黒崎玲は、怖い。
それが、私たち二年三組の共通認識だった。
先生に敬語を使わない。
校則違反常習犯。
授業中は寝る。
でもテストは毎回学年一位。
体育祭では男子より速く走るし、文化祭では一人で全部仕切る。
顔もいい。
けど、近寄りがたい。
笑わない。
群れない。
媚びない。
そして一番有名なのは、“敵に回したら終わる”って噂だった。
去年、サッカー部の男子が女子の写真を勝手に加工してSNSに上げた時。
黒崎さんはたった一週間で証拠を全部集めた。
裏アカ、DM、過去ログ、録音。
全部。
その男子は停学になって、推薦も消えた。
以来、誰も黒崎玲に逆らわなくなった。
そんな人が、ある日突然、私の前に座った。
「白石」
「……え?」
「それ、誰にやられたの」
視線が、私の腕に落ちる。
慌てて袖を引っ張った。
「なんでもない」
「へえ」
黒崎さんはそれ以上聞かなかった。
でもその黒い目だけは、“全部わかってる”みたいだった。
◆
私は昔から、“ちょうどいい子”だった。
空気を読める。
波風を立てない。
誰とでも合わせられる。
だから高校生活も、普通に上手くいくと思っていた。
最初は本当に普通だった。
でも、一学期の終わり頃から少しずつ空気が変わった。
原因は、多分くだらない。
クラスの男子に告白された。
しかもその男子は、クラス女子の中心グループ――真島莉乃が好きだった人だった。
私は断った。
でも、それで終わらなかった。
『白石って天然ぶってるよね』
『男好きっぽい』
『まじ無理』
最初は陰口だけ。
それが、少しずつエスカレートしていった。
机の中のゴミ。
なくなる教科書。
グループLINEで私だけ外される。
体育のペアも誰も組まない。
でも、誰も止めない。
みんな“巻き込まれたくない”から。
私も笑って誤魔化した。
「気にしてないよ」
「大丈夫だよ」
そう言い続けないと、本当に壊れそうだった。
◆
昼休み。
私はいつものように、トイレ個室でパンを食べていた。
教室にいると胃が痛くなるから。
「白石」
突然、個室の外から声がした。
低くて、無機質な声。
黒崎さんだった。
「……なに」
「そこ、ご飯食べる場所じゃない」
「別にいいじゃん」
「よくない」
「放っといて」
「嫌」
即答だった。
意味がわからない。
「なんで?」
「見ててイラつくから」
「……は?」
「あと、パンの匂いする」
私は思わず吹き出した。
すると黒崎さんは、少しだけ黙ったあと言った。
「やっと笑った」
その瞬間。
なぜか、泣きそうになった。
◆
「で?」
放課後、屋上。
黒崎さんはフェンスにもたれて缶コーヒーを飲んでいた。
「いつまで我慢するの」
「……別に困ってないし」
「その“別に”便利だね」
私は黙った。
「証拠あるよ」
「え?」
スマホが投げられる。
そこには、裏アカのスクショ。
私の悪口。
笑いながら撮られた動画。
机に落書きする瞬間。
全部保存されていた。
「……なんでこんなの」
「集めた」
「なんで?」
「ムカつくから」
黒崎さんは、心底どうでもよさそうに言う。
「イジメってさ、やってる側は暇つぶしなんだよね」
風が吹く。
長い黒髪が揺れた。
「でも、やられてる側は人生壊れる」
その言葉だけ、異様に重かった。
◆
「黒崎さんって、なんでそこまで……」
聞きかけて、やめた。
でも彼女は普通に答えた。
「妹いたから」
「……え?」
「中学の時、いじめで死んだ」
空気が止まる。
黒崎さんは、驚くほど淡々としていた。
「先生も知ってた。クラスも知ってた。でも誰も止めなかった」
彼女は空を見上げる。
「“ふざけ合いだから”って」
私は何も言えなかった。
「だから私は、見て見ぬふりしてる奴も嫌い」
その瞬間、わかった。
この人は正義感が強いんじゃない。
許せないだけなんだ。
◆
翌週。
事件は突然起きた。
昼休み、教室のモニターが勝手についた。
『これマジうける』
聞き覚えのある声。
真島莉乃だった。
教室がざわつく。
流れ始めたのは、裏アカ動画。
『白石って陰キャのくせに男子狙ってんのキモ』
『泣きそうじゃん』
『動画回しとこー』
クラス全体が凍った。
「ちょ、なにこれ!?」
真島が立ち上がる。
その時、教室後ろのドアが開いた。
黒崎さんだった。
「ホームルーム始まるよ」
「黒崎!! あんた!?」
「証拠流しただけだけど」
「最低!」
「先にやったのそっちじゃん」
静かな声だった。
でも圧が凄かった。
「あとこれ、教育委員会にも送ったから」
担任の顔が真っ青になる。
「く、黒崎! 勝手なことを!」
「勝手に放置してたの先生ですよね?」
誰も反論できなかった。
黒崎さんは真島を見た。
「ねえ」
「……なによ」
「なんであんたって、自分がやる側の時だけ“冗談”って言うの?」
真島は顔を赤くする。
「ふざけんなよ!!」
「うん。だから今、ふざけてない」
逃げ場が、完全になくなっていた。
◆
その後、学校は大騒ぎになった。
保護者会。
教育委員会。
停学処分。
担任も異動。
でも、一番変わったのはクラスだった。
みんな気づいてしまった。
“見て見ぬふり”も加害側なんだって。
◆
それで終わりだと思っていた。
でも違った。
真島は停学から戻ってきたあと、完全に孤立した。
今度は逆に、周囲から避けられ始めた。
私は、それを見てしまった。
放課後。
空っぽの教室。
一人で座ってる真島。
前まで一緒にいた女子たちは、もう誰も話しかけない。
その姿が、一瞬だけ昔の自分に重なった。
「……」
私は迷った。
声をかけるべきか。
でも、その時。
「やめときな」
後ろから黒崎さんの声。
「え?」
「今のあんた、優しさじゃなくて罪悪感で動いてる」
図星だった。
「でも……このままは」
「別に助けるなとは言ってない」
黒崎さんは窓際にもたれる。
「ただ、“可哀想だから許す”は違う」
私は黙る。
「やったことの責任は消えない」
「……うん」
「でも、人間関係全部終わったら、自分が何したか考えるしかなくなる」
黒崎さんは淡々としていた。
「それを奪うのも違う」
◆
数日後。
私は、真島に話しかけた。
「ノート、いる?」
真島は驚いた顔をした。
「……なんで」
「別に」
少しだけ、黒崎さんの真似をした。
真島はしばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「……ごめん」
私はすぐには答えられなかった。
許せたわけじゃない。
でも。
「二度とやらないで」
「……うん」
それだけ言った。
◆
文化祭シーズン。
クラスは以前より静かになった。
悪口が減った。
誰かを一人にしようとすると、止める人が出るようになった。
劇の準備中。
男子が女子をからかおうとして、別の男子が言った。
「それ普通に嫌じゃね?」
その一言だけで、空気が変わる。
前なら誰も止めなかった。
でも今は違う。
多分みんな、一回ちゃんと怖くなったんだ。
人を傷つけることの重さに。
◆
「白石」
「ん?」
「ペン取って」
「自分で取れば?」
「遠い」
「二十センチじゃん」
「致命的距離」
私は呆れてペンを渡す。
周りの女子たちがクスクス笑った。
「なんか最近、黒崎って丸くなったよね」
「それはない」
「白石には甘いじゃん」
「違う」
「否定早」
教室が少し笑いに包まれる。
その時だった。
男子の一人がふざけて言った。
「黒崎ってマジでラスボス感あるよな」
黒崎さんはゆっくり顔を上げる。
「黙れモブ」
爆笑が起きた。
私は笑いながら、ふと思う。
この人は、多分ずっと怒ってる。
妹を失った日から。
見て見ぬふりする世界に。
笑って誤魔化す空気に。
でも。
その怒りに救われた人も、きっといる。
◆
文化祭当日。
クラス劇は大成功だった。
打ち上げで、みんな騒いでいる。
その輪から少し離れて、黒崎さんはスマホを見ていた。
「入らないの?」
「うるさいの苦手」
「せっかく成功したのに」
「別に興味ない」
「絶対嘘」
「……」
私はジュースを差し出す。
黒崎さんは少しだけ迷って、受け取った。
「ねえ」
「なに」
「黒崎さんってさ」
「うん」
「ほんとは優しいよね」
彼女は少しだけ目を細めた。
「優しくない」
「じゃあ何」
「私は、“許さない側”なだけ」
その言葉は、黒崎さんらしかった。
◆
三年生になる頃には、黒崎玲は学校中で有名になっていた。
でも以前みたいな“怖い人”ってだけじゃなかった。
『あの人、ちゃんと見てる』
そう思われるようになっていた。
誰かが困ってたら気づく。
理不尽を見逃さない。
でも、絶対に甘やかさない。
だから怖い。
でも、信用できる。
◆
卒業式の日。
私は昇降口で黒崎さんを探していた。
でも、どこにもいない。
校門を出た時、ようやく見つけた。
一人で、桜を見上げていた。
「帰るの?」
「うん」
「そっか」
少し沈黙。
春の風が吹く。
「黒崎さん」
「なに」
「助けてくれてありがとう」
彼女は少しだけ眉を上げた。
「別に」
「その“別に”便利だね」
初めて。
本当に初めて。
黒崎玲は、少しだけ笑った。
ほんの一瞬。
でも確かに。
冷たくて、強くて、誰より怖いあの人は――
最後だけ、ちゃんと笑った。
了

