高校三年の六月。
雨の日だった。
「陽菜ってさ」
廊下で、知らない一年生女子が言った。
「黒崎先輩と仲いいんですよね?」
「……まあ、一応」
「すごいですね」
その“すごい”には、半分くらい“怖い”が混ざっていた。
私は苦笑いする。
黒崎玲はいまや完全に有名人だった。
問題を起こす側じゃない。
問題を終わらせる側として。
でも本人は全然嬉しそうじゃない。
むしろ最近ちょっと機嫌が悪かった。
◆
「は?」
昼休み。
私はパンを落としそうになった。
「進路希望?」
「うん」
黒崎さんは机に突っ伏したまま言う。
「だるい」
「だるいで済む話じゃないでしょ」
「どうせ“大人になれ”って言われるだけだし」
「まあ高校だからね……」
黒崎さんはシャーペンを回す。
「“協調性を持て”とか、“社会では上手くやれ”とかさ」
「うん」
「つまり“見て見ぬふり覚えろ”ってことでしょ」
私は返事に詰まった。
黒崎さんは、本気でそう思ってる。
多分、昔から。
◆
その日の放課後。
進路指導室から怒鳴り声が聞こえた。
「黒崎! その態度はなんだ!」
先生だった。
私は思わず足を止める。
「事実言っただけですけど」
黒崎さんの声。
「“会社では理不尽にも耐えろ”って、それ洗脳じゃないですか?」
「社会は学校とは違う!」
「知ってます」
即答。
「だから嫌いなんです」
沈黙。
怖い。
けど、多分。
黒崎さんは本気で納得できないんだ。
「お前はもっと丸くなるべきだ!」
「先生」
静かな声。
「丸くなった結果、“見てるだけの大人”になるなら、私は別に尖ってていいです」
◆
その夜。
私は珍しく、黒崎さんから電話をもらった。
『白石』
「どうしたの?」
『暇』
「理由薄っ」
でも少しだけ、声が疲れていた。
『ねえ』
「うん」
『“いい人”って何だと思う?』
珍しい質問だった。
「急に哲学?」
『いいから』
私は少し考える。
「……ちゃんと人のこと考えられる人?」
『それだけ?』
「え?」
『嫌われないように黙ってる人も、“優しい”って言われるじゃん』
私は言葉に詰まった。
『でもさ』
黒崎さんの声が低くなる。
『それで壊れる側は、どうすんのって思う』
◆
翌日。
問題が起きた。
三年の男子グループが、一年の男子をパシリ扱いしていたらしい。
ジュース買わせる。
荷物持たせる。
断ると「ノリ悪」と笑う。
典型的だった。
「またか……」
私はため息をつく。
「終わんないね」
「終わらないよ」
黒崎さんは窓の外を見た。
「だって、“ちょっとくらい”って思ってる人が多いから」
◆
その日の昼休み。
黒崎さんは問題の男子グループの前に座った。
「ねえ」
全員固まる。
もはや学校内で、“黒崎に話しかけられる”は災害扱いだった。
「後輩使って遊ぶの楽しい?」
「いや、別にそんなんじゃ」
「じゃあ自分でジュース買えば?」
男子たちが黙る。
「“冗談”?」
その言葉だけで空気が凍る。
完全にトラウマワードだった。
「……黒崎ってさ、正義感ぶってるよな」
一人の男子が言った。
教室が静まる。
でも黒崎さんは全く動じなかった。
「別に正義感ないよ」
「は?」
「ただ、ダサいから嫌いなだけ」
男子が眉をひそめる。
「弱い相手にだけ強いやつ」
一拍置く。
「めちゃくちゃダサいじゃん」
痛烈だった。
◆
その後。
男子グループは教師指導を受け、後輩への嫌がらせも止まった。
でも今回、少し違った。
周囲の男子たちが先に止めていたのだ。
「それやめとけって」
「普通に嫌がってるじゃん」
前なら見て笑っていた人たちが、変わり始めていた。
その帰り道。
「黒崎さん」
「なに」
「学校、ちょっと変わったね」
「まあ」
「黒崎さんのおかげじゃん」
「違う」
即答だった。
「最初から止める勇気あった人もいたと思う」
夕焼けが横顔を赤く染める。
「ただ、“一人目”がいなかっただけ」
私は少し黙った。
ああ、この人は。
自分をヒーローにしたいわけじゃないんだ。
誰かが最初に声を上げれば、空気は変わるって知ってるだけなんだ。
◆
卒業前日。
教室は寄せ書きや写真で騒がしかった。
「黒崎ー! 写真撮ろ!」
「嫌」
「なんで!?」
「顔疲れる」
「意味わかんない!」
周りが笑う。
昔だったら考えられない光景だった。
その時、一年の佐伯さんがやって来た。
「先輩!」
「なに」
「これ」
小さな手紙だった。
黒崎さんは怪訝そうに開く。
『先輩が止めてくれなかったら、多分学校来れなくなってました。ありがとうございました』
短い文。
でも。
黒崎さんは少しだけ固まった。
「……重い」
「照れてる?」
「違う」
でも耳が少し赤い。
私は吹き出した。
◆
卒業式。
校門の前。
桜はまだ少し早かった。
「で、結局どうすんの進路」
私が聞く。
「法律系」
「え?」
「理不尽嫌いだから」
「似合いすぎ……」
黒崎さんは鞄を持ち直す。
「白石は?」
「教育学部」
「先生?」
「うん」
黒崎さんが少し驚いた顔をした。
「止める側になろうかなって」
すると。
黒崎さんは少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
「そっちのが向いてる」
「なにそれ」
「私は多分、怖すぎるから」
風が吹く。
制服の裾が揺れる。
「ねえ黒崎さん」
「なに」
「“いい人”ってさ」
「うん」
「嫌われない人じゃなくて、ちゃんと止められる人かもね」
黒崎さんは少し黙った。
それから空を見上げる。
「……なら、あんたはもう大丈夫」
その言葉だけ、妙に優しかった。
黒崎玲は最後まで、不器用で、怖くて、口が悪かった。
でも。
見て見ぬふりだけは、絶対にしなかった。
だからきっと。
あの人は誰かの“怖い先輩”である前に――
誰かを救った人だった。
了

