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巽の屋敷に帰ってきてから、およそ十日。
茶会当日の朝は、澄み渡るような青空であった。あっという間のような、ようやく辿り着けたような。会場へ向かう車内で、桜子は静かに流れる景色を眺めていた。
緊張しているというのもあるが、それ以上に不安だった。桜子が逃げてから道枝に動きがないのだ。
訊ねても詳しい話は聞けないままで――会場でもし鉢合わせしてまた問題が起こったらと思うと、胸がざわついた。
「大丈夫やから」
桜子の心中を察したのか、隣に座る巽が桜子の手に触れる。今日の彼は青鈍の紋付に仙台平の袴。普段より丁寧に前髪を上げているおかげで、表情がよく見える。
「……はい」
「僕もそばにおる」
今度は何があってもきっと大丈夫だ。桜子が頷くのと、車が止まるのは同時だった。
「おふたりとも、着きましたよ」
ここまで一言も発していなかったが、運転手は英治であった。英治は運転席から飛び降りると、外から扉を開けてくれる。使用人の彼は会場内に立ち入ることができないため、ここで別れることになる。
「頑張ってくださいね」
控えめな英治の激励に桜子は固い笑顔で返す。巽の手を借りて車から降りる。折角の白の着物が汚れないよう、気を張って歩く。
門をくぐると、別邸とは思えぬほど広大な日本庭園が広がっていた。桜子の口から感嘆の息が漏れる。
「わあ、すごい……」
朱塗りの太鼓橋が掛かる庭池、白砂に群生する竹林。外郭に立ち並ぶ八重桜はまさに見頃で、風にはらはらと花弁が舞い踊る。まるで一幅の絵画のような光景だ。
「見惚れるんもええけど、迷わへんように着いてきてや」
苦笑交じりに囁く巽に、我に返る。桜子は慌てて先をゆく巽の斜め後ろをついて歩いた。
以前巽から聞いていた通り、池畔に沿うようにして野点の席が設けられていた。立礼席には緋毛氈が敷かれ、贅沢に螺鈿の黒卓まで置かれている。野点傘のもと、一目で良家の人間だと分かる身なりをした老若男女が、桜を肴に談笑に花を咲かせており――彼らの場馴れした様子に、桜子はどうあっても萎縮してしまう。
けれど、巽は違う。
迷いなく人混みに入り、主賓席へと近づいていく。そして招待客の誰もが巽の紋に目を留めると、畏まったように頭を下げ、道を開けていく。
桜子は、奇妙な居心地の悪さを覚えた。そっと巽を盗み見るも、顔色ひとつ変えず歩みを進める彼が、何を考えているかは分からない。
この場で、揚羽の紋をまとうのは二條家だけ――巽が雲の上の人であることなど、とうの昔に理解していたはずなのに。
桜子にとっての巽は、畏怖や羨望を抱く存在ではなく、ただの優しいひとりの男性でしかないのだと、あらためて気づかされたような気がした。
「――あら、桜子さん?」
ふと背後から声を掛けられ、桜子と巽は足を止める。振り返ると、護衛を連れた静香がこちらにゆっくりと歩いてきていた。桜子は深々と頭を下げる。
「二條さま、お久しぶりでございます」
「遠目で見かけて、一瞬どこの誰かと思てしもたわ。えらい別嬪になって」
そう言う静香は、二藍が目を惹く綸子の訪問着を身に着けていた。華美ではない上品さが、彼女のまとう張り詰めた雰囲気によく合っている。
「今日は気張りや」
「はい、ありがとうございます」
「わたくしは用が済んだら早々に引き上げるさかいに……ああそれと、今日和泉は御上の用向きでおらへんわ」
最後の方は巽へ言ったのだろうが、彼から返答はない。静香は表情は変えぬまま巽に近づくと、小声で何事か囁く。それまで終始無言であった巽が目を細める。
「……そこだけは感謝しますわ、当主」
「ええ手土産にはなるやろ。……ほな、桜子さん。また後で」
先に奥へと姿を消す静香を見送り、桜子は巽をじっと見つめる。
「今のは?」
「桜子さんは知らんでええことや」
巽が低く吐き出す。彼は不快そうにため息を落とすと、切り替えるように手を打った。
「ほな、僕らも行こか」
巽に背を押され、上座に近い席へと通される。まもなく主賓席に壮年の男性が姿を現した。
これが現一葉家当主、一葉狭霧――桜子は畏怖にも似た感情を抱く。伸びた背筋に骨張った顔立ち。あまり感情を乗せない切れ長の瞳は、静香に似た近寄りがたい雰囲気があった。
黒紋付の袖を払い、狭霧が立ち上がる。
「お集まりの皆さま」
それまで飛び交っていた歓談が、水を打ったように静まり返る。
「今年も一葉の集まりにお越しくださり、感謝します。東の天家がここまで顔を揃えるのは、この春の集いだけ。存分に楽しんでいかれてください」
主賓はそれだけ告げると、幕の張った奥へと下がってしまう。会場に一瞬静寂が落ちるも、すぐ拍手とともに話し声が帰ってくる。
「な、茶会や形ばかりて言うたやろ」
巽は桜子の手を取ると、狭霧が消えた幕の方へと歩き出す。
「巽さん、どこへ」
「あん人のとこへゴアイサツしに行くに決まっとるやん」
彼の「そのために来たんやから」という言葉に、思わず息を止める。そうだ目的を果たさねば――桜子は強張る指先を開き、腹を括ると彼の手を握り返した。
