」

「なに」

「黒崎さんが言う前に、止める人増えたね」

「うん」

「ちょっと楽?」

 黒崎さんは少し考えて。

「……まあ」

 短い。

 でも。

 前なら絶対認めなかった気がする。

「でもさ」

 私は笑う。

「黒崎さん、相変わらず言い方怖いよね」

「優しく言っても聞かないし」

「それは否定できない」

 すると。

 黒崎さんがふと前を向いたまま言った。

「白石」

「ん?」

「去年の今頃の学校、嫌いだった」

 少し意外だった。

「今は?」

「……前よりマシ」

 夕方の風が吹く。

 グラウンドから、運動部の声が聞こえる。

「変わるんだね」

 私が呟くと。

 黒崎さんは小さく笑った。

「人がちゃんと怒ればね」

     ◆

 体育祭当日。

 空は快晴。

 暑すぎる。

「死ぬ……」

「まだ午前」

「絶望情報やめて」

 応援席では各クラスが騒いでいた。

 でも。

 去年みたいな無理やり前に出す空気は、ほとんど無かった。

 出たい人が出る。

 苦手な人は裏方に回る。

 ちゃんと分かれている。

 それだけなのに、空気が全然違った。

「黒崎先輩!」

 一年の女子が駆け寄ってくる。

「今年めっちゃ平和です!」

「それは良かった」

「黒崎先輩のおかげですよ!」

「違う」

 即答だった。

「今年、止めた人いっぱいいたから」

 本当に。

 この人はそこを譲らない。

 “自分のおかげ”には絶対しない。

     ◆

 午後。

 クラス対抗リレー。

 アンカーが転んだ。

 周囲が一瞬ざわつく。

 去年なら笑い声が出ていたかもしれない。

 でも。

「立てー!」

「いける!」

「ドンマイ!」

 飛んだのは、笑いじゃなかった。

 応援だった。

 私はその光景を見ながら。

 なんだか少し泣きそうになった。

     ◆

 閉会式後。

 グラウンドに秋の風が吹いていた。

「終わったー!」

 みんなが騒いでいる。

 その中で。

 黒崎さんは空を見上げていた。

「疲れた」

「珍しく顔に出てる」

「うるさい」

 でも。

 少しだけ柔らかい顔だった。

「ねえ黒崎さん」

「なに」

「高校生活、ちょっと楽しくなった?」

 黒崎さんは少し黙る。

 そして。

「……まあ、去年よりは」

 その答えが。

 なんだかすごく嬉しかった。

     ◆

 高校三年の秋。

 風は少し涼しくなって。

 空は高くなって。

 人の空気も、少し変わった。

 誰かを笑うより。

 誰かを守る方が、ちゃんとかっこいい。

 そんな当たり前を。

 この学校は少しずつ覚え始めていた。

 その中心にはきっと。

 怖くて、不器用で、全然優しく見えない一人の先輩がいた。

 でも黒崎玲は今日も。

 誰かが一人で耐えなくていいように。

 当たり前みたいな顔で、空気に逆らっていた。