目を開けると、明るい障子がまず目に入る。それから櫛と、水差しの置いてある寝台脇の机。
桜子はひとつ伸びをして身体を起こすと、すっかり見慣れてしまった自室を見渡した。
もうこの部屋ともお別れだ。
一葉への養女入りが正式に決まったからには、住まいも向こうの屋敷に移らねばならない。
茶会から二週間。今日は巽の屋敷を発つ日であった。
最近は起きると英治にくっついて朝食の支度を手伝わせてもらっていたのだが、今日ばかりは無理そうだ。桜子はいそいそと布団から抜け出ると手早く身支度を整え、寝具や身の回りのものを片付け始めた。
すでに大半の物は鞄に詰めているので、残るは細々とした身の回り品だけだ。
「懐かしい……」
引き出しを開けていると、折り畳んだチョコレートの外紙が出てきた。チョコレートにいたく感動していた桜子のためにと、伊里が友人から貰ったものを何度か分けてくれたのだ。外の包み紙が可愛らしくてどうにも捨てられず、大切にしまっていたのを思い出した。
初めての友人と過ごした、大切な思い出。桜子は丁寧に紙を畳み直すと、荷物の中に忍ばせた。
茶会以降は、本当に穏やかな日々だった。
伊里とお喋りをしながら荷をまとめ、英治も時折手伝ってくれた。巽は、仕事の合間を縫っては必ずそばにいてくれた。それこそ、桜子の近くにいられる残りの時間を惜しむように。
あとは道枝との関係だが――巽からすでに両親との縁は切られていると聞いたときには動揺したが、仕方ないと諦めた。これから一葉や二條に迷惑を掛けないためにも、彼らとの悪縁はここで切っておくべきなのだ。
頭では分かっていても、もっと彼らと話ができていたらと後悔は残る。翠とももっと話をしたかった。監禁から助けてくれたのが彼女であったのなら、礼だって言いたかった。
ふとそう零してしまった桜子に、巽は複雑そうな顔をしながらも、「桜子さんは十分ようやっとった」と言ってくれた。
おかげで少し気持ちに踏ん切りをつけることができた気がする。
コンコン、と控えめなノック音が思考に割り込んできた。英治がそろりと顔を覗かせる。
「桜子さん、入りますよ。支度はどうですか?」
「どうぞ。もう終わりそうです」
彼は着物ではなく、静香訪問のときのような洋装をしていた。今日は一葉の人間とやりとりするのだ、彼も気を張っているのだろう。
「よかったです。先程、一葉さまよりお電話がありました。予定通りの時刻でこちらに自動車を出されたそうです。一時間もしないうちに迎えが来るかと」
ああ、いよいよだ。
桜子がおずおずと頷けば、心中を察したのか英治が眉を下げる。
「寂しく、なりますね」
決して今生の別れではない。桜子は巽と正式に婚約したのだ。これからは今まで以上に関わることになる。
だとしても。
この屋敷で過ごした日々は、特別だった。
桜子の人生を変えた、大切な人に出会えた場所。ここには桜子の変化の全てが詰まっているのだ。
「坊っちゃんもお支度終えて応接間に降りられていますよ。片付けが終わっているのでしたら、行かれてはどうでしょう。荷は私が玄関に運んでおきますから」
桜子は英治の気遣いに甘え、早足で廊下に出た。
硝子戸の外では新緑の木々が風に揺れていた。夏がすぐそこまで近づいてきているのを感じる。門出にはちょうどいい、晴れやかな天気だと思った。
客間に着くとソファに座る巽、ではなくグスグスに泣いている伊里がまず目に飛び込んできた。
「うわあぁん! 桜子さぁん!」
わざわざ見送りのために早朝から来てくれたのか。伊里は桜子の姿を見るなり、力いっぱい抱きついてくる。
「い、伊里さん。大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないですよぉ、桜子さんとすぐ会えなくなるなんてすごく寂しいです」
桜子は伊里の震える背中に手を回す。
「落ち着いたら、お手紙書きますね」
「わたしも書きます絶対書きますから! おにいさまのところに遊びに来られるときには、前もって教えてくださいね!」
「いやなんで毎度伊里含めて会わなアカンねん」
ソファに身を沈めたままの巽がじっとりと伊里を睨めば、伊里が「おにいさまの人でなし」とぶすくれる。
と、荷物を整理し終えた英治が客間に顔を出した。
「ちょっと伊里さん、今くらいは坊っちゃんと桜子さんのふたりきりにして差し上げましょう」
「うう……じゃあ桜子さんまた後で」
伊里は鼻をすすると、駆けていって英治の腕にしがみつく。驚く桜子の目の前で、英治はぎこちない手つきで伊里の身体を受け止めている。よく見れば、彼の耳は真っ赤に染まっていた。
桜子の誘拐騒動以来、英治と伊里の関係も変化したような気がする――のだが、それを彼らに問うのはもう少し先だろう。
ようやく静かになった室内で、桜子は巽と見つめ合う。
「座らへんの?」
「え、と……失礼します」
向かいに座るのも他人行儀だ。かといって真横もおかしい。人ふたり分ほどしっかり開けて隣に腰掛ければ、くつくつと笑われる。
「遠ない? もっとそばに座りぃや」
「それは、その」
恥ずかしいからと言いかけて、巽がいよいよ破顔する。
「今更やん。おんなじ布団で寝た仲やのに」
「そ、それは語弊があります!」
自分でも考えなしだったと思うし、寝ぼけすぎていたと思う。口ごもる桜子をよそに、巽の方から距離を詰めてきた。
「これからは顔見たいときにすぐ会えへんのやなぁ」
膝が触れ合いそうな近さ。ソファが軋む音に合わせて心臓が跳ねる。
「寂しなるわ。向こうに引っ越しても、伊里だけやなく僕にも構ってな」
「あ、当たり前です! 私だって……」
言いかけて、巽の顔が思いのほか近いことに気づく。軽い口調とは裏腹にこちらを覗き込む目は真摯で。あえて口にしないようにしてきた単語が飛び出てしまう。
「私だって、すごく、寂しいです」
巽とこの部屋で取引をしたのが遠い昔のようだ。まさか自分にとって彼がこんなに大切な人になるとは思わなかった。
「口に出すんは結構照れくさいんやけど、こういう日やしな……」
巽の顔が近づき、コツンと額同士が触れ合う。
「僕の手を取ってくれてありがとう。天家の二條巽やない、ただのひとりの人間として接してくれて……ホンマにありがとうな」
睫毛の奥で、巽の瞳が揺れている。桜子は額から移る熱に頬を緩める。
「お礼を言うのは私の方です。私を疫病神から桜子にしてくださったのは巽さんですもの」
「……僕にとって桜子さんは、出会ったときからずっとただの可愛い人やったで」
きゅうと目が細められ、おもむろに巽の顔が近づき――咄嗟に目を瞑る。唇に柔らかな感触と、後頭部を撫でる彼の大きな掌。桜子が声を出す間もなく、さらりと巽は離れていく。
「あ、い、今……」
目を開ければ、悪戯っぽい笑みを浮かべた巽の姿があった。
「婚前やしな。同衾のときもそうやけど、これでもよう我慢しとる方やと思わへん?」
今の自分は茹で蛸に違いない。返答に困って桜子が頬を押さえていると、髪の結び目に何かが挿し込まれていることに気づく。さっきの一瞬に巽が何かしたのだろうか。
「これは?」
触ってみると、簪のようだった。けれど細工まではさすがに分からない。
「桜子さんにと思て買うとったやつ。ホンマは茶会の前に渡す予定やってんけど、色々あって渡す機会逃しててん」
巽は満足そうにしているが、桜子には贈られたものが見えない。わざわざ好いた人が見繕ってくれたものなのだ、今すぐ確認したい。けれど、室内を見渡すも、鏡らしきものはここには見当たらない。
「とても嬉しいです。折角なので私も見たいのですが」
「なら一葉の屋敷に着いたら真っ先に確認してや。鏡くらい、向こうの部屋に用意してあるやろ」
「え?」
「忘れんとってな」
男が女に簪を送る意味など、いくら桜子といえど理解している。では、一葉の屋敷に行ってから見ろという巽の意図は――桜子はくしゃりと笑むと、何度も頷く。
巽という人間は、こういう人だ。一見すると気障だけれど、本当はとても健気で優しくて。
この人の隣にいる幸せを、今はただ噛み締めたい。
「お、迎えが来たようやな」
屋敷の外から、車のエンジン音が聞こえる。立ち上がる巽につられて桜子も立ち上がる。
「行こか」
「……はい!」
不安よりも、未来への希望を。
これから先に困難があったとしても、きっとこの人となら大丈夫だ。
春待つ娘はもういない。
これからは次の季節へ。
桜子は新しい一歩を、大切な人とともに踏み出した。
