黒崎玲が三年生になってから、学校の空気は少し変わった。
露骨な悪口は減った。
誰かを一人だけ外すような空気も、前ほどなくなった。
でも――なくなったわけじゃない。
人って、そんな簡単に変わらない。
「ねえ聞いた? 一年でまた揉めてるらしいよ」
昼休み、教室の隅でそんな声が聞こえた。
「また?」
「女子グループのやつ。なんか一人ハブってるっぽい」
私は反射的に、窓際を見た。
黒崎さんはいつもの席でイヤホンをしていた。
寝てるのか起きてるのか分からない顔。
でも、多分。
聞こえてる。
五秒後。
イヤホンを外した。
「あー、うるさい」
来た。
私は心の中で思った。
◆
放課後。
「白石」
「え?」
「付き合って」
「えっ」
「変な意味じゃない」
「紛らわしい!」
黒崎さんは面倒そうな顔をする。
「一年棟」
「……もう行く気なんだ」
「気持ち悪いから」
いつもの理由だった。
“正義だから”じゃない。
“許せないから”。
それが黒崎玲。
◆
一年二組。
空気が、変だった。
教室の中心で笑ってる女子グループ。
その反対側。
一人でノートを見ている女子。
目が合った瞬間、すぐ逸らされた。
嫌な慣れ方だった。
「あー、黒崎先輩?」
中心にいた女子が笑う。
派手なメイク。
距離感が妙に近い。
「なんか用ですか?」
「ある」
黒崎さんは即答した。
「いじめ?」
空気が止まった。
「は?」
「してる?」
真顔。
直球。
私は胃が痛くなった。
「ちょっと待ってくださいよ~」
女子が笑う。
「今そういうの敏感すぎません?」
「質問に答えて」
「ただノリ悪いから距離置いてるだけです」
「へえ」
黒崎さんはスマホを出した。
『キモ』『また泣いてる』『無視でよくない?』
画面いっぱいのスクショ。
女子の顔色が変わる。
「……え」
「裏垢、鍵甘い」
「は!?」
「あと録音ある」
怖い。
味方でも怖い。
「これ先生に出す?」
黒崎さんが言う。
「それとも親?」
「ちょっと待って!」
女子の声が裏返る。
「冗談なんですって!」
その瞬間。
黒崎さんの目が冷えた。
「それ」
静かな声。
「やる側だけ使える魔法みたいに言うよね」
教室が静まり返る。
「やられた側、笑ってた?」
女子は黙った。
「泣いてたよ」
黒崎さんは、教室の隅を見る。
一人の女子が俯いていた。
「泣いてる相手見て“冗談”って言えるなら、人として終わってる」
怖かった。
怒鳴ってない。
でも、教室の温度が下がった気がした。
◆
その日の帰り。
「黒崎さん」
「なに」
「怖すぎ」
「そう?」
「絶対泣くよあれ」
「泣けば?」
「え」
黒崎さんは空を見上げる。
「自分が何したか理解して泣くなら、別に」
少しだけ間が空く。
「ただ、“被害者ぶって泣く”のは嫌い」
風が吹く。
髪が揺れる。
「白石さ」
「うん」
「あんた前、優しすぎた」
「……」
「今はちょっとマシ」
「褒めてる?」
「多分」
私は笑った。
◆
翌週。
問題が起きた。
一年の女子が保健室で泣いていたらしい。
SNSでまた悪口が回っていた。
しかも今回は匿名掲示板まで使われていた。
「陰湿すぎ……」
私が呟くと。
「暇なんだよ」
黒崎さんが言う。
「暇?」
「人生つまんない人ほど、人を傷つける遊び始める」
言い方。
でも妙に刺さった。
「で?」
「で?」
「白石、どうするの」
「……え」
「前なら“誰か助けて”だった」
黒崎さんが私を見る。
「今のあんたは?」
私は少し考えた。
怖かった。
正直、関わりたくなかった。
でも。
あの日。
トイレ個室でパン食べてた自分を思い出す。
「……話、聞く」
「うん」
「あと、先生にも言う」
「うん」
「もし放置されたら、証拠集める」
黒崎さんが少し黙る。
「成長したね」
「上から!」
「事実」
でもその横顔は。
少しだけ嬉しそうだった。
◆
一年の女子――佐伯紗奈は、最初ほとんど話さなかった。
「別に平気です」
「気にしてません」
全部、昔の私と同じだった。
だから分かる。
平気な人はそんな顔しない。
黒崎さんは缶ジュースを机に置いた。
「嘘下手」
佐伯さんが固まる。
「え」
「平気なら保健室で泣かない」
直球すぎる。
「……っ」
目に涙が浮かぶ。
「なんで……」
震えた声。
「なんで先輩たち、助けるんですか」
黒崎さんは少し考えて。
「見ててイラつく」
いつもの答え。
でも今回は続きがあった。
「あと」
少しだけ目を逸らす。
「助けなかった後悔、知ってるから」
その瞬間だけ。
黒崎さんの顔が少し疲れて見えた。
◆
数日後。
再び一年二組。
今度は担任もいた。
生活指導も。
証拠一覧。
スクショ。
録音。
悪口。
無視指示。
全部並んだ。
言い逃れなんて無理だった。
「こんなの、やりすぎじゃないですか!?」
一年の女子が叫ぶ。
「人生終わる!」
「終わらない」
黒崎さんが言う。
「でも“やったこと”は残る」
「最低!」
「うん」
頷く。
「で?」
冷たい目。
「相手に最低なことしてない?」
誰も喋れなくなった。
「あとさ」
黒崎さんは最後に言った。
「見て見ぬふりしてた人」
教室が静まる。
「次から止めて」
怒鳴らない。
でも、一番効く言い方だった。
「“私は関係ない”って顔した人が増えるほど、いじめって楽になるから」
◆
冬。
校内の空気はまた少し変わった。
一年の子たちが、廊下で黒崎さんを見ると小さく頭を下げる。
「救世主扱いじゃん」
私が言うと。
「嫌だ」
「なんで」
「重い」
即答だった。
「私は別にヒーローじゃないし」
「じゃあ何?」
少し考えて。
「感じ悪い監視カメラ」
私は吹き出した。
「言い方!」
「常に見てる」
「怖!」
「悪いことしなきゃ平気」
その時。
前から一年の佐伯さんが走ってきた。
「あ、先輩!」
笑ってる。
ちゃんと笑ってる。
「今度クレープ行きませんか!」
「白石と行けば?」
「えぇ!?」
「私甘いの苦手」
「嘘! この前プリン食べてました!」
しまった、という顔。
私は笑った。
「バレてるじゃん」
黒崎さんは少し黙って。
「……期間限定なら行く」
小さく言った。
佐伯さんが飛び跳ねる。
私は、ふと思う。
この人、多分。
本当はすごく不器用だ。
優しいって認めたくなくて。
でも見捨てられなくて。
怒りながら、人を守ってる。
◆
帰り道。
夕焼け。
「ねえ黒崎さん」
「なに」
「最近ちょっと丸くなった?」
「気のせい」
「笑うこと増えたし」
「気のせい」
「甘いもの食べるし」
「黙れ」
私は笑う。
すると。
本当に一瞬だけ。
「……うるさい」
黒崎さんが、少しだけ笑った。
冬の空の下。
相変わらず不器用で。
相変わらず怖くて。
でもきっと誰より、“見てるだけ”を嫌う人。
黒崎玲は今日も、絶対に笑って許さない。
ただ少しだけ――前より、人の隣にいるようになった。
了

