高校三年の夏。
教室のエアコンは壊れていた。
「終わってる……」
私は机に突っ伏した。
「この学校、毎年壊れてない?」
「予算ないんじゃない」
黒崎さんは窓際でうちわを扇ぎながら言う。
相変わらず無表情。
でも暑さには普通に弱いらしい。
「黒崎さんって汗かかなそうなのに」
「失礼」
「ちゃんと人間だったんだ」
「今さら?」
周囲の女子が笑う。
こういう光景にも、だいぶ慣れた。
昔の黒崎さんなら、クラスの輪の中で笑われること自体ありえなかった。
今でも怖いけど。
ちゃんと話しかけられる怖さになった。
◆
その日の昼休み。
隣のクラスが騒がしかった。
「マジでキモいって!」
「うわ、やば」
女子の笑い声。
その瞬間。
黒崎さんが立ち上がった。
「あーもう」
嫌な予感しかしない。
「ちょ、待って」
「無理」
黒崎さんはそのまま廊下へ出る。
私は慌てて追いかけた。
◆
二組の教室前。
人だかりができていた。
中心には男子が一人。
俯いている。
机にはぐしゃぐしゃのプリント。
「なにしてるの」
黒崎さんの声で空気が止まった。
みんな振り返る。
「あ……黒崎先輩」
「質問してる」
静か。
なのに怖い。
女子の一人が苦笑いした。
「いや、ちょっとイジってただけです」
「へえ」
黒崎さんは机を見る。
落書き。
“陰キャ”“くさい”。
最悪だった。
「これ面白い?」
「え?」
「笑いのセンス終わってるけど」
容赦ゼロ。
女子の顔が引きつる。
「黒崎先輩って、すぐそういう深刻にしますよね」
「してるのそっち」
即答。
「相手の顔見た?」
全員の視線が男子へ向く。
明らかに顔色が悪かった。
「それでまだ“ふざけてるだけ”って言うなら、だいぶ才能ある」
空気が凍る。
黒崎さんは本当に、逃がさない。
◆
その帰り道。
「黒崎さん」
「なに」
「今日ちょっとキレてた?」
「別に」
「嘘」
私はため息をつく。
「最近、前より怒るよね」
黒崎さんは少し黙った。
「……夏嫌い」
「関係ある?」
「妹、夏休み明けから学校行けなくなったから」
私は言葉を失った。
そうだ。
この人の怒りには、いつも過去がある。
◆
数日後。
学校で匿名アンケートが配られた。
『学校生活について』
建前だけのやつ。
みんな適当に書く。
……はずだった。
「黒崎、何書いた?」
男子が軽く聞く。
「事実」
嫌な予感。
「教師の見て見ぬふりが常態化してるって」
「うわぁ……」
「あと、“いじめ対応マニュアルだけ立派”って書いた」
周囲がざわつく。
「絶対呼び出されるじゃん」
「もうされた」
「早っ」
でも黒崎さんは全然気にしてなかった。
むしろ。
「黙ってる方が気持ち悪い」
本気でそう思ってる顔だった。
◆
案の定、その日の放課後。
職員室に呼ばれた。
しかもなぜか私まで。
「白石さんも、黒崎さんと仲がいいなら分かるでしょう」
学年主任が言う。
「学校を必要以上に悪く書くのは問題です」
黒崎さんが即答した。
「必要以上じゃないです」
「黒崎!」
「実際、去年も今年も問題起きてますよね」
先生が詰まる。
「でも学校全体で共有されてない」
「それは……」
「“大事にしたくない”が優先されてるからじゃないですか?」
空気が重くなる。
私はハラハラしていた。
でも。
黒崎さんは一歩も引かない。
「先生たちって、“問題を解決する”より、“問題が無かったことにする”方が好きですよね」
学年主任の顔が引きつった。
◆
帰り道。
「絶対先生に嫌われてるよね」
「今さら」
「怖くないの?」
「嫌われるの?」
「うん」
黒崎さんは少し考えて。
「……慣れてる」
その言い方が、少し寂しかった。
「でも」
私は言う。
「今、黒崎さんのこと好きな人も増えたよ」
「気持ち悪い言い方」
「褒めてる!」
「別に好かれたくてやってないし」
「うん、知ってる」
だからこそ、だと思った。
◆
夏休み前日。
終業式。
体育館は地獄みたいに暑かった。
校長の長話でみんな死にかけている。
その時だった。
後ろの方で男子たちが笑い始めた。
一年の男子をスマホで撮っている。
嫌な笑い方。
私は反射的に立ち上がりそうになった。
でも。
その前に別の男子が言った。
「おい、それやめろって」
静かになった。
「嫌がってんじゃん」
周りもざわつく。
「いや、冗談だし」
「その言い訳ダサいって」
私は驚いて、その男子を見た。
去年なら。
絶対に出なかった言葉だった。
その時。
隣で黒崎さんが、小さく息を吐いた。
「……やっとか」
その声は。
少しだけ安心したみたいだった。
◆
終業式後。
昇降口で靴を履き替えていると、後ろから声がした。
「黒崎先輩」
一年の男子だった。
さっき助けられていた子。
「……ありがとうございました」
黒崎さんは振り返る。
「別に」
「でも、去年も佐伯先輩の時も、みんな黒崎先輩が――」
「違う」
珍しく、少し強めに遮った。
「最初に止めたの、あの男子だから」
一年生がきょとんとする。
「私は後から来ただけ」
そう言って歩き出す。
私は慌てて追いかけた。
「黒崎さん」
「なに」
「嬉しそう」
「暑さで幻覚見えてる」
「いや絶対」
すると。
本当に少しだけ。
「……一人だけじゃなくなったから」
黒崎さんが言った。
風が吹く。
夏の匂い。
「止める人」
その横顔は、少しだけ柔らかかった。
◆
夏休み。
私たちはファミレスで課題をやっていた。
「黒崎さん、そこ違う」
「……あ」
「珍しい」
「うるさい」
周りの女子高生たちが騒いでいる。
その中の一人が、店員さんに強い口調を向けていた。
「は? 早くしてくれる?」
空気が悪くなる。
私は思わず黒崎さんを見る。
嫌な予感。
「行かないでよ?」
「まだ行かない」
「“まだ”って言った」
黒崎さんはストローを回しながら呟く。
「なんで偉そうなんだろ」
「世の中には色んな人が……」
「ダサい」
即答だった。
でも。
その“ダサい”の基準が、この人らしい。
弱い相手に強く出る人。
見て見ぬふりする人。
空気で誤魔化す人。
黒崎玲は、多分ずっと嫌いなんだ。
◆
帰り道。
夕焼けが街を赤く染めていた。
「ねえ黒崎さん」
「なに」
「卒業したらさ」
「うん」
「会えなくなるの、ちょっと嫌かも」
黒崎さんが少し黙る。
「重い」
「またそれ!」
「でも」
一拍置いて。
「まあ、白石は多分どこ行っても大丈夫」
「なんで?」
「前よりちゃんと怒れるようになったから」
私は少し笑った。
それ、多分。
一番黒崎さんが大事にしてることだ。
優しいだけじゃなくて。
ちゃんと“嫌だ”って言えること。
見て見ぬふりをしないこと。
黒崎玲は今日も怖い。
口も悪い。
全然優しく見えない。
でもきっと。
誰より、“人が壊れる瞬間”を見てきた人だった。
だから今日も、笑って許さない。
誰かが、一人にならないように。
了

